傀儡は巡る





02





 * * *



 週末、「今から行くから」というメッセージが来た1時間後、ピンポーンとアパートのインターホンが鳴った。サムターンキーを回してドアを開けると、千葉君が「よ」と左手を挙げる。
 そのまま自分の家のようにずかずかと上がり込んだ千葉君は、ベッドにどっかりと腰掛けた。テレビが勝手につけられ、狭い部屋に空々しい笑い声のSEが響く。

 いつも通りの千葉君。いつも通りじゃないのは私だけ。
 今日はいつも通りにしてはいけない。
 気まぐれで多忙な千葉君に会えるのが、次いつになるのかわからない。
 今日言わなければ。今日けじめをつける。



「……なあ、なんかあった?」

 ベッドの上に腰掛けた千葉君は、視線をテレビから私の顔へ移して言った。

「……なんでそんなこと聞くの?」
「だってお前、ひどい顔してるぜ」
「ひどい顔って……」
「ひどい顔だよ。これから死にに行くみたいな顔してる」

 笑いもせずに、真顔で言う。冗談を言っている風でもない。
 多分、心配してくれているのだろう。いつもと様子の違う私を。
 千葉君はそういうところがある。私なんて複数の女の一人でしかないのに、中途半端な優しさを出さないで欲しい。
 そういう千葉君の言動に今まで散々振り回されてきたのだ。振り回された側は余計に疲弊するのが、彼にはわからないのだろうか。



 死にに行く顔。
 言い得て妙なのが笑える。

 今から私は死にに行く。千葉君に溺れている、ダメな自分は今日ここで死ぬ。
 死んで、新しい自分になるのだから。



「お話があります」

 敢えて仰々しく言って、カーペットの床に正座した。
 死にに行く顔をしている私の話を真剣に聞いてくれるつもりなのか、千葉君は黙ったままベッドから下りると、テレビを消して私の前に胡座をかく。
 身体の大きな千葉君が動くと、ベッド横のパキラがつられて揺れた。

 鼻から大きく息を吐く。
 声を震えさせてはいけない。

「……あの、ね。私、もう千葉君とは会いません」

 テレビの消された部屋が、シンと静まりかえる。
 長い前髪の奥に覗く切れ長の目が、わずかに瞠られた。

 言った。とうとう言った。
 大丈夫、声は震えていない。私はちゃんと言える。続けられる。

「……お互い、春からは新生活が始まるし。私、家もこのアパートじゃなくて、就職先に近い都内のアパートに引っ越すの。
 千葉君も四月になったら、呉の幹部候補生学校でしょ。だからまあ、広島と東京じゃ物理的にも会えなくなると思うけど、きちんとけじめとして言っておこうと思って。会うのはこれで終わりにしましょう」

 千葉君は、まばたき一つせずにジッとこちらを見つめている。一言も発さずに。
 ……「わかった」とか、「そうか」とか、なんとか言ってくれればいいのに。
 千葉君が何か言ってくれないと、私がこの空気に押し潰されちゃいそうじゃない。

「そ、それに」

 沈黙に潰されるのが怖い私は、空白を埋めるために仕方なく自ら口を開く。
 大丈夫、大丈夫。私は冷静だ。

「同じ部署に配属された内定者で、私のことを気に入ってくれている男の子もいるの。私と仲良くなりたいって……そう言ってくれているの。
 お付き合いしてもいいかなって、思ってる。一緒に切磋琢磨していければ、良い関係を築けると思うし……」

 大丈夫、大丈夫、まだ大丈夫。
 きちんと冷静だから。

「も、もう、だからもう、ここには来ないで」

 しまった、と思った。
 最後、声が震えてしまったのだ。

 大丈夫、まだ立て直せる。きちんと立て直せる。
 今まで楽しかったって、笑顔で、

「千葉君との時間は、楽しかっ、……」

 声が、出なくなった。
 目の奥から熱が勝手に湧いて出る。自らの意思に反して勝手に湧き出すもんだから、コントロールができない。

「……楽しかった、っ……でもっ、辛かった!!」

 声が独りでに大きくなった。ぶわりと膨らんだ熱は目尻から一気に溢れ出し、頬をどんどんと流れてゆく。
 ああ、最後くらい泣かずにいたかったのに。

「辛いの! もう嫌なの! 千葉君も、千葉君を好きな自分も!! もう耐えられないの!!
 千葉君に何人も女の子がいるのも最初は我慢できた、でももう我慢できない! 千葉君を想って週末を空けている自分が嫌なの!! 千葉君のために料理をする自分も嫌なの!!
 ずっと心が落ち着かないの、安心できるのは千葉君に抱かれている時だけ……セックスしてる時くらいしか、千葉君は私のものになってくれないから!! それも終わればまた不安になって……週末が来るのを、千葉君から連絡が来るのを待ち焦がれている、こんな生活にもう耐えられないの!!
 だからもう終わり! もう全部終わりにして!!」

 ちょっと考えればわかるはずなのに。冷静になんて、土台無理な話だったのだ。
 だって、私はいつだって千葉君に感情的だったのだから。好きも嫌いも、千葉君に関してだけはいつもメーターが振り切れていた。

 自分の言いたいことを一通り怒鳴り散らし、最後に吐いた息は、湿っぽくて震えていた。
 これで終わりだ。終わった。
 感情的にはなってしまったけれど、それでもこれで良かったのだろう。



 ずっと黙っている千葉君は、胡座を崩し正座で座り直した。
 彼の正座を初めて見た。いつもこの家では胡座をかいているか、ベッドに寝転んでいたから。
 剣道部の彼は、正座には慣れているのだろう。大きな背中がぴんと伸び、両手の拳が膝の上に静かに置かれている。
 千葉君の正座は、美しかった。

「……お前のその言葉を聞いて俺がなんて言うか、お前にはわからないだろう」

 ようやく彼の唇が動いた。切れ長の目にじっと見つめられる。
 その挑発的な台詞と視線に若干腹が立ったから、こっちから視線を逸らしてやることはしない。私は涙でぐしゃぐしゃの顔で、千葉君を睨み付けた。

 なんて言うか? わかるよ、千葉君の言いそうなことなんて。
 きっと千葉君は、「そうか」とか「わかった」とかって言う。その後に、「今までありがとう、元気でな」って言う。その後は、そうだな……「俺のもんは適当に捨てといてくれ」って言う。そんなところだ。

 意地になって彼を睨み続けていると、千葉君の瞳がゆらりと揺れた。

「俺はな、『嫌だ』って言うぞ」

 瞬間、息を呑んだ。



 千葉君は尻ポケットからスマホを出した。すいすいと画面をタップしたりフリックしたりして、スマホを耳に当てる。
 テレビもついていない静かな部屋だから、スマホからの音が漏れ聞こえてきた。プルルルル、プルルルル、という呼び出し音だ。――電話している?
 呆気にとられていると、呼び出し音が止んだ。次に漏れ聞こえてきたのは、「もしもし?」という女性の声だった。

「あ、もしもし、俺だけど。
 あのさ、もうお前に会わないことにした。今までありがとう、元気でな」

 スマホの向こうの声が途端に大きくなる。「え!? ちょっと待って!?」というヒステリックな声を残し、千葉君はプッと電話を切った。

 ――何が起こっている?

 事態が飲み込めない私が呆然とするのをよそに、千葉君はそれを何度も繰り返した。どこかの女性に電話を掛け、「もう会わない」と宣言する。
 スマホから漏れてくる女性達の声。その半分は感情的で、もう半分はほとんど何も聞こえないくらい、とても静かだった。
 静かだったほうの女性達はきっと諦めの境地だったのだろう。千葉君には何を言ってもどう縋っても無駄だと、そう悟っていたのかもしれない。

 何度目かの電話の時、一際感情的な声が聞こえてきた。スマホの向こうの女性は、多分大泣きしている。錯乱しているのかもしれない。
「なんでよ!?」という悲鳴のような声が聞こえてきて、その悲痛な声色は私の胸を刺した。
 もし自分が千葉君から同じ内容の電話を受けたとして、彼女のように錯乱しないとは、言い切れない。
 彼女もまた、千葉君の傀儡なのだろう。

「なんでか? ……理由ってことか?
 本気で好きな人が出来たんだ。だからもうお前には会えない。勝手だとわかっているが、もう決めたんだ。ごめんな」

 千葉君は淡々と言うと、ぶつりと通話を切った。
 女性の泣き声は途中で切れた。



 結局、何人に電話したのだろう。
 思っていたよりも少なかったのかもしれない。

「これで全員だ。電話に出なかった奴には、メッセージを送ってからブロックした」

 そう言って、大きな手がスマホを私に差し出す。
 スマホの中を見て良いということなのだろうが、私はスマホを手に取れなかった。めちゃくちゃに動き続けている心臓を鎮めるのに必死だったのだ。千葉君が電話をしている時からずっと、正座したまま両手を胸の前で固く握り、そこから一つも動けずにいる。
 差し出されたスマホが受け取られることはないと理解したのか、千葉君はスマホを引っ込めた。
 そうして伏し目がちの彼から出てきたのは、普段の不遜な態度からは考えられない、か細い声だった。

「後は、何をしたらいい?」
「……は、……え?」

 彼が何を言っているのか理解できず、私の口からは、意味を成さないただの文字がこぼれ出る。
 何を? したら? ……って?

「何人も女がいるのが我慢できないって言うから、お前一人だけにした。他の女とはもう会わない。絶対に会わない。
 俺のために週末を空けているのが嫌なら、空けてなくていい。平日にはさすがに来られないし、外出も自由じゃないから、お前の希望に100%沿えるとは言えないが……できる限りお前の都合に合わせて動くようにする。
 料理も作らなくていい、負担になっていたなら悪かった。今度は何か美味い物を一緒に食べに行こう」

 ……いや、週末を空けるとか料理とかは、物理的に負担になっているわけじゃなくて、そういう風にしてしまう自分自身が嫌いっていう意味だったんだけど……。
 でも多分、今そんなことはどうでもいい。

 こんな千葉君の声を聞くのは初めてだ。
 こんな、弱々しくて、自信がなさそうで、消えてしまいそうな千葉君の声は。

「後は何をすればいい?
 四月になったら呉の幹候に行くことは、悪いが変えられない。幹候を卒業したら、しばらくはどっかの艦で勤務することになる、それも変えられない。
 でもそれ以外なら、できる限り何でもする。連絡も取りづらくなると思うが、なるべくきちんとするようにするから。お前の希望はできる限り聞くようにするから。
 だから、」

 長い睫毛がかすかに震えている。
 膝の上に置かれた両の拳も、震えている。

「全部終わりだなんて、言わないでくれないか」

 切れ長の瞳が完全に伏した。
 千葉君の頭が、垂れた。



 声が出ない。
 返事ができない。



 今日ここで死ぬのは、自分だけだと思っていた。
 だが、千葉君も死んだ。
 ダメな私達は、今日ここで、一緒に死んだのだ。



 私達はきっと、新しい私達になれる。新しい生活を迎えられる。
 春からなんて言わずに、今日、今。今、ここから。

 私達二人は、今度は名前のある関係を作っていけるかもしれない。



【傀儡は巡る Fin.】





   

1st Anniversary お題箱へ

鳥籠TOPへ




- ナノ -