俺達の三日間戦争





04



 * * *



 ハンジの家に着いたのは、日付が変わる間際だった。
 インターホンを鳴らすとハンジは素直に玄関のドアを開け、眉を下げて笑う。

「あーあ、バレちゃった。だから言ったでしょナマエ、遅かれ早かれバレるんだからって」

 そう苦笑しながら、廊下の先のリビングへと向かって大声を出した。ナマエは奥のリビングにいるらしい。
 俺の第六感も捨てたもんじゃない。

「ナマエいるんだろ、上がるぞ。おいナマエ……」
「待って待って、勝手に進まないで」

 靴を乱暴に脱ぎ捨てドスドスと廊下を進むと、リビングの直前でハンジに制された。

「リヴァイ、今私は全面的にナマエの味方だから、勝手にリヴァイをナマエの前に出すわけにはいかない。ナマエは三日前に連絡をくれた時、『今はリヴァイの顔を見たくない』って言ってたんだから。ナマエの許可が下りてからじゃないとリビングに通せないな」

 神妙な顔で言うハンジに黙って頷いた。ハンジはナマエを匿っていた、ということだ。
「全面的に味方」というのは、あまりハンジらしくない。このメガネはとぼけたところもあるが、いつも多角的に物事を見ている。
 つまり、ますますナマエの妊娠が現実味を帯びてきたわけだ。緊張でごくりと唾を飲み込む。

「ナマエ」

 ハンジがリビングの扉を開ける。俺は入室を許可されていないので廊下で待機だ。
 開きっぱなしのドアの向こうを覗くと、ナマエの小さな頭がソファの背もたれから覗いているのが見えた。

 ホッとした。
 ナマエが、いる。
 膝から崩れ落ちそうになるほど安堵した。

「リヴァイ、来たよ。どうする? 話す?」

 ハンジはナマエの隣に腰掛け、そっと寄り添う。

「私としては、きちんと話すべきだと思うけど」

 小さな子供に問いかけるような、優しく穏やかなハンジの声。
 声は決して大きくなかったが、テレビのついていない部屋は静かで、ドアの外にいる俺にもよく聞こえた。
 しばらくナマエは黙ったままだったが、数秒の間を置いて、ソファの背もたれから覗く頭がこっくりと縦に揺れる。そこでようやくハンジから入室を許可された。
 ハンジは気を利かせて、「なんか飲むもの買ってくるから」と俺達二人だけになれるよう外出してくれた。



「ナマエ」

 弱っているだろうナマエにこれ以上ダメージを与えないよう、できる限り穏やかな声で、ゆっくりと歩み寄る。
 ソファの前、ナマエの正面に片膝をついて跪いた。久しぶりにナマエの顔を見たわけだが――ぐ、と思わず息を呑んだ。
 目が虚ろだ。
 頬が幾分か痩けたように感じられる。目の下のクマがひどい。髪の毛はぎとぎとで、しばらく風呂に入っていないのかもしれない。
 ――こんなにやつれているなんて。

「ナマエ、悪かった。俺が悪かった」

 跪いたままナマエの右手をそっと取る。掌は温かくて、すっかりやつれた彼女から熱を感じられたことに心底ほっとした。

「ちが……私も、ごめんなさ……」

 弱々しく首を振るナマエの声は掠れている。
 ぎゅっと小さな手を握り、下からナマエの顔を覗き込んだ。

「浮気なんて絶対にしていない。本当だ、信じて欲しい。お前を心配させるような行動はもう決して取らない」
「うん、わかった……あのね、もう怒ってなくて。実はあの、意地張ってるうちに、」

 そこまで言ってナマエは突然口を噤んだ。不自然にぶつ切れた言葉の続きを待っていたが、いっこうにナマエの唇は開かない。
 元々良くなかったナマエの顔色が、見る見るうちに青くなる。声を掛ける間もなく、ナマエは突然ソファから立ち上がり、両手で口元を押さえて駆け出した。トイレへ向かって。

「おい、ナマエ!?」

 何が起こったかよくわからないまま、猛然と走るナマエの後を追いかける。ナマエは乱暴にトイレのドアを開けると、洋式便器の前にべたっと座り込んだ。
 閉める間もなかったのだろう、トイレのドアは開けっ放しだ。ナマエは便座の蓋を勢いよく開けると、そのまま便器を抱きしめる。汚えことをするんじゃねえと普段なら言うのだろうが、どうやらそういう状況ではない。
 そうして俺が聞いたのは、ナマエの可憐な唇から出たえげつない嘔吐音だった。

 俺は今、便器を抱きしめ嘔吐くナマエを初めて見ている。

 十年付き合ってきて、彼女が吐くところなんて見たことがなかった。ナマエは酒に溺れるようなこともないし、若かった頃も酒で失敗した話は聞いたことはない。体調を崩した時も吐くようなことはなかった。
 そのナマエが、凄まじい音を立てて嘔吐している。トイレの床に座り込んで、便器に抱きつきながら。

 あまりの光景にしばし呆然としていたわけだが、突然ハッと思い至った。
 もしかして、これがつわりか?



「リヴァ、ごめ、ドア閉めて……向こう、行って」

 一頻り吐いたナマエは、ようやっとガラガラの声を出す。
 我に返った俺は反射的に床に膝を付いた。ナマエの肩に手を添え、反対の手で小さな背中をさする。
 便器の中にはまだ流していない吐瀉物があった。嘔吐音の割には量が少ない気がする。
 もしかしてずっと吐いていたのだとしたら、もう胃の中に物も入っていないのではないだろうか。

「ナマエお前」
「汚いから……近寄らないで、リヴァイが汚れちゃう。こんなところ見せて恥ずかしい……」
「そんなことはどうでもいい!」

 強い口調で言うと、ナマエは観念したように眉尻を下げて笑った。

「ごめん、本当はもっとちゃんとした形で……せっかくなら、ちゃんとしたシチュエーションで伝えようと思っていたんだけど」

 ナマエは、ふう、と一つ息を吐き、唾液と吐瀉物で汚れている口をティッシュで拭う。
 そうして、俺に向かってきちんと正座で座り直した。トイレの床だが。

「あのね、これ、つわりなの。
 ケンカした日、ネットカフェとかに泊まろうと思ってたんだけど、家を出て歩いているところで突然つわりが始まっちゃって。あまりに吐き気が強烈だから、咄嗟にハンジに助けを求めたんだ。
 リヴァイが連絡をくれていたのもしばらく気がつかなくて。この数日間本当に体調が悪くて、とてもスマホをチェックできる状態じゃなかったの。
 つわりって症状や重さに個人差があるらしいんだけど……なんか私の場合、重い吐きづわりみたい。食欲もなくて、無理に食べても全部吐いちゃってね。湯気ですら気持ち悪くてお風呂も入ってないんだ、汚くてごめんね。
 仕事もお休みしちゃった。会社に連絡したら、スーパーバイザー(SV)が事情をよく理解してくれて……ヘルプを調達するからしばらく休んで良いよって言ってくれたの」



 感情が渦を巻く。
 この感情を、何と呼ぶのだろう? 俺にはわからない。こんな感情を経験するのは初めてなのだ。
 ただ目を瞠って、ぼろぼろにやつれたナマエを見つめることしかできない。
 ナマエは、俺たちの子供を腹に宿して、こんなに辛い思いをしてくれていたのだ。
 何を言えばいいのかわからない。



「リヴァイ」

 一つも声が出せない俺の代わりに、ナマエのほうが声を出した。
 まっすぐ俺を見据える瞳には、確かな光が宿っている。

「リヴァイと私の赤ちゃんができたの。喜んでくれる?」



 瞬間、ナマエを掻き抱いた。
 無我夢中で吐瀉物の欠片がついたナマエの唇にキスをする。

 三日前、ケンカしてナマエが家を出た時には、まさかこんな事になるとは思いもしなかった。この三日間で俺達は、くだらないことでケンカして、互いに心を痛めて、そして今、人生で最大の幸せを味わっている。
 とんでもなく濃い三日間だ。俺は多分この三日間のことを一生忘れないだろう。

「ナマエ」

 何度も何度もキスをしてようやくナマエの唇を解放した俺は、彼女をきつく抱きしめて顔を見られないようにした。
 本当は涙がこぼれそうなほど嬉しかったが、この場面でうっかり泣いてしまっては男が廃る。泣かずに、きちんとナマエに伝えなくてはいけないのだから。

「愛してる。ナマエも、お腹の子も、この世で一番愛してる。結婚しよう」



 狭く、吐瀉物の臭いが充満した他人(ハンジ)の家のトイレ。まさかプロポーズがこんな場所になるだなんて。
 それでもトイレの床に座り込んだナマエは泣きながら笑っているから、まあ、これでいいんだろう。
 俺達はいつまでも、トイレの中でキスをしていた。



 それから数十分してハンジが帰宅してきたわけだが、ハンジはトイレで抱きしめ合う俺達を見てヒステリックに叫んだ。

「とりあえずさあ、便器のゲロは流そうよ!? ね!?」





【俺達の三日間戦争 Fin.】





   

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