アイオロスは闇夜を駆ける 02




地下に戻ったリヴァイは、早速目当ての地下商人に張りつき様子を窺った。刻一刻と時間が過ぎる中、焦らず我慢強く、目的の場所を探る。


「最近地下街 (ここ) に面白いものが出回っているらしいな」
「なんだお前。あれに興味があるのか」
「そりゃあ、兵団にしかねぇ代物だからな」
「違いない」


我慢した甲斐があった。この地下商人で当たりだ。
リヴァイは「俺みたいな奴に聞かれちゃならねぇだろう」と、子どもらしからぬ目つきでニヤリと笑う。
運がいい。この商人なら、貴重な品をどこに管理しているかを知っている。握った鈍く光るナイフの先端に指先を置き、リヴァイは大量の積荷の前で呑気に話をしている商人たちに、気付かれないよう走り出した。



仕事は簡単すぎるくらい、あっという間に終わった。


「こいつが噂の……」


強奪したそれは、パンでも芋でもない。本来ならば兵士のみが装備することを許される代物。しかも子どものリヴァイが装備するには、かなりの重量であるはずの立体機動装置だ。しかし彼は初めて触れるはずのそれを、長年愛用しているが如く軽々と持ち上げて、収められていた刃を抜いた。

これまで自分が手にしてきたナイフなど、比べ物にならない殺傷能力」を持っている。これは刃の鋭さも長さも、リヴァイが求めていたものだ。


「こいつさえあれば……」


警戒しながらアジトに戻ったリヴァイは、薄暗い部屋の中で一人、刃に映る何かを決意した自分の顔を見つめた。
貴族の屋敷に押し入り、見張りの者を相手にするのであれば、いつものナイフでは心もとない。確実に、間違いなくあの貴族を殺し、間違いなく少女を助け出すためには、このブレードが必要だった。
大人相手にまだ小さな己が立ち向かうため、子どもなりに考え抜いたことである。


* * *


「私と同じ歳くらいかしら……」


ナマエは窓辺に立ち、目の前に広がる街並みを眺
めながら、自分と目があったはずの少年を思い出していた。身なりからして、裕福でないことは一目でわかった。そんな子どもたちが当たり前にいて何ら不思議ではないのに、なぜか彼から目を逸らすことができなかった。


「まるで夜のような髪だったわね。瞳も青い月明りみたいで綺麗だったわ」


オニキスのような髪と青灰色の瞳に宿した鋭い光が、脳裏に焼き付いて離れない。まるで「助けてやる」とでも言うような真剣な顔は、なぜかナマエにあり得ない希望を抱かせる。

馬鹿なことをとナマエは息を吐き、ちらりと後ろを振り返れば、外とは似ても似つかない真紅のビロードと金糸で刺繍をされた、豪奢な天蓋付きのベッドが目に入った。
ブルリと体が震え、背筋には冷たい汗が伝って、着替えたばかりのシルクの夜着がぺたりと肌に貼りついた。おぞましいの一言しかない。これから豚のように肥えた、品位の欠片もない男に体を差し出すのを考えただけで、苦いものが胃から上ってくる。

小さな刃でさえ隠し持つこともできず、自害の道も断たれた。いっそのこと窓を突き破ってこの身を投げ出してやろうかとさえ思ったが、鉄格子が嵌められた窓は、ナマエの力でどうにかできるものでもない。


「誰か……」


助けて──。
そう口にしようとしたと同時に、重厚な部屋の扉の鍵が開く音がした。よく手入れのされた扉は音もなく開き、ナマエが最も忌むべき人物が入ってきた。


「まったく見れば見るだけ美しい娘よ。大人しくしておればいいのだ。そうすればお前の父と母は幸せになれる。そしてお前のことは、これから儂がずっと可愛がってやろう。欲しいものは何でも与えてやろう」
「ひ……っ」


ニタリと口元を嫌らしく歪め、ナマエを買った男爵が彼女に手招きをする。覚悟をしていたのに、もう何もかも諦めたのに、昼間の少年の顔がちらついて、悪足掻きをしたい心が膨れ上がる。反面やはりもう心を閉ざしてしまった方が楽だと囁く自分もいた。


「こちらに来い、ナマエ!」


なかなかそばに来ないことに苛立ちを隠そうともせず、男爵が声を荒げると、ナマエは小さく体を縮こまらせて反射的に目を閉じた。竦んだ足は震えたが、もうこれ以上逃げられないと、必死に足を動かして男爵の前に立つ。上から降る息は酒臭く吐き気を催したが、これ以上機嫌を損ねてはならないと我慢した。


「男爵様、どうかご慈悲を。自分で脱ぎますので、どうか後ろを」
「そうかそうか。では準備ができたら声をかけよ」
「はい」


俯いたままのナマエが恥じらっていると勘違いしたのか、男爵は上機嫌で何度も頷き、言う通りに彼女に背を向けた。震える手でどうにか釦を外し、肩から床に夜着を落とすと、ファサっと空気を含んだ音がした。
大きすぎる豪奢な寝台に登り、シーツを手繰り寄せて誰にも見せたことのない肌を包んで顔を上げると、背中を向けていたはずの男爵が間近に迫っていた。


* * *


立体機動装置の仕組みを理解したリヴァイは、夜が更けるのをじっと待ち、地上に続く階段ではなく、地下の外れに向かった。ここは地上の地面が崩れて、「本物の空」を見ることができる場所だ。しかしどんなに優れた身体能力を持っていようと、ここから地上に出られるはずもなく、益して灯りが届かない場所でもあるため、滅多に人は寄り付かない。

リヴァイは夜目が利く。加えて勘も良いため、多少の暗い場所でも問題なく移動ができた。だからこの人が寝静まる夜更けまで大人しくしていた。日中は階段を通行料も払わずに強行突破し、幸い面が割れていないとはいえ疑いは掛けられていたため、下手な動きを見せてこの機を逃すわけにはいかなかった。


「ぶつけ本番だが……やるしかねぇ」


地下に戻ってすぐ、地下商人から強奪した立体機動装置を装備し、操作方法を確認した。初めてのことに戸惑うも、リヴァイは生来の勘の良さから僅かな時間で、基本的な操作を理解できた。あとは思い描いたように飛ぶだけ。

真っすぐ空を見上げ、アンカーを射出しガスを吹かすと、一気に上空へと舞い上がった。シュミレーションと現実の体感が一致する。これが初めての操作かと思うほど、体をどのように動かせばよいのか不思議と理解できた。
ならば好都合だ。このまま少女がいる屋敷を目指し、街を飛び回ればいい。リヴァイは風を切って空を飛ぶ開放感に高揚しながらも、一刻も早く少女を救い出すためにスピードを上げた。

もっと早く、もっと、もっと。
リヴァイは自分が風と一体となって飛び、少女が囚われた牢獄、丘の上の男爵邸を目指した。



目立つことはしたくなかったが、いつ少女が汚されるかわからない中、呑気に様子を窺うことはできなかった。時間が勝負であるなら、騒ぎになるのもやむを得ない。だからリヴァイは迅速に門番を一突きで気絶させ、窓ガラスを割って屋敷への侵入を果たした。

一人、また一人とリヴァイは自分を捕えようとする屋敷の護衛を、風のように刺していく。もう何人傷を負わせ、命を奪っただろうか。ブレードを握る手は真っ赤に染まり、それだけでなくいたる場所に血がこびりついていた。


「ちっ、汚ねぇなぁ」


生温かい感触が頬に飛び散り、たまらず手の甲で拭い嫌悪感を露わにしたが、それ以上に少女の無事を願う気持ちが先を急がせた。
何としても汚される前に、どうしても助け出したい。ただそれだけが、今のリヴァイを突き動かしていた。



「ここか……っ!!」


屋敷の上階奥。明らかに人払いをした部屋から、微かにか細い悲鳴が聞こえた。少女の声を聞いたことはないが、リヴァイにはそれが彼女のものであると確信する。こんな夜更けに悲鳴をあげる物騒な状況といえば、まさにその瞬間である以外にない。

蹴破った扉の先には、ベッドの上でだらしない裸を晒す男が、招かれざる来訪者に目を見開いていた。
転がり落ちるようにベッドから降り、男はそばにあった護身用の剣を構えたが、情けなくもぶるぶると震えていた。その後ろには全裸の少女がシーツに包まって怯えていて、一層リヴァイの怒りは増す。


「薄汚ねぇどころか、肥溜めの糞そのもじゃねぇか」


抑えつけていた怒りが一気に膨れ上がり、ブレードを握る手に力が籠った。冷静になれと息を吐き出したところで、その倍となって怒気が全身を支配し、一歩、また一歩と男に近づいた。


「な、なんだお前は!? 見張りはどうした……!?」
「全員殺した」


こんな少年がと男は目を疑ったが、血だらけの彼の姿と氷のような瞳に嘘ではないのだと更に震え上がる。


「来るな!! か、金か!? 欲しいだけやる、いくらだ! いくらでもくれてや、」
「喋るな、豚野郎」


男が言い終わる前に、リヴァイは表情一つ変えずに刃をかざし、一刀のもとに首を切り落とした。大の大人でさえ人間の首を一太刀でなど至難の業であるのに、いとも簡単に。

血しぶきが上がり、リヴァイは真っ赤に染まった。血を浴び過ぎて纏わりつく鉄の匂いに不快感もあったが、それ以上に達成感が勝った。手に入れた長刃でしたかったこと。それは醜いこの男の首を切り落とすことであった。


何が起こったのだろうと、少女は茫然とした。

白い肢体を隠す白いシーツは点々と鮮血が飛び散り、ベッドで茫然とする彼女の美しい髪と頬にも、男の血で汚されていた。
理解できたのは、金で買われ、自由を奪われたナマエを縛るものはもう何もなく、ここから出るもどうするも彼女の意思一つといこと。その証拠に、目の前にはリヴァイによって絶命した男の首が、恐怖で顔を歪ませたまま転がっていた。


「早く、ここから……」


あとは少女を連れて逃げればいい。手を掴み、ここを立ち去るだけで目的が達せられるのに、リヴァイの真っ赤な手が止まる。
必ず少女を救い出すと決意し、ここまで来た。既に己の手は散々盗み殺して薄汚れ、とうとう真っ赤な罪に染まってしまった。これまでの罪を振り返れば、今更この男の血が加わったところで、良心の呵責など一欠片も湧きはしない。

しかし、この手が何も知らない美しい少女に触れること、自分までもが彼女を穢すのではと躊躇い、奥歯をギリギリと噛み締めて引っ込めたその時。


「お願い……っ、待って!!」


リヴァイが無言で踵を返そうとしたその時、か細い白い手が追い縋って空を切った。時間にしてほんの僅か。しかし二人にとってそれは永遠にも思える静寂の刻。


「行かないで……、置いていかない……で」


耐えきれず再び口を開いたのはナマエで、吐き出す息も声も震えていた。落ちぶれた名ばかりとなった伯爵家は、彼女をあの爵位が下の男爵に差し出すことで家門の安泰を図った。貴族というだけでは生きていけない。しかし父も母も豪奢な屋敷を手放し、贅沢な暮らしから一転、労働をしたこともない手で寝床や食料を手にするなど考えもしていないだろう。

幼いながら美しいと評判の娘を一目見ようと、屋敷を訪れた男爵は、腰を折って優美に挨拶をするナマエを、不躾な視線で舐めまわして値踏みをした。格下の貴族に一人娘が侮辱を受けたのに、伯爵とその妻は媚びへつらい、法外な財貨を提示され彼女を「養女」に出すことを即決した。

いくら世間を知らないナマエでも、それが何を意味するかくらい理解できた。口に出すのもおぞましい。親に売られたと、このだらしなく肥えた男の檻に飽きるまで閉じ込められ、屈辱の日々を過ごすのだと、目の前が真っ暗になった。

しかし、少年という一筋の光が差し込んだ。


「ねぇ、お願いよ。私をっ!」
「随分派手に暴れた。騒ぎを聞きつけた憲兵がそろそろ来るだろう。奴らに保護してもらって、家に帰るんだな。悪い夢だったと、今日のことは忘れりゃいい」
「いや……」


どうしてもこの少年の手を掴まなければならないと、ナマエは憲兵の保護を拒否して必死に首を振る。父と母の元に戻ることができたとしても、あんな派手な行列までして送り出した娘が、寝所で義父となった男に手籠めにされようとしていたところを暴漢に襲われ、自分だけ生き残ったなど、恥じ以外の何者でもない。


「帰る場所なんて、私にはないの。だから」


伸ばした手は掴んでもらえないまま。一度は差し伸べてくれたのに、なぜとナマエはリヴァイに懇願の眼差しを向ける。
同じ赤に染まったリヴァイとナマエの距離は、尚もそのまま。早くここから立ち去らなければならないのに、リヴァイの足は床に張り付いたままで、自分に向けられる澄んだ瞳に魅入ってしまった。


触れたい。触れたい。触れたい。

衝動に突き動かされてナマエを助けにきたが、抱いた思いのままに連れ去ってはいけない、澄む世界が違うとブレーキがかかる。本当は「安心しろ」と頬を撫でて抱きしめてやりたいのに、こんな汚れてしまった自分では、彼女の肌どころか全てを穢してしまう罪悪感が、ずしりと重く圧し掛かった。


「私を連れて行って」


躊躇がリヴァイの動きを鈍らせ、隙をついてナマエはベッドから降り、血塗れのブレードを握った手を包んだ。
美しい白い手が、リヴァイと同じ赤に染まる。まるで二人が同じ罪を背負うように。真っすぐに見つめてくる瞳は、固い決意が宿っていた。


「いいだろう。お前を連れて行く」


いつの間にか夜を照らす月は隠れ、外は暗闇に包まれていた。それは二人一緒に宵闇を駆け抜けるのを手助けしているようだった。


「行くぞ。……俺はリヴァイだ」
「リヴァ……イ?」
「ああ、ただのリヴァイだ。お前の名は?」
「私は……ナマエ。私もただのナマエ」


それだけで十分だった。互いに呼び合う名さえあれば、今の二人には十分すぎる自由で、二人は固く手を握り合い、夜の街へと駆けだして行く。


「ナマエ……、行くぞ」
「うん、リヴァイ」


闇は血に染まった穢れた姿を隠してくれた。何よりブロンドに輝く髪と宝石のような瞳、映える白い肌を隠してくれた。
屋敷の窓から飛び出した人影は、風のように過ぎ去り、闇へと溶け込んでいく。二人が地下街に辿り着く頃、月は地上を煌々と変わらぬ景色を照らしていた。




【アイオロスは闇夜を駆ける Fin.】







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