君のための優しい特別
01
ナイトレイブンカレッジには、絢爛豪華な大食堂がある。大樹で作られた豪奢なシャンデリア、格式高く古めかしい内装は、いかにも名門学校の風情だ。
生徒達の多くは、昼食をその大食堂で取っている。全学年が一堂に会する昼休みの大食堂はいつも大変な混雑で、今日も生徒達でひしめき合っていた。
私、エース、デュース、グリムの三人と一匹は、三限目の飛行術の後、運動着から制服へ着替えて大食堂へやってきた。
だがそれではもう遅い。着替えの分出遅れているから空席を見つけるのも一苦労だろうと予想していたのだが、思った通りである。
私達はランチの載ったトレーを持ったまま、長いこと空席を探し続けていた。
キョロキョロ辺りを見回していると、見つけた。空席だ。
同時に、空席よりももっと嬉しいものも見つけた。
ふわふわの毛皮のコート、シャープな輪郭。
私がいつも追いかけているシルエット。
「ねえあそこ! 席、空いてるから行こ!」
「あっ、おい待てユウ……」
エースが止める声をガン無視し、私は食堂隅のテーブルを目がけて真っ直ぐ進んだ。正確には、テーブルに座っている人物を目がけて、かもしれない。
胸が高鳴るのと一緒に、足も勝手に跳ねてしまいそうだ。トレーの上のチリコンカン・ライスがひっくり返らないよう、逸る足と鼓動をクッと押さえる。
「せんせ! ここ良いですか?」
弾んだ声を掛けると、フォークを口に運ぼうとしていたクルーウェル先生が顔を上げてこちらを見た。
私が先生の前に嬉々として飛び出したのを、エース、デュース、グリムはげんなりした顔で半歩後ろから見ていた。
生徒としては、昼休みにわざわざ教師と相席なんてしたくないと考えるほうが多数派なのだろう。でも先生の使っているテーブルは六人掛けで、椅子は五つ空いている。どっちみち、ランチを食べるのに席は必要でしょ?
「お前らか。席は空いている、好きに使え」
「わーい! ありがとうございます! 良かったねー空いてて」
「ま、そーね……」
私がキャッキャと語尾にハートマークを飛ばすと、エースは肩を落とし乾いた声で笑った。デュースとグリムも無言のまま、諦めたように静かに席に着く。
当然のように私が先生の向かいの席に腰を下ろすと、グリムが私の隣に、エースは更にその隣に、デュースが先生の隣に座った。
先生は私達のことなど全く意に介さず、黙々とランチを口に運んでいる。今日はパスタか。
「先生それ何ですか? アラビアータ?」
「アマトリチャーナ」
「私もそれにすれば良かったかな、先生と一緒のメニューに」
言いながら、トレーの上のチリコンカン・ライスをスプーンでつつく。先生への好意をフルスロットルさせる私を尻目に、二人と一匹は静かにスイートチリチキンや、サンデーローストや、ツナ缶を食べていた。
「監督生、お前は異性と同じメニューを食べたい派か?」
「え?」
ずっと私の熱視線を無視していた先生が、豚肉にフォークを刺して顔を上げた。ただの雑談なのだろうが話題を振ってくれたことが嬉しくて、私は全神経を先生に向ける。
「俺は、そうだな。同じメニューを頼むよりは違うメニューを頼んでシェアすることが多い。女性がそう望むことが多いからな」
「えっ、それは私に先生のパスタをシェアしてくれるとかそういう?」
「違う。なぜこのクルーウェル様が一生徒であるお前にパスタをシェアしてやらねばならんのだ」
そう一蹴し、先生は残りわずかのパスタを全部フォークに巻き付け一口で食べてしまった。
「俺は先に行く。仔犬ども、しっかり食べて午後も励めよ」
先生は口元を白いハンカチで上品に拭くとすげなく立ち上がり、だが最後にはこちらに向かって薄く微笑んだ。
周りは相当に騒がしいのに、コツコツという靴音が私にだけははっきりと聞こえる。
先生の姿が見えなくなると私はぐるりと振り返り、グリム達に向かってピンク色の吐息を吐いた。
「はー眼福。食堂でクルーウェル先生に会えるなんてラッキー! 私もう先生の残り香だけでご飯食べられる。チリコンカンなくてもいけるわ」
スプーンでもりもりとライスを食べる私を見て、グリムは呆れ声を出した。
「ユウはほんっとめげないんだゾ。全然相手にされてねーのに」
「いや、ユウのそういう根性のあるところ、僕は良いと思う!」
「それにしても望みがなさすぎて、俺は子分が可哀想になるんだゾ……」
二人は先生がいなくなった途端に緊張感から解放されたのか、急に口数が増えた。デュースがよくわからないフォローをし、グリムはよよと項垂れる。
エースだけが、言葉少なにチキンをつついていた。
* * *
「なーユウさ」
「んー?」
昼食後、教室へ向かうために中庭を歩いていると、エースが私の一歩後ろから声を掛ける。
「お前は辛くないの?」
辛くない、か?
それは、思いがけない質問だった。
思わず瞠目し、ぴたりと足を止める。
振り向くとエースも足を止めていた。そのまま私達は、じっと対峙する。
エースの瞳は、質問が茶化したものでないことを物語っていた。
前を歩いていたデュースとグリムが「先に行くぞー」と手を振っている。私は固まったままだったが、エースが彼らに手を振って応えた。
午後の柔らかい日差しが差す閑(のど)やかな中庭。
私達の周りの空気だけがわずかに重苦しい。
沈黙を破ったのは、エースだった。
「お前さ、冗談っぽくクル先のこと好きだ好きだって言ってるけどマジで好きだろ。
見てりゃわかる。……俺がわかるくらいだから、クル先だってわかってると思うし。
でも、あんなに気持ちをぶつけてもさ、お前全然相手にされてねーじゃん」
「……まーね?」
重苦しい空気を壊すべく、私は口角をばっちり上げてイヒッと笑う。
だが、エースは笑ってくれなかった。俯いて苦々しげな声を出す。
「見ててしんどいんだよ、俺も。痛々しいっつうかさ。
俺、お前のことは友達だと思ってるし……友達が辛い思いしてるのって、やっぱ良い気分じゃないじゃん?」
そう言ってボリボリと後頭部を掻いた。
この友人は本気で私の事を心配してくれているのだ。そう思い至れば胸がほんのりと温まる。
今度は無理矢理ではなく、自然と口角が上がった。
「ありがと、エース。心配してくれてるんだよね」
俯いたままのエースを覗き込むと、エースはふいと顔を逸らしてしまう。
照れ隠しなのはわかるので、私はそのままくるりと彼に背を向けた。
「でもね、辛くないんだ、私。先生の特別になれるなんて思ってないし……。
先生はさ、生徒のことを平等に大切に扱ってくれるでしょ? 『俺の仔犬』とか言って。
私ね、仔犬のうちの一匹でいられるだけでいいの。好き好きって冗談っぽく騒いでいるうちは、先生も適当にあしらってくれるし。それだけで十分」
「……本当に? それで満足なのか?」
「うん、満足」
意図していなかったが、自分の声はとても穏やかだった。
エースは呆れたようにため息を一つ吐き、そして笑った。
そう、満足。
心からそう思っている。
先生の恋人になれるとはとても思えないし、であれば残された時間を楽しく過ごすほうが良い。
六月になれば終業式だ。
一学年が終わり、サマーホリデー後の九月からは二学年に上がる。
「もうすぐ一年生も終わりだね。クラス替えはないからA組は卒業までずっと持ち上がりだけど、担任は毎年変わるんでしょ?」
「ああ、そうみたいだな。基本的に担任は毎学年変わるって」
「ねえエース、私ね」
呼びかけると再び視線が合う。五月の風が私達の髪を撫ぜた。
「クルーウェル先生のクラスでいられるのもあと少しだから。
楽しく、最後まで先生の仔犬でいられればそれでいいんだ」
一瞬凪いだ風が、再びそよめく。
風は清々しい。いっそ苦しいほどに。
* * *
先生を好きになったのはいつだっただろう。
男子校に紛れ込んだ異世界の女子。その上魔力のマの字もないときた。
相棒のグリムについては人型(ひとがた)ですらない。
そんな私とグリムの担任教師になったクルーウェル先生は、私達を決して特別扱いしなかった。魔法が使えないから、この世界の常識を知らないからといって、成績に手心を加えることもなかった。端的に言って容赦がない人だ。
ただ、尋ねれば何でも教えてくれた。
エレメンタリースクールで習うような知識ですら身についていない私に、それこそABCから、イロハから、根気強く、何度でも。
「先生教えてください」と押しかけて、時間の調整をされたことはあれども、断られたことは一度もない。
胸の奥のほのかなときめきに気付いた時、最初は尊敬かと思った。
もちろん尊敬もある、でも尊敬だけではないとすぐに気がついた。
尊敬で胸は苦しくならないし、浮き足立ったりもしないから。
『先生、好きです!』
『ふん、無理もない。女性であればこのクルーウェル様に惚れないほうが難しいというものだ』
どうせ叶わない想いなら素直にぶつけてしまえと初めて好意を告げた日、そんな風に軽くいなされて、それでもとても嬉しかった。
だって、気付いてしまったのだ。
私が「好きです」と言っている間、先生の瞳に映るのは私だけだということに。
私が想いをぶつけているそのわずかな時間だけは、他の仔犬を見ない。私だけを見ていてくれた。
それからというもの、先生に会う度会う度好意を表現した。
もちろん十六も歳下で、「仔犬」である自分に応えてもらえるなんて微塵も思っていないが、それで構わない。報われない想いを発散し、その上先生の目が私に向くのであれば、もう十分だった。
いつの間にか私のクルーウェル先生への恋心は周知となり、その恋心が校内でネタとして消費されることもあった。
それでもいい。どうせ特別扱いはしてもらえないのだ。感情は笑顔でごまかせばいい。
私はただの一仔犬だが、先生が担任ではなくなっても、私が卒業しても、いつか元の世界に帰っても。「うるさくて愉快な生徒だった」くらいには思い出してもらえたら。
強がりなんかじゃない。本当にそれで十分だった。
* * *
六月、終業式が間近に迫った頃。賢者の島が記録的な暴風雨に見舞われた。
学生の登校については、オンボロ寮を除く各寮からは鏡を使うので、暴風雨といえども安全上の問題は然程ない。だが教職員の出勤に問題が生じた。
公共交通機関がことごとくストップし、約半数が出勤できないという事態が発生したのだ。約半数というのは、教職員寮に住まわず学園敷地外から通勤している者である。長期休暇時以外は扉が開いていないから、教職員も敷地外に住んでいる者は公共交通機関で通勤している。
学生が登校したとしても、教職員が確保できなければ授業の進行に支障をきたす。それに校内は鏡で移動できる場所ばかりではない。グラウンドや外廊下、中庭を通らないと辿り着けない教室だってたくさんあるのだ。こんな暴風の中を生徒に歩かせるのは危険だ。
結局、教職員が確保できないことと、生徒の身の安全を守るという観点から、ナイトレイブンカレッジは急遽休校となった。
「やったー! 休みなんだゾー!」
朝七時、連絡網アプリで学校から正式な休校の通知がきた。
グリムははしゃぎ回り、テレビ欄をチェックしたりキッチンからツナ缶を引っ張り出したりしている。降って湧いた休日をカウチポテト族として過ごすつもりらしい。
対して、私はがっくりと項垂れていた。
「うそでしょ……休み……」
窓の外を眺めれば、空き缶やら植木鉢やらが暴風に舞っている。雨も横殴りだ。
この天候では仕方がないことなのだろうが……休校だなんて。
よりによって今日。
今日は魔法薬学の授業も錬金術の授業もあったから、一日に二時間もクルーウェル先生の授業が受けられる日なのに。
もうすぐ一年生も終わってしまうのに。先生が担任でいてくれるのもあと少しなのに。
窓を叩きつける雨風を見ているうちに、腹の奥からふつふつと感情が沸いてきた。
この感情を何というのだろう。
怒りではない。悲しみでもない。でも、居ても立っても居られないような。
「……グリム、私学校行ってくる」
「ふなっ!? 何言ってるんだゾ!? 学校は休みだって連絡が」
「無駄かもしれないけど! でも行ってくる!」
「ユウ、こんな雨風の中危ないんだゾ!!」
グリムの制止を振り切り、私はオンボロ寮の玄関を飛び出した。
オンボロ寮と鏡舎は繋がっていないから、学校へは自分の足で向かうしかない。私は傘を差し暴風の中を進んだ。
傘は十秒で吹き飛びどこかへ飛んでいってしまったが、文句を言う余裕もない。自分自身も飛ばされそうになりながら、それでもじりじりと学校へ向かった。
学校へ行ったって、先生はいないかもしれない。会えないかもしれない。
だが行かずにはいられなかった。
こんなの無茶苦茶だ。なぜ休校になるような暴風雨の中、私はずぶ濡れになりながら学校に向かっているのだろう。正気の沙汰じゃない。
それでも勝手に身体が動くのだ。進級前のわずかな時間を、先生に会える時間を、どうしても無駄にしたくない。
好きという気持ちは、会いたいという気持ちは、なんて乱暴なんだろう。