俺達の三日間戦争





02



* * *



 予想通り、塾の前を通ってもリヴァイの姿は見られなかった。塾だってまだ開校していない。講師達はもう勤務時間だが、開校は15時からだ。
 結局私はそのまま塾の前を通り過ぎ、家路につくことにした、のだが。



 塾から少し離れた道沿いのカフェの中に、見覚えのある姿を見つけた。
 窓際のソファ席に座る小柄なシルエット。着ている物も見たことのあるスーツだ。
 リヴァイだった。
 もう勤務時間なのに、こんなところでお茶をしているんだろうか? もしかしてサボりかな、リヴァイもそういうことするのかな、なんて。リヴァイの普段見ない一面を見られたことに、どこか微笑ましいような気持ちになる。

 だが次の瞬間、顔が硬直した。



 テーブルを挟んでリヴァイの向かいに座っているその人影。
 女性だと認識した瞬間、反射的に植木の陰に身を隠してしまった。
 ――女性と? 二人きりで?

 植木の陰から窓際の席の二人を眺めるが、この位置からではリヴァイの顔は見えず、ソファの背からはみ出している後頭部しか見えない。だがテーブルを挟んで向かいに座る女性の顔はよく見えた。
 柔らかい素材のブラウスを着た女性は妖艶に微笑んでいる。共通の知人ではない、全く知らない人だ。何か喋っているようだが、さすがに内容はわからない。
 それでも私は、二人が何を喋っているのか知りたいと無意識に思っていたのだろう。読唇術を使えるわけでもないのに、じっと女性の口元を見つめていた。
 真っ赤な口紅がべったりと塗られた唇が動く。動いて、時々止まって、弧を描く。
 否が応でも女を感じさせるその唇に、生理的な嫌悪感を抱いた。

 ……二人はどういう関係なのだろう?
 リヴァイが仕事をさぼってカフェでお茶する間柄の女性? そんなの、まったく心当たりがない。
 生徒の母親だろうか? ……見えないこともないが、高校生の母親にしては少し若すぎるかもしれない。いや、20歳前後で出産していたとしたら、まだ40歳に満たないくらいだろうし……。
 そんなことを植木の陰で悶々と考えていると、突然、ソファに座っていた女性が立ち上がった。目を凝らし次の動きを注視する。

 ハッと息を呑んだ。
 テーブルを挟んで向かいに座っていた女性は、リヴァイの座っている二人掛けのソファへと席を移した。リヴァイの隣に座ると、彼の肩にしなだれかかる。女性の後頭部がリヴァイの肩に乗った。
 女性の顔は見えなくなった。見えるのは、ソファの背からはみ出した二人の後頭部のみになる。

 ――え、待って。何? どういうこと? なんでくっついているの?
 混乱した。
 先ほどとは違う種類の汗が、額から噴き出している。
 この汗は、暑さのせいでも興奮のせいでもない。

 浮気?
 リヴァイが?
 まさか、リヴァイに限って、そんなこと。

 十年間交際してきて、彼の浮気を疑ったことは一度もない。
 潔癖な彼は、そういう行為からは一番遠い存在だと思っているからだ。思っていたからだ。だが今、私の目の前で、知らない女性が彼にしなだれかかっている。
 脳内の情報と眼前で起こっている事実が一致しない。

 へな、と膝から力が抜ける。植木の下の土に膝をつくと、通行人達は怪訝そうにこちらを見て、だがみんな声を掛けることもなく去って行った。
 結局私は、女性とリヴァイを最後まで見届けることも、カフェの中へと怒鳴り込むこともできなかった。
 どのくらい膝を付いていたのか自分でもわからない。
 ようやく立ち上がった時には、ズボンの膝部分が土の湿気を吸ってわずかに湿っていた。



 その夜は、リヴァイが帰ってくるのを起きて待っていた。
 本当はサプライズパーティーのために起きていようと思っていたのに、とてもそんな気分じゃなくなった。夕食を食べる元気もない。
 もう寝てしまおうかと一旦はベッドに潜ったのだが、布団の中で昼間の女性が勝手に頭に思い浮かんでくる。耐えきれずにベッドから抜け出しリビングのソファに座っていた。
 この問題をきちんと消化しなければ、眠気なんてやってくるはずもない。

 もし、もし、リヴァイが浮気していたら……どうしよう。
 十年間二人で温かい時間を築いてきたつもりだったが、私だけがそのつもりだったのだろうか。リヴァイにとって私は、大切にするに値しない恋人だったのだろうか。
 ……もしかしたら恋人だと思っていたのは自分だけで、私のほうこそが浮気相手だったりしたら……
 そうしたら、どうしよう。
 ……この子も、どうしよう。

 冷静に考えれば、浮気なんてあり得ないとわかる。
 生活リズムがまったく違うといっても、リヴァイが私の寝顔にそっとキスをしていることは知っていた。私のほうだってリヴァイの寝顔にキスをしている。
 そういう小さな幸せが積み重なった十年なのだ。リヴァイが私を大切にしていることは明白だ。
 だが、妊娠が発覚した当日に、見ず知らずの女性が子供の父親にしなだれかかるところを目撃してしまったわけで。私は冷静じゃなかった。冷静になれなかった。
 後から思えばだが、この時既に妊娠していたのだから、私のホルモンバランスは大きく崩れていたのだろう。精神的に不安定だったのは理の当然である。



 いつもならもう寝ている時間帯。テレビもつけない静まり返った部屋で、一人じっとソファに腰かけている。
 時計の秒針の音だけが聞こえる。俯いてローテーブルの木目を見つめていた。

 ガチャガチャ、と開錠の音がして、静寂が破られた。
 リヴァイが帰ってきた。



 * * *



 玄関のドアを開けると同時に、慌ただしい足音が近寄ってきた。
 珍しいことにナマエが起きている。23時を回っているというのに明日の朝は大丈夫なのかという心配の気持ちはあったが、数日ぶりに起きているナマエを見られる嬉しさのほうが上回った。
 だが、小走りで廊下を駆け寄ってくるナマエの顔は強張っている。
 瞬時に何かがあったと悟った。

「あの女の人、誰?」
「は?」

「おかえり」も言わずに開口一番そう言って、まだ靴も脱いでいない俺の腕にしがみつく。
 ナマエにしては珍しい不躾な態度に、眉間に皺が勝手に寄った。が、俺はナマエの腕をゆっくりと剥がし、至って冷静に言った。

「ただいま、ナマエ。お前起きていて大丈夫なのか?」
「ねえ、あの人誰? トロスト通りのカフェで見たの」

 俺の挨拶も無視し、尚も腕にきつくしがみつくナマエに若干ムッとする。
 だがナマエの顔は強張ったままだ。一体なんだっつうんだ?

「あの人」。「あの女の人」。
 言われた人物が誰の事だかわからず、脳内で今日出会った女性を順に思い浮かべる。ナマエは何のことを言っている?
 同僚の顔を数人思い浮かべたところで、ハッと気が付いた。
「カフェ」。ナマエがどの女性を指しているのか、ここでやっと理解した。
 と同時に、マズいなという気持ちが湧き上がる。思わず小さな舌打ちが漏れた。

「……生徒の母親だ」

 嘘ではない。真実だ。
 だがナマエは俺のその回答を良しとせず、見る見るうちに顔を真っ赤にしていった。
 漏らした舌打ちは、ナマエに面倒くさくて不快なもんを見せてしまったという後悔から出たものだったが、ナマエはそう取らなかったらしい。
 俺は今、怒ったナマエの顔を久々に見ている。

「……何それ? 生徒の母親?
 仮に生徒の母親だったとして、私に見られちゃ都合の悪いものだったんでしょう? だからそんな風に舌打ちが出るんでしょ?」

 ナマエに見られちゃ都合が悪い。
 それはそうなのだが、疚しいというよりは面倒事をわざわざナマエに知らせたくない、その思いから出た舌打ちだったのだが、誤解させてしまったようだ。

「ていうか生徒の母親って……母親があんな風に、カフェで、子供の先生の隣にぴったりひっついて座って、肩にしなだれかかるの?
 私が見た時は13時をとっくに回ってた。リヴァイ、勤務時間じゃないの? 仕事をさぼって二人で何してたの? お茶してたの? デートってこと?
 本当は今日休みだった? 私に出勤って嘘吐いてあの人と会ってたの?」
「おい、ちょっと落ち着け」

 ナマエは顔を真っ赤にしたまま、ふるふると震え始めた。
 ああ、まずい。嘘だと思われている。



 もちろんナマエの言う通り、「一般的な生徒の母親」は、カフェで俺の肩にしなだれかかったりしない。
 だがあの母親は特殊なのだ。

 彼女の一人息子は、俺の生徒だ。半年ほど前から俺の講義を受けている。息子のほうは至ってまじめな、普通の高校生なのだ。
 事態が変わったのは一月(ひとつき)前のこと。彼女に、今日と同じカフェに呼び出された。
 時々生徒の親から、進路や受験についての相談があると呼び出されることがある。今回もその類だろうとカフェへと向かったところ、あろうことか彼女に想いを告げられた。

「私、リヴァイ先生のことが好きなんです」

 あまりに衝撃的で、開いた口が塞がらなかった。
 その母親は、「息子の先生」である俺に熱を上げていると、まあそういうことになる。

 大学を卒業してからずっと塾講師を生業としているが、生徒の親から告白されたのはさすがに初めてだった。
 心の底から困惑したし、彼女には申し訳ないが若干……いやかなり引いた。
 というか、生徒の親と塾の講師なんてそんなに関わることも多くないし、一体どこに惚れる要素があったっつうんだ? 俺にはよくわからない。
 旦那さんとは随分前に離婚したらしい。つまり彼女は独身であり、恋愛すること自体はまったく自由だ。親が恋愛することで子に悪影響がなければとは思うが、その辺は家庭の問題なわけで、俺が口を出す権利はない。
 だが、その恋愛感情が俺に向くことは非常に困る。
 俺にはナマエがいるし、そもそも彼女に全然興味がない。

 彼女はそれ以来「息子のことで相談したいことがある」と俺を呼び出すようになった。
 想いを告げても俺が全く靡かないことをどう思っているのかは知らない。もしかしたら意地になっているのかもしれない。
「生徒のことで」と言われれば、どうしても断れない。それが俺の仕事だからだ。悪いことに彼女はそれを学んでしまった。

 大学受験まで一年を切っている息子のほうは、母親のその行動を知ってか知らずか、健気に日々勉強に向きあっている。
 ……いや、恐らく知らないのだろう。知っていて尚、こんな風におくびにも出さない態度が取れるほど高校生は大人じゃない。
 何も知らない生徒を思えば、受験生の息子を思えば、彼の母親を邪険に扱い一蹴することはどうしてもできなかった。
 一蹴したところで、周りを巻き込んで騒ぎ出す可能性は大いにある。息子の耳に入ることだけはどうしても避けたかった。
 母親が塾講師に言い寄って困らせているなんて息子が知れば、ショックを受けて心を痛めるに決まっているのだから。

 そうしてこの一月(ひとつき)の間俺は、彼女に呼び出される度に出向き、だがやんわりと釘を刺していたわけだ。残念ながら、糠に釘だったのだが。
 結果として彼女は増長し、今日はべったりと身体にひっつかれてしまった。
 あろうことかそれをナマエに見られ、今、こんなトラブルを招いている。




   

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