俺達の三日間戦争





03



 どう弁解しようか頭を悩ませ、だが「良い弁解」なんてものは存在しない。

「嘘じゃねえよ……いるんだ、そういう母親も」

 ため息混じりにそう言うしかなかった。
 だがナマエは、きつく握った拳を震わせて激高した。

「いないよ、普通! そんなの変だよ!」
「んなことはわかってる、でもなあ現実にいるんだよ!」

 思わず声を荒げると同時に、ナマエの肩がびくっと震える。
 しまった。こんな風に大声でねじ伏せるつもりじゃなかったのに。

 だが今日は疲れていたのだ。
 出勤早々彼女に呼び出され、べったりとひっつかれ、元々授業準備に当てようとしていた時間をごっそりと奪われ、結局授業準備もろくにできないまま、16時から21時30分まで休みなく黒板の前で声を張り上げてきたのだ。もちろん、疲れが声を荒げた言い訳にはならないが。

「悪かった、怒鳴るつもりじゃなかった」、そう謝ろうとした。
が、開きかけた口が止まる。キッと俺を睨み付けるナマエの目には、涙が分厚く溜まっていたのだ。
 ああ、泣かせてしまった。事態はどんどん良くない方向へと進んでいる。
 俺は声を出すタイミングを失ってしまった。

「……わかった、もういい」

 ナマエの口から出たのは、ひどく硬い声。
 彼女が俯いた瞬間、大粒の涙がこぼれたのが見えた。だがナマエは涙をこぼしたことを認めないかのように、手の甲で乱暴に目を拭う。
 一言も発しないまま一度自室に引っ込んだナマエは、鞄を引っ掴みドスドスと足音を立てて玄関へ戻ってきた。そのまま靴を履きだすもんだからこれはまずいと細腕を掴む。

「おい、どこいくんだよ」
「触らないで! もうリヴァイと一緒にいたくない!」

 ヒステリックに叫んだナマエに、バッと腕を振り払われる。
 反射的に、カチンときてしまった。

 十年付き合ってきて、「一緒にいたくない」と言われたのは初めてだ。
 言葉は重い。重く心を抉ってくる。
 思った以上に喰らっている自分がいた。

 誤解だって言っているのに、十年間浮気なんて一度もしたことねえのに、ナマエだって十分それをわかっているはずなのに。
 そもそも、今までだってナマエ以外の女性と二人きりになったことは何度もある。働いてりゃそんな場面はごまんと出てくるし、ナマエだって俺が女性と二人でいるところを見るのは初めてじゃない。
 それなのに、なぜ今日だけこんなにわからず屋で頑ななんだ?

「わかった、勝手にしろ!」

 口から勝手に滑り出してきたのは、買い言葉だ。口に出してからまた「しまった」と思うが、後悔は先に立たない。
 そのままナマエは、俺と目を合わせないままドアを乱暴に開けた。
 バタン! 重い鋼板のドアが荒々しく閉まる。
 玄関はまるで台風が過ぎ去った後のようにシンと静まり返った。



 互いに頭を冷やすべきなんだろう。
 俺も言い過ぎたが、ナマエもかなり感情的だった。

 そもそも帰宅した時から、ナマエの様子はおかしかった。
 あんな風に、一方的にヒステリックに主張するナマエを見たのは、十年付き合っていて初めてな気がする。ナマエのほうも腹の虫の居所が悪かったのかもしれない。

 もう夜も深いし、ナマエが今日どこで寝泊まりするのかは気になる。
 だがこの辺は人通りも街灯も多く、さらに交番も近い、比較的安全な通りだ。それに鞄を持って行ったということは、財布もスマホも手元にあるはず。
 ナマエも大の大人だ、今日の寝床は自分できちんと確保するだろう。

 一日置けば、二人とも冷静になれるはず。
 ナマエはきっと、明日の晩には帰宅する。



 * * *



 ……と思ったのが、約24時間前のことだ。

 ケンカした翌日、時刻は23時前。
 仕事が終わって塾からまっすぐ帰宅したのだが、ナマエの姿は未だ見えない。もう帰ってきているだろうと思っていたのに。

 昨晩ナマエが出て行ったわけだが、朝になっても帰ってこなかった。出先から直接職場へ行ったのだろう。
 だがベーカリーでの仕事が終われば家へ帰ってくると踏んでいた。
 ナマエが仕事を終える昼過ぎには、俺は既に出勤して家にいない。俺が帰宅する深夜には、ナマエはもう寝ていればいい。そうすれば、例え感情に整理がついていなくとも帰ってきやすいと思ったのだが。

「しょうがねえな、俺が先に折れてやるか」

 大きな独り言は自分に対する言い訳だ。
 本当のところは、ナマエが心配、ただそれだけだ。

『今どこにいるんだ? いい加減帰ってこい』

 スマホでメッセージを送ったが既読マークはつかない。
 まあ、この時間じゃ寝ているかもしれねえな。明日の朝にでもメッセージを見れば、帰ってくる気にもなるだろう。
 そう思って、その夜は二日目の独り寝をした。



 然して、更に翌日もナマエは帰ってこなかった。
 いよいよ心配になってきた。帰ってこないだけじゃない。メッセージにも既読マークがつかないのだ。
 三日目の独り寝をして夜が明けると、俺は出勤前の時間を使ってナマエの職場であるベーカリーへと向かった。メッセージを未読スルーし続けるとはいい度胸だが、とにかくナマエが無事でいることを確認できればそれで良い。
 だがナマエの同僚であるベーカリーの店員に尋ねると、店員は事も無げに言った。

「ナマエ・ミョウジですか? 本日はお休みをいただいております」

 ガツンと頭を石で殴られたようだった。

 仕事を休む? ナマエが? 
 今日は出勤日だったはずだ。互いの勤務スケジュールはアプリで共有しているから俺にもわかる。
 ナマエが欠勤だなんて考えられない。あいつは仕事人間で、台風だろうが発熱しようが、這ってでも出勤しようとするやつだ。(発熱の時はさすがに俺が出勤を止めた)
 店長となってからは特にそうだった。店の運営を任されたと誇らしげで、より一層仕事に責任感を持つようになった。
 ナマエが仕事を休むだなんて、ただ事じゃない。

 声を失った俺を、店員は怪訝そうに覗き込む。

「あの、ナマエ・ミョウジならしばらくお休みをいただく予定ですが」
「……しばらく!? しばらくってどのくらいだ!?」

 くわっと目を剥くと、罪なき店員は恐れ戦き、一歩後ずさった。

「さあ……しばらく、としか聞いておりません」



 * * *



 ただケンカに腹を立てているだけだとは考えにくい。
 仕事を休むだなんてまったくナマエらしくないし、俺に腹を立てているだけなら仕事まで休む必要なんてないのだ。

 気もそぞろだがなんとか授業(仕事)をやり過ごし、終業後はダッシュで家へと帰る。
 やはりナマエは帰ってきていない。帰ってきた形跡もない。玄関もリビングも、俺が家を出た時の状態を完全に保っているのだ。
 人が入れば多少なりとも空気に熱が生まれるものだが、部屋はシンと冷えている。

 四日目の独り寝をする気にはなれなかった。眠れるわけがない。
 徹夜してでもナマエを探しに行かなくてはならない。
 ナマエが俺に腹を立てているだけなら良いのだ、無事を確認したらすぐに退散してやる。
 だがどうしてもそうは思えない。

 ナマエは一体どこへ行ったのだろう?
 勤務場所周辺や、家の周りにはいなそうだ。実家だろうかと一瞬思ったが、その線は薄い。ナマエの両親は今仕事で海外に駐在しており、実家の一軒家は人に貸しているはずだ。
 とにかく、範囲を広げて探してみるしかない。

 俺は壁のフックに引っかけてある車のキーを毟り取った。
 が、慌てて取ったために手からキーが転がり落ちる。

「チッ、クソッ」

 急いでいる時に限って。キーは、チェストと壁の間に入り込んでしまった。舌打ちしながら狭い隙間に指を伸ばす。
 キーを拾う際、チェストと壁の間にキーの他にも何かが入り込んでいることに気が付いた。なんだ……紙のような。
 チェストの上に置いていたもんが、何かの拍子に落ちて隙間に入り込んでしまったのだろう。
 キーのついでに拾ったそれは、見慣れない白封筒だった。

「なんだこれ」

 何気なく拾った封筒を開けると、白黒の写真が一枚現われる。だがこれは、普通の写真ではない。
 用紙もいわゆる普通の写真用紙ではなく、薄くペラペラしていた。何よりも画像が不鮮明で、何が写っているのかまったくわからない。人物や風景を写したものではないことだけはわかる。
 その不思議な写真の上部には、英字と数字の羅列があった。
 英字の羅列はどれもこれも読めない。英字だが英語ではないのだ。何が書かれているのかさっぱり解読できない。

 唯一読める数字の羅列があった。
『20○○/〇/〇 11:11:26』
 これは、日付と時刻だろう。ちょうど三日前の日付だ。

 ――俺達がケンカした日じゃねえか?

「11:11:26」、午前11時11分26秒ということだろう。
 そうだ、あの日ナマエは非番だった。仕事が休みの日の午前中に、この写真を撮ったということか?

「…………あっ!?」

 唐突に、今手に持つそれが一体なんなのか閃いた。同時にどくんと心臓が一際大きく収縮する。
 思わず写真を持つ手に力が入った。ぺらぺらの写真はくしゃりと歪む。

 これは、エコー写真か?



 産婦人科で……妊婦健診でもらうやつだ。
 実際に自分の目でエコー写真を見たことはないが、テレビで見た記憶はある。そっくりなのだ、記憶の中のエコー写真に。

 これは誰のエコー写真だ? この家にあるということは、十中八九ナマエのものだろう。
 つまり……ナマエは、妊娠していた?



 全てが一本の線に繋がっていく感覚だった。
 ナマエは妊娠していた。そう考えれば、全部辻褄が合う。



 例えば、三日前。
 このエコー写真を撮った日に妊娠が判明したとしたら、どうだ?

 きっとナマエは、俺に子供ができたことを話すタイミングを見計らったはずだ。どう話そうか、なんて打ち明けようか、ナマエならきっとそう考えただろう。幸せの絶頂だったに違いない。
 そんな日に、俺が他の女と二人で会っていて、しかもベタベタとくっついているところを目撃してしまったとしたら?
 物でも人でも、普通に落ちるよりも上げてから落ちるほうが衝撃はでかいのだ。

 ナマエが不思議なくらいヒステリックだったのも納得できる。
 腹の中に子供がいる状態なら精神的にも不安定なはずだ。女性は妊娠するとホルモンのバランスが激変し、情緒不安定になるとどこかで聞いたことがある。
 その状態で俺の浮気を疑ったナマエは、どんなに不安だっただろう。



 車のキーを握りしめ、靴をつっかけ玄関を飛び出し、そのまま駐車場へと猛ダッシュした。
 深夜となると少し冷える。俺はこんな冷える夜に、腹に子供がいるナマエを一人で行かせちまったのか? 本当に後悔は先に立たない。車の鍵を開けるのももどかしい。
 ナマエはどこだ? どこにいる?
 職場にも来ていない、実家の線は薄い。友人は……と考えたが、俺はナマエの友人関係全てを把握しているわけじゃない。
 だが――一人、ふと思いついた人物がいる。
 俺達の共通の友人、ハンジだ。

 確証は何一つない。縋っているのは自分の第六感だ。
 それでも、藁をも掴む思いでハンジの家へと車を飛ばした。




   

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