小さな恋の話







 * * *



 ナマエが来なくなって三日経った。

 一日目。「まあ怒らせちまったしな、また来るって言ってたからそのうち落ち着いたら来るんだろう」と、リヴァイは一人静かに紅茶を啜った。
 二日目。一人分の茶葉で足りるところを、うっかり二人分ポットに入れてしまった。淹れた紅茶は当然渋く、思わず眉を顰めてしまった。
 三日目。知らず知らずのうちに貧乏ゆすりをしていた。自分自身の行為に気がついたリヴァイの口から、小さな舌打ちが飛び出した。

 ナマエの来ないこの家は静かすぎる。
 こんな時ガビやファルコが来てくれれば多少はリヴァイの気も紛れるのだが、彼らには彼らの生活がある。
 ナマエとの時間は、リヴァイの生活に染み込んでいたのだ。リヴァイ自身も、改めてまざまざとその事実を思い知った。



 三日目の夕方、もう貧乏ゆすりにも飽きてきた頃。
 玄関の扉が遠慮がちにノックされた。

 リヴァイはテーブルに立てかけてあった松葉杖を引っ掴み、両足を交互に引きずりながらドアへと駆けた(実際には早歩きした、だが)。
 バンと勢いよく扉を開けると、立っていたのはやはりナマエだった。気まずそうに俯いている。

「……入ってもいいですか?」

 ナマエは、視線を合わさずに消え入りそうな声を出した。

 可愛いな、と思ってしまった。
 恋愛感情ではない。それはリヴァイもよくわかっている。
 だが彼女のいじらしさに、リヴァイの胸は甘く締め付けられるようだった。



 * * *



 リヴァイがいつも通りに紅茶を淹れて出すと、ナマエもバスケットから焼き菓子を出した。
 以前にも何度か持ってきたことのある焼き菓子である。ナマエのお手製で、リヴァイはこの菓子をいっとう気に入っていた。だからこそナマエも持ってきたのだろう。

 互いがいつも通りに努める。それは壊したくない「いつも」があるからだ。
 だがその一方で、もう今までの「いつも」は真の意味ではやって来ないのだと、リヴァイもナマエも理解していた。
 口にした言葉は取り消せないのだ。
 ナマエの恋心がリヴァイに伝わった以上、以前の二人の関係にはもう戻れない。



「……リヴァイさんのことが好きって言ったのは、本当です。
 ……迷惑ですか?」

 ティーカップを両手で持ち、カップから上る湯気を鼻で受けながら、ナマエはぽつりと呟いた。

 温かな湯気がナマエの睫毛に触れる。
 瞳が湯気で熱くなっているのか、それとも奥から湧いて出るもので熱くなっているのか。
 自分自身をごまかすように、ナマエは湯気を睫毛で受け続けた。

「迷惑なんてことはねえよ。人に好かれるっていうのは嬉しいもんだ、いくつになってもな。
 昔、反りの合わねえ奴に『お前モテねぇだろ』って言われたことがあってな……奴に聞かせてやりてえもんだ」

 ふ、と口角を上げるリヴァイに、ナマエの口角も緩む。
 リヴァイが思い出話をするのは珍しいことだった。普段は過去の話を滅多にしない。

「私……リヴァイさんのこと知りたいんです。リヴァイさんのことが好きなのに、リヴァイさんのこと何も知らないから。
 ねえ、リヴァイさんは……アルミンさんたちと同じエルディア人なの?」
「……ああ、エルディア人だ」

 リヴァイは静かに紅茶を啜った。
 ナマエはティーカップを両手で持ったまま、だが口は付けずにじっと動かずにいる。

 リヴァイは世界中から忌み嫌われているエルディア人だった。
 もちろんナマエの中で想定していた答えだったが、本人の口から聞いて、ナマエの胸はずしりと重くなった。



 ナマエに何を聞かれても正直に答える。リヴァイはそう心に決めていた。
 恋愛対象ではなくとも、リヴァイにとってナマエは、確かに大切な存在なのだから。



「あ、あの……なんでアルミンさん達みたいな連合国大使の人と仲が良いんですか?
 新聞で読みました、アルミンさん達は生まれてからずっとパラディ島にいたから、収容区に入っていたわけじゃないんでしょ? だったらリヴァイさんと一緒の収容区だったってこともないですよね? リヴァイさんはアルミンさん達とどうやって知り合ったの?」
「ナマエ。……俺はエルディア人だが、収容区に入ったことはねえんだ」

 え、とナマエの顔は強張った。

 マーレで生まれ育ったナマエにとって、エルディア人は収容区にいるのが当たり前だったのだ。
 エルディア人が収容区外にいるようになったのは、三年前、天と地との戦いの後の話である。

 今ではエルディア人収容区は解体され、このマーレでも、エルディア人も普通の住居に住住めるようになった。
 だが、三年前まで収容区外に住むエルディア人というのは存在しなかった。身分が保証されているマーレの戦士や戦士候補生達だって、自宅は収容区内だったのに。


 ――じゃあリヴァイさんはどこに住んでいたの?

 一つの仮説に思い至ると、ナマエの声は震えた。

「も、もしかして、リヴァイさん、マーレに生まれ育ったんじゃないの? ……パラディ島にいたの……?」
「ああ、パラディ島にいた。アルミンたちと一緒にな。
天と地との戦いで、アルミンたちと一緒にこのマーレ大陸に上陸したんだ」
「待って……リヴァイさんも天と地との戦いにいたの!?」
「ああ。
 ……俺はエルディア国調査兵団の兵士長だった」

 ナマエの両手はわなわなと震えた。
 ハッと我に返ったナマエは、ティーカップを取り落とす前にとソーサーの上へと戻す。だが手の震えは止まらず、ティーカップカップはソーサーとぶつかり細かい音が鳴った。



 エルディア人かもしれないと想像はしていた。
 だがまさか、エルディア国の兵士長だったなんて。

 リヴァイの足が不自由なこと。右手の指が二本欠損していること。右目が潰れていること。
 すべて天と地との戦いに参戦したが故の負傷だと思い至れば、ナマエの背筋にぞっと寒気が走った。
 ――大きな障害だが、障害で済んだのは奇跡じゃないか。私たちは出会わなかった確率のほうがずっとずっと高かったのだ。



「驚いただろう、こんなおっさんがエルディア人の兵士長だったなんて。
 まあ巨人の力がなくなった今では巨人化は披露できねえし、そもそも俺はエルディア人だが巨人化しない血筋らしい」

 リヴァイが屈みこむように隣のナマエを下から覗くと、俯いていたナマエはゆっくりと顔を上げた。
 今日初めて、ナマエとリヴァイの視線があった瞬間だった。



「……俺が怖いか?」

 低い声に応えるように、ナマエは震える両手でリヴァイの手を包んだ。

 支えたり、介助したりという理由で二人の手が触れることは今までにも何度もあった。
 だがそうではない理由で手が触れたのは初めてである。

 指の欠けた手は、温かかった。
 いつの間にか、ナマエの手の震えは治まっていた。

「……怖くないです。どうしてかな……エルディア人の兵士長なのにね」
「そうか」

 ナマエの両親は戦争で死んだ。地ならしがやってくる前のことだ。
 兵士長であるリヴァイも、たくさんの人を殺したのだ。殺した場面を見たわけじゃないが、ナマエにだってそのくらいはわかる。
 だが、リヴァイの手は温かい。



 重ねた手をそっと離したナマエは、背筋を伸ばす。
 きちんとソファへ座りなおし、改めてリヴァイへ向かい合った。

「リヴァイさん、私リヴァイさんの恋人になりたいです」

 前回この家に来た時には、ついでのように叫んでしまった恋心。改めて向かい合って伝えるとなると照れもある。
 それでもナマエは、きちんと伝えたかった。

「お前の気持ちは嬉しい、ありがとう。だが恋人にすることはできない。すまないが」
「どうして?」
「他に愛している女がいるからだ」

 息を一つ呑んだ。
 ナマエから出てきたのは、固い声だった。

「……もしかして、私を子供だと思って適当な嘘をついていますか?」

 だって、リヴァイには女性の影がまったくないからだ。
 ナマエがリヴァイと出会ってからというもの、連合国大使のアニ、ピーク、そして子供のガビ以外に、女性の影らしきものは微塵もなかった。
 リヴァイを取り巻く女性はその三名だけだし、様子を見ていても、アニもしくはピークがリヴァイの想い人だとは到底思えない。子供のガビは言わずもがなである。

「お前に嘘なんかつかねえ。なぜだかわかるか?」

 真剣な眼差しがナマエに向く。
 ナマエが答えられずにいると、リヴァイのほうから口を開いた。

「俺とお前は対等だからだ。
 お前が年下なのは承知しているが、恋心もわからないような子供だとは思っていない。
 善良でまっとうな成人女性であるお前を、俺は対等な存在として扱っている。子供扱いして適当な嘘を吐くなんて、そんな失礼なことはねえだろう」

 まっすぐに見つめられ、ナマエは自分を恥じて俯いた。
 恥じて、そして、やっぱりこの人が好きだと思ってしまった。

「……ごめんなさい。だってリヴァイさんに女性の影なんてなかったから……」
「ああ、そりゃ影はねえ。もうこの世にはいないからな」

 リヴァイは天井を見上げ、もとい、天井の向こうに広がる空を見上げた。
 ナマエは俯いたままビッと顔を強張らせる。
 ――浅はかだった。少し考えれば、そんなことすぐに思い至るはずなのに。

「……リヴァイさんの好きな人って、どんな人でしたか?」

 ナマエが呟くと、そうだな、とリヴァイは大きく息を吐く。
 そのため息があまりに甘い色で、ナマエは見たこともない恋敵が恨めしくなった。

「俺と同じ兵士だった。頭が良くて、頑固なやつだった」

 言葉はそこで途切れる。
 語ろうと思えばいくらでも語れるが、自分を好いてくれているというナマエの前でどこまで語っていいものか、リヴァイには図れない部分もあった。
 こんな風に、在りし日の彼女のことを他人に語るのは初めてだった。



「……私じゃその人の代わりになれないですか?」

 リヴァイの太腿に、すべやかな手がそっと置かれる。

 想い人を見つめるナマエの瞳は真っ赤で、そして潤んでいた。目尻には涙がこぼれそうに溜まっている。

 ――こんなの、まるで縋っているみたいだ。

 質問の答えは聞かずともわかっている。ナマエだってそこまで子供じゃない。
 リヴァイは徐に天井に向けていた視線を戻し、ナマエを見据えた。

「なれない」
「どうして……? だって、」

 その人はもういないのに、という言葉は続かない。
 喉が絞められたみたいに苦しくなって、詰まってしまって、声が出なかった。
 もっとも、粘って食い下がったところで無駄だということはわかっている。

 ナマエの目尻からは、ぼろりと熱いものがこぼれ落ちた。
 若いナマエの頬を流れる涙は、まるで初夏の白桃に滴る朝露のようだった。

「ナマエ、これは俺の……少ない経験から得た知見だが」

 人差し指と中指が欠けているリヴァイは、薬指でそっと彼女の涙を拭う。
 今まさに振られているというのに、あまりに優しい指使いに、ナマエの胸は高鳴ってしまった。

「人の心には、穴が開くことがある。『この人でなければ』という穴がぽっかりと開くんだ。俺にもその穴がある」
「……穴?」
「そうだ。だが、誰かをその穴の形に無理やりねじ込むのは違うだろう? ねじ込むほうもねじ込まれるほうも痛えし、幸せになれない」
「……それでも! ねじ込んでよ! 痛いなんて言わないから!!
 私、リヴァイさんのことが好きなんです! 苦しいの! この恋心をどうしていいかわからないの……!」

 頬にぼろぼろと涙をこぼして叫んだナマエは、最後は両手で顔を覆った。

 居た堪れなくなったリヴァイは、すまねえな、とそっとナマエを頭から抱く。
 背中にも腕を回すと、ナマエは嗚咽しながらも自らの身体をリヴァイの胸へ素直に預けた。

 こんな抱擁は、これが最初で最後だろう。
 ナマエは、きちんと理解していた。

 好きなんです、どうしても好きなんです、と咽び泣く苦しい声が、狭い家を満たす。
 叶わない恋心だと、ナマエはちゃんとわかっていた。わかっているからこそ最後まで駄々を捏ねたかった。
 リヴァイも、駄々を捏ねさせてやりたかった。いつまででも。
 だがこうしているばかりでは、彼女のためにならないということもわかっていた。



 リヴァイはナマエの背中を優しくさすり続け、穏やかな声で言った。

「ナマエ、安心しろ。恋はいつか終わる」

 思いがけない言葉に、ナマエは涙に濡れた瞳を見開く。
 固い胸の中から顔を上げると、リヴァイの左目と唇はわずかに、だが確かに弧を描いていた。

「……じゃあ、愛は? 愛は終わるの?」

 答えは、ない。
 リヴァイは静かにナマエを見つめるのみだ。



 恋はいつか終わる。
 胸の中を吹き荒れる嵐もいつかは静まる。
 だが愛は終わらない。
 リヴァイの、もう空の向こうにいる彼女への想いは、きっと永遠だ。



 背中をさするリヴァイの手は温かい。
 ナマエの求めている形とは違うが、これもまた一つの愛の形なのかもしれない。



 ナマエの目からはまた涙が湧き出した。泉のように、澄んだ水がとめどなくあふれ続ける。
 リヴァイの固い胸にぐしゃぐしゃに濡れたまつげをぐっと押し付けると、ナマエの頭上で優しい吐息が一つこぼれた。



 その日、リヴァイはいつまでも、ナマエの背中をさすり続けていた。





【小さな恋の話 Fin.】



   

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