Immature letter 02




 * * *



 エルヴィンの観察眼は、リヴァイの微妙な変化を漏れなく捉えた。

 読み書きを習い始めてもうすぐ三か月。
 リヴァイの様子と、リヴァイの作成する書類から察するに、ナマエとの授業が順調なのは間違いないだろうが――
 エルヴィンは一つの仮定を導き出した。

 もしかして、彼の感情に、あるいは彼らの感情に、変化があるのかもしれない。



 リヴァイはあれから毎週、火曜日と金曜日の訓練後に、兵服を脱いで彼女の家へと訪れる。
 兵舎を出る際に私服へ着替えなければいけないというルールはないし、特段兵服を脱ぐ必要もない。だがリヴァイはいつも私服へ着替えていた。
 恐らくリヴァイは彼女の立場を慮っているのだろう。調査兵団本部が置かれているこの地では、調査兵団を支持する民もいるが、税金の無駄遣いだと目の敵にする民も少なからずいるからだ。
 そして、リヴァイが気を回すのは服装だけじゃなかった。彼は毎度手土産らしき物を準備している。授業に向かうリヴァイは、いつも手に小さな紙袋を持っていた。
 エルヴィンが紙袋に印刷された店名から察するに、手土産は菓子である。だが菓子は決して安いものじゃない。砂糖は高級品だ。
 まだ役職に就いていない彼の給金はたかが知れている。毎回菓子を買うとなると、負担は決して小さなものではないはずだ。
 それでもリヴァイは、手土産を欠かすことはなかった。



 ふと分隊長室の窓から外に目をやれば、ちょうど私服のコートを着たリヴァイが紙袋を提げて門を出るところである。今日は火曜日だ。

 暗い地下で刃物のような眼をしていた男が、こうも変わるとはな。

 脳内で独り言ち、エルヴィンの口角が左右対称に上がる。
 門を出たリヴァイが通りの角を曲がり、コート姿は完全に見えなくなった。



* * *



「リヴァイさんて……飲み込みいいですよね」

 ナマエは「宿題」としてリヴァイに与えていた課題をチェックしつつ、ノートの字をなぞって呟いた。

「……あ?」

 ドスの利いた低い声。はたから聞けば怒っているようだが、そうではないと彼女はもう知っている。
 リヴァイのこの声は純粋な疑問と、そしてわずかな照れだ。

「私が授業で教えたことは、次に来るまでに必ずマスターして来るし。リヴァイさんは元々地頭が良い人なんでしょうけど、それより何より、努力家なんでしょうね」
「俺はただ読み書きができねえと不便だと、エルヴィンに言われてやっているだけだ」
「ふふ、そうですか。エルヴィンって昔から人を動かすのが上手だものね」

 くすくすと手を口元に当てるナマエの笑顔に、リヴァイは複雑な気持ちになった。

 ナマエは、エルヴィンの話題になると顔を綻ばせて思い出話を披露する。リヴァイは彼女の笑顔が嫌いではなかったが、その笑顔を生み出しているのがエルヴィンだということは、面白くないと思っていた。一言で言えば嫉妬だ。
 リヴァイ自身はその感情を嫉妬だと認めたくないから認めずにいるが、「嫉妬だと認めたくない」などと思うことそのものが、嫉妬であることの証明でしかない。
 自分でも本当は気がついていた。

 そう、いつしかナマエは、リヴァイにとって特別な存在になっている。



 最初の印象は、「警戒心が足りない上によく喋る、だが紅茶を淹れるのが抜群に上手い奴」。それだけだった。
 しかし紅茶を淹れるのが上手いということは、リヴァイの心を開く十分な切っ掛けである。
 わずかに開いたリヴァイの心のドアを、ナマエはぐいぐいと押し開いた。もっともナマエに押し開いているつもりはなかったのだが。
 例えば授業の途中に差し込まれる雑談だったり、授業後のティータイムだったり。そういった時のナマエの声や些細な仕草の一つ一つが、知らず知らずのうちにドアの隙間を広げていったのだ。

 職業柄もあるのか、ナマエは語ることが得意だった。
 彼女はリヴァイに色々なことを語った。自分の勤めている学校のこと、教えている生徒達のこと、幼い時のエルヴィンのこと。
 そして彼女は、人から話を聞き出すのもまた上手かった。
 元来口下手なリヴァイだが、彼女の話術に引き込まれるとつい喋ってしまう。
 普段の訓練の様子や、壁外の動植物の様子、兵舎にいる変なやつらの話(特に人の匂いを嗅いで回る大男や、風呂に入らない不潔なメガネについて)。そんなことをナマエにぽつぽつと語った。

 ナマエは、自らが語るのも人に語らせるのも得手としていたが、人を傷つけるような心の奥深くには決して触れてこない。それはナマエの話術の特徴だった。
 例えば、母や仲間達の死、伯父が自分から去って行方知れずとなったこと。リヴァイの過去にも触れて欲しくないことがたくさんある。それらを彼女は巧みに回避した。
 心地よく節度を保った距離感。なのによそよそしい感じは微塵もない。ナマエの人との距離の取り方は絶妙で、リヴァイはそれをとても好ましく思っていた。
 毎回高価な菓子を手土産に持っていくのも、授業終わりのティータイムが少しでも長くなるようにと図ってのことである。
 リヴァイは、ナマエと少しでも長く一緒にいたかったのだ。



 二人が一番近づく時、それは二人で机に向かっている時である。
 二つの頭が一つのノートに向かうと、肩と肩が触れそうになる。授業を始めて約三か月、めっきり寒くなったこの頃は、空気越しの互いの体温も感じられやすくなっていた。

 ふとナマエが動いた。髪の毛から石鹸の香りがふわりと漂う。

「そろそろこの授業も終わりかしら」

 ノートに向けられていた四つの視線のうち、リヴァイの二つだけが擡げられた。
 パチパチと暖炉の薪が爆ぜている。

 もちろん「今日の授業が終わり」ということではない。この家での二人の時間が終わりだということを示している。
 ナマエもゆっくりと視線をノートから擡げると、リヴァイに向かい合い穏やかに笑った。

「だって、リヴァイさん完璧なんですもん。先週から宿題に出しているのはね、この地域の高校入試の問題よ。
 授業を始めてもうすぐ三か月だけれど、あなたは既に基本的な読み書きはもちろん、簡単な古語までもをマスターしているわ」

 そう言って彼女は再び視線をノートに移し、リヴァイがしたためた字をなぞった。
 指先は、どこか愛おしげで。

「リヴァイさん、次の金曜日の授業で最後にしましょう。もう教えることがないわ」
「……そうか、わかった」

 しっとりともの柔らかな彼女の声に対し、リヴァイの声はカサカサと乾いていた。

 バチッ、と一際大きな音が鳴る。
 爆ぜた薪が、暖炉の中で崩れていった。



 * * *





 親愛なるナマエ

 手紙を書くのは生まれて初めてだ。作法はナマエから習ったとおりにしているつもりだが、至らないところがあったら許して欲しい。

 今まで、根気強く俺に読み書きを教えてくれてありがとう。
 ナマエの教え方はわかりやすかった。今ではもう、書類作成にも困っていない。
 全部ナマエのおかげだ。感謝している。

 だが、もうナマエの家で過ごすこともなくなるのかと思うと、それを寂しくも感じている。

 この三か月間の授業が終わるまでに、授業以外でのあんたとの繋がりを作れなかった自分を恨めしく思う。

 元気で。

 リヴァイより





* * *



 十二月の下旬、最後の授業の日。
 授業終わりのティータイムは、いつもよりもずっと長かった。
 名残惜しかったのだ。多分、二人とも。

 だが二十時を回ったところでリヴァイは腰を上げた。一人暮らしの女性の家にいていい時刻じゃないことは、彼も理解している。

「随分と世話になったな」

 コートを羽織ったリヴァイが玄関のドアを開けると、外は真っ暗だった。
 冬の空は黒が濃い。厚い雲に覆われた空は、星も見えない。

「こちらこそ、楽しい授業でした。暗いから気をつけて帰って下さいね、リヴァイさん」

 ナマエは出会った時と変わらない、屈託のない笑顔をリヴァイへ向ける。
 後に人類最強と呼ばれる男に向かって「気をつけて」などというのもおかしな話だが、ナマエはリヴァイがどれだけ調査兵団で活躍しているのかをまだ知らない。
 入団直後から驚異的な討伐数で大きな戦力となっているリヴァイが、人類最強として名を馳せるのは、もう少し先の話だ。



「……これを、ナマエに」

 差し出されたのは、白封筒である。

 一見して安物ではないとわかる、厚手のしっかりした封筒。貧乏兵団の備品ではない、個人的に用意した物である。フタは封蝋で閉じられていた。

 ナマエは戸惑った。
 まさかリヴァイから手紙をもらうとは、思ってもみなかったのである。
 驚いたまま手を出せずにいると、リヴァイはぐいとナマエの手を取り、そのまま封筒を押しつけた。

 リヴァイの手は、ユアが思っていたよりもずっと熱かった。

 まっすぐに向けられたリヴァイの視線と、揺れるナマエの視線。
 二つの視線がぶつかり、思わずナマエは彼の視線から逃れるように俯いた。すると封筒の宛名が目に入る。

『ナマエ・ミョウジへ』

 それは、今までナマエが見たリヴァイの文字の中で、一番美しい文字だった。



「……じゃあな」

 フッと、突如ナマエの手から熱が去る。
 封筒を押しつけたリヴァイは、踵を返して行ってしまった。あの未練がましく長かったティータイムが嘘のように、あっさりと。
 申し訳程度の外灯に照らされた暗い街。ブーツが石畳を踏む音が響く。

 叫んだのは、無意識だった。

「リ、リヴァイさん!」

 石畳の上でリヴァイの足がぴたりと止まり、わずかにナマエを振り返る。

 一体どうして彼を呼び止めたのか、ナマエは自分でもわからなかった。
 呼び止めてどうするのか、何を言うのか。
 考えて呼び止めたのではない。本能だった。

「あの……お返事を書きます、必ず」

 本能が出した声は震えていた。

 石畳の上で、リヴァイは小さく頷いた。ナマエにはほんの少し彼の口角が上がったように見えたが、夜道の中ではそれも定かではない。

 ――ううん、きっと彼は笑ってくれた。そうに違いない。

 彼女が勝手に温かな灯火を心に点すと、鼓動が逸り、身体中に響き始める。
 リヴァイは再び踵を返し、今度こそ夜道へと溶けていった。



 コート姿が完全に見えなくなると、空からちらちらと雪が舞い始める。
 わずかな街灯に降る雪が白く反射する様は、真っ暗な道に希望の光が灯るようだった。




【Immature letter Fin.】







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