君のための優しい特別
02
生徒玄関に着いた時には、もう下着までびしょ濡れだった。ぐしょぐしょのまま廊下を歩き、一年A組へと向かう。
校内にはほとんど人がいないようだ。しんと静まりかえっている廊下に、私が歩く度ぐっちょぐっちょと不快な音が響く。
一年A組はもちろん無人だった。暴風で窓がガタガタと揺れている。電気もついておらず夜のように薄暗い。
教室の入り口で電気のスイッチを入れると、パチパチと灯りがついた。温かみのある電球色に、空間は少しだけ温度を取り戻す。
私は、自席へついた。
教卓の正面、前から二番目の席。いわゆる「ハズレ」席だろう。先生から丸見えのこの席を喜ぶ生徒は少ない。
でも私はこの席をハズレだとは思わなかった。この席は先生から丸見えだろうが、私からも先生がよく見えるから。
静かだった。
聞こえるのは風の音と、髪の毛や制服から雫が滴り落ちる音だけ。
休み時間の喧噪も、音楽室のピアノも、教科書を朗読する声もない学校はまるで異空間だ。
ゆっくりと机に伏し、瞼を閉じる。
『仔犬ども、始めるぞ』
『グッボーイ! きちんと勉強してきたようだな』
『頭に叩き込め』
クルーウェル先生の声が聞こえるような気がした。
脳内で聞こえる先生の声は、じんじんと胸をしびれさせる。
進級したら、クルーウェル先生は担任ではなくなるのだろう。どうやらそういう慣習らしいから。
魔法薬学や錬金術なんかは変わらずに担当してもらえるだろうが、二学年になれば美術や音楽、占星術など新しい授業が始まって、魔法薬学も錬金術も授業数が少なくなる。顔を見られる時間は今よりもぐんと少なくなるはずだ。
「……ああ、」
やだな。
私は閉じた瞼を、更にぎゅっときつく瞑った。
耳も塞いで、机に伏したまま身を縮ませる。
ずっとこの一年A組で……先生の仔犬でいられればいいのに。
ガラガラガラッ!
突然、塞いでいた手を通り越して音が耳に飛び込んでくる。私はガバッと飛び起きた。
「……監督生! 何をやっている!?」
一年A組のドアを開けたのは、今まさに思い描いていたその人。
クルーウェル先生だった。
「誰もいないはずなのに廊下は点々と濡れているし、教室には電気がついているし、どうしたかと思えば……なんだそのナリは! びしょびしょじゃないか!
今日は休校だと連絡がいっただろう? 通知が鳴らなかったのか?」
「……せんせ、何でいるの?」
椅子に座ったままぽかんと呟くと、先生はハアと大きなため息を吐く。
「生徒は休校だが教職員は勤務時間だ。学外に住んでいる教職員は出勤できない者も多いから、今日は教職員寮に住んでいる者が出勤して学内を見回っている。
あちこち雨漏りしているし、この暴風で窓ガラスが二枚も割れてな。そういうのを魔法で直して回っているんだ。
それにしても……通知に気付かなかったにしろ、この暴風雨じゃ休校に決まっているだろう。まったくお前は、」
「会えた! ……先生、会えた!」
「は?」
今度は先生がぽかんと口を開ける。
「私先生に会いたくて、学校に来たんです!」
逸ってしまう私の声に、先生は目を瞠った。
胸がいっぱいだ。思いが詰まって苦しい。苦しいのに確かに喜びがある。
感情が身体を置いてけぼりにする。心臓が追いつかない。
興奮している私の口は、勝手にペラペラと回った。
「今日魔法薬学と錬金術、先生の授業が二時間も入ってたなって思ったら、もったいなくなっちゃって。もうすぐ進級で先生ともお別れなのに、先生の授業が減るのが惜しくて」
「……おかしなことを言うんじゃない。他の者は休校で喜んでいるだろうに。勉強熱心なのは良いが、来るなというのに学校に来るのはダメだ。
それにクラス担任じゃなかろうが俺の授業は二年でもやるぞ。三年でもな」
先生ははっきりと眉を顰めた。
「それはそうですけど……」
気持ちが急に萎んでいく。
今日はぶつけた気持ちをいなしてくれなかった。しゅんと俯いた私は本当に犬みたいだっただろう。
『先生が担任じゃなくなれば、今までのように毎日顔を見ることなんてできないじゃないですか』
『先生の顔を見られる一日一日が大切なんです』
――そんなことは、言わないけれど。
黙り込んだ私に、先生は小さくため息を吐く。そして指示棒をしゅるりと取り出すと、私のずぶ濡れの服を魔法で乾かしてくれた。
「――監督生、そんなに授業がやりたいか」
「え?」
すっかり服が乾いた私は、ぽつりと呟いた先生に聞き返した。
「お前、魔法薬学の教科書は持ってきているのか?」
「は、はい。それはありますけど……」
「ならば望み通りに授業をしてやろう」
「……え?」
先生はカツカツと踵を鳴らし、教卓へと進んだ。
教卓前でくるりと振り返ると、毛皮のコートがふわりと翻る。
パッと上がった先生の顔は、教師のそれだった。
「仔犬ども、始めるぞ!」
朗々とした声が、二人きりの教室に響く。
聞きたくてたまらなくて、頭の中で何度も反芻していた先生の声。
今、本物が私の鼓膜を震わせている。
「前回の続きだ。教科書一二八ページ、マンドラゴラから作る陶酔薬の調合法について」
先生はそう言って教卓から教科書を取り出すと、黒板に板書を始めた。
えっ嘘、本当にやるの? と戸惑っている間にも、板書はどんどん進んでいく。私は慌ててノートを開き、せっせと黒板を書き写し始めた。
「マンドラゴラの根を三センチ切り落とし、それを粉砕した後、三パーセントの塩水を加え塩析、更に脱水濾過させ……」
先生の教師然とした声が耳の奥にじんと響く。
板書をノートに書き写しながら、私の視界が熱く滲み始めた。
さっきからずっと胸が苦しくて、なのに嬉しい。
切ないとか恋しいとか、溢れ出す感情をどう処理すれば良いのかわからない。
乱暴な「好き」の気持ちは、どうやったってこの身体に収まってくれない。
今、私は初めて先生に特別扱いを受けているのだ。
ノートに涙がぱたりと落ちた。ぐいっと手の甲で涙を拭う。
「では次のページ。演習問題、問一。マンドラゴラから作る陶酔薬の副作用として考えられるものは選択肢AからDのうちどれか。監督生、答えろ」
先生は本当の授業と同じように容赦なく当てた。私も本当の授業と同じように席を立ち上がる。
「Cの不眠症状です」
「グッガール! 正解だ。では次、問二……」
「先生」
席から立ったままの私が先生を遮ると、黒板を向いていた先生はこちらを振り返る。
両手をぐっと握りしめた。このコントロールのきかない感情を、少しでも手の中に留めるように。
「私、先生のことが好きです」
「そんなことは知っている」
先生は教科書を片手に持ったまま、私の告白をハンと鼻で笑う。
いつも通りの居丈高な態度に、私の胸は寧ろ温かくなった。
「先生、今日初めて私を特別扱いしてくれましたね」
「二度はない」
「わかってます」
進級前にいい思い出ができました、ありがとうございます。そう言おうとした。
だが先生が口を開くほうが早かった。
「在学中はな」
瞠目した。
雨風が窓を叩く音が聞こえなくなる。黒板の文字も見えなくなる。先生しか目に入らなくなる。
この愛しい教室で、先生は不敵に笑って立っていた。
どのくらいそうしていたのだろう。
私は立ったままずっと目を見開いていて、先生はずっと意地悪そうに口角を上げてこちらを見ていた。
パン! と音がしてハッと我に返る。先生が教科書を閉じた音だった。
「今日はここまで! よく復習するように!」
すると先生は、スッと指示棒を取り出して私へ向ける。
「せんせ……」
「習ったことを忘れるなよ」
皆まで言わせんと声を被せられた。次の瞬間、周囲の空間がぐにゃりと歪む。
先生! そう声に出す間もなかった。転移魔法をかけられている。
歪んだ視界に最後まで残ったのは、美しく弧を描いた先生の唇だった。
気がついた時には、オンボロ寮の談話室、ソファの上だった。隣にはスースーと寝息を立てているグリムがいる。カウチポテトをしているうちに寝入ってしまったらしい。
ハッと思い立ち、鞄の中から魔法薬学のノートを取り出す。見れば、今日写した板書はきちんと残っていた。
夢じゃなかった。あの特別な時間は、夢じゃなかったのだ。
一人ソファの上でぎゅっとノートを抱きしめる。
きっと私は、今日の日を一生忘れないだろう。
* * *
サマーホリデーが明けて、九月。
私達は進級し二年生となった。クラス替えはないため、エース、デュースとも変わらず同じクラスである。グリムは言わずもがな、私達は二人一組(ニコイチ)だ。
進級式は講堂で行われた。鏡の間で行われた入学式と違い随分と簡素なものである。
「式」なんていうのは名ばかりで、担任発表と業務連絡ための集会だった。
「続いて担任発表です。一学年については入学式で発表済のため、二学年から……」
司会のマイクがキーンと響く。デュースとエースが、ボソボソと私語を始めた。
「誰だろうな。……僕はできればトレイン先生じゃないと嬉しいな。厳しいだろ」
「俺はどっちかってーとバルガス先生のほうが嫌だなー。暑苦しいじゃん」
「うーん、私はどっちも嫌……厳しくても暑苦しくても」
そう言って苦笑すると、エースとデュースもだよなあと同調する。ちなみにグリムは私の膝の上でうとうとと居眠り中だ。
「二学年、A組から順に担任教師を発表します」
カツッ。
教職員席から一名立ち上がり、革靴の音が響いた。瞬間、講堂内が一斉にどよめき出す。
「!!」
「!?」
「……!! おい、待てよ! A組の担任!? だよな!?」
騒然となる講堂内に、カツカツと堂々たる靴音が響く。
生徒達のうち幾人かは驚きのあまり席から立ち上がり、私もその内の一人だった。「ふなっ!?」とグリムが膝からひっくり返る。
カツン。革靴の音が止まった。
壇上に現われたのは、この一年間私がずっと見つめていたシルエットだった。
興奮と衝撃で、足が震えている。
「二年A組担任、デイヴィス・クルーウェルだ。駄犬が多いということで、異例ではあるが担任も持ち上がりとなった」
嘘だろおおとか、マジかよおおとか、絶望の叫びがこだまする。だがそれと同じくらい歓喜の声も上がっていた。
クルーウェル先生は確かに厳しい。だが生徒からの信頼は厚いのだ。
私は両手で口を覆い、その場に立ち尽くす。
全身で脈を打っているみたいだった。鼓動が大きすぎて、身体がバラバラに壊れてしまいそうで。
好きという気持ちは、なんて、なんて!
なんて乱暴なんだろう!!
壇上の先生はつり上がった眉のまま不敵に口角を上げる。
マイクに妖艶な唇を近づけると、すうと小さくブレスし、そして言った。
「仔犬ども! 今年も厳しく躾けていくからそのつもりで!」
講堂内は一層どよめいた。
立ったまま思わずエース、デュース、グリムを見れば、二人と一匹は白い歯を出してにっかりと笑っていた。
【君のための優しい特別 Fin.】