九月下旬、夏の名残がようやく消え去った頃。
午後の分隊長室は静かだ。聞こえてくる音はわずか二種類しかない。
カリカリとエルヴィンのペンが滑らかに走る音と、ガリガリとリヴァイが髪の毛を掻き毟る音。
「リヴァイ……お節介かもしれないが」
ペンの音が止み、それと入れ替わりに三種類目の音が現われる。エルヴィンの声だ。
手元の書類に一生懸命になっていたリヴァイは、顔を上げるのが一拍遅れた。書類を睨み付けていた目つきそのままに声の主を見やると、眉尻をわずかに下げて苦笑している。
「一度きちんと読み書きを習ってはどうだろうか?」
「……あ?」
三白眼はまっすぐにエルヴィンを射貫く。
あまりの目つきの悪さに、エルヴィンは眉尻を更に下げた。
リヴァイが調査兵団に入団して半年ほど経った。
一兵卒のリヴァイにも、書類を作成しなければならないことがある。訓練記録、経費精算書、時々始末書、エトセトラエトセトラ。
そしてリヴァイは書類作成がとにかく苦手だ。
リヴァイは、その生まれ故に
リヴァイが書類作成に頭を悩ませるタイミングを見計らって、エルヴィンは業務を命じる
だがリヴァイは、「教えてくれ」、その一言を素直に口に出すにはまだ若かった。もう少し年月が経てば、あるいはその台詞も躊躇なく言えたのかもしれないが。
故に、リヴァイは書類作成の度にエルヴィンの元で頭を掻き毟っている。見かねたエルヴィンが口を出し、その場その場でなんとか書類の体裁を整えている始末だ。
「読み書きというのは、独学での習得はなかなか難しい。訓練記録一枚書くのにそれだけ時間を割いていては、業務も回らないだろう。きちんとした教師をつけて学ぶべきだ」
エルヴィンはいたって穏やかに言ったが、リヴァイは無言で眉間の皺を深くし、そのままエルヴィンを睨み続けた。
指摘は真っ当である。
リヴァイは面白くないと思う反面、納得していた。
入団時こそその出自と態度で周りの顰蹙を買っていたリヴァイだったが、最近では兵団内でも徐々に彼の実力を認める者が増え始めていた。
だがせっかく実力で認められても、読み書きの一つもできないとなると、また出自のことでとやかく言う輩が湧くことは目に見えている。それは避けたいところだ。
それにリヴァイ自身も、読み書きのことで困っているのは事実だった。エルヴィンの言うとおり書類一枚に割ける時間は限られている。
エルヴィンもまた、リヴァイには是が非でも読み書きを身につけてもらわねばならないと思っていた。
リヴァイが一兵卒の今はまだ、書類仕事も大して多くない。だがいずれ彼は間違いなく役職に就く。もとい、就かせる。
遠くない未来、自分に権限が与えられたら。自分が団長になったら。リヴァイを名実共に自分の腹心にすると、エルヴィンは決めていた。
役職に就けば今とは比べものにならない量の書類を捌かなくてはならない。できるだけ早く読み書きをマスターさせるべきだと、そう考えていたのである。
「小学校に通えとは言わない。俺の知り合いで教師をやっている者がいる。紹介するから、その者から読み書きを習いなさい。他の兵士達には知られないよう根回ししておく」
「……それは命令か?」
「命令だ」
「……了解だ」
リヴァイにとって主と認めたエルヴィンの「命令」は、既に「絶対」となっていた。
* * *
数日後の夕刻、リヴァイは調査兵団本部の正門を出た。
エルヴィンの記した地図を頼りに街を歩く。辿り着いたのは、調査兵団本部から程近い、大通りから少し外れた質素な民家だ。
『ナマエ・ミョウジ』
表札の文字は、エルヴィンが地図の横に記したメモと一致している。読み書きが不得手とはいえ、さすがにそのくらいはリヴァイにもわかった。
古びたドアノッカーで木製のドアを鳴らすと、程なくしてドアの向こうからパタパタと室内を駆ける音が聞こえる。その音を聞いて、思わず眉間に皺を寄せた。
この足音はもしかして……いやもしかしなくても、女性じゃねえか?
「こんにちは、リヴァイ兵士長ですね! お待ちしておりました」
「ナマエ・ミョウジと申します。エルヴィンから話は伺っております、どうぞ上がってください」
そう言ってナマエはリヴァイを家の中へと促した。にっこりと笑った唇の隙間から白い歯が覗く。
屈託のない彼女の様子に、リヴァイは逆に心配してしまった。
全くリヴァイを警戒していない。女一人暮らしと見受けられるのに、男が、それも普段から鍛えられている兵士が家に上がることに躊躇がない。
人を疑うことを知らないのだろうか。それとも紹介者のエルヴィンをよほど信頼しているのだろうか。そういえば「エルヴィン」と呼び捨てだった。
「さあ、どうぞ!」
躊躇っているリヴァイに、彼女は尚も笑みを向ける。
リヴァイは致し方なく、気まずげに彼女の家へと足を踏み入れた。
「エルヴィンは私の幼なじみなんです。もう聞いてました?」
「……いや……」
「年は結構離れているんですけどね、子供時代、家が隣同士で。私は一人っ子だったので、エルヴィンのことは実の兄のように慕っていたんです。おじさま……エルヴィンのお父様が亡くなった後彼が引っ越してしまって、それからは疎遠になっていたのですが」
ナマエはキッチンでお茶を淹れながら、自分とエルヴィンとの出会いを語った。
「教師になってから、偶然調査兵団本部のあるこの地に赴任してきたんです。越してきて初めて、エルヴィンが兵士になったことを知りました。
びっくりしましたよ、分隊長だなんて! このあたりの住人の間では、彼は調査兵団を支える優秀な分隊長として名高いんですよ。なんだか私まで鼻が高くって」
明るくて明瞭な声。ナマエは場の空気を和ませようと、そして新しい教え子と打ち解けようと尽くした。
対してリヴァイの相づちはもごもごと不明瞭だ。もともと口が達者なタイプではない。だがナマエはさして気にする様子もなく、にこにこしながら喋り続けた。
口を動かしたままティーポットとティーカップをトレーに載せたナマエは、ソファの前のローテーブルへと運んできた。
「平日は近くの小学校で教師をしていますが、家の事情で学校に通えない子供もいるでしょう? だから週末に時々公園で青空学校を開いています。週末だと、平日に家業で動けない子供も来てくれたりするんですよ」
「……それじゃあ、あんたはいつ休むんだ? 平日も週末も子供に教えているんじゃ、俺が読み書きを習う暇なんて全然なさそうだが」
ソファに腰掛けて黙っていたリヴァイが、ようやく言葉らしい言葉を発した。
皮肉めいた口調だが、これはリヴァイの癖だ。ただの皮肉というわけでもない。彼女の無理が祟ることを心配しているのもある。
もっともナマエはリヴァイの言葉を皮肉と取らずに、単純に自分の体調を慮った親切心と取ったらしい。彼女はごくごく善良な人間だった。
「大丈夫です、きちんと夜は休んでいますし。週末の青空学校も毎週ってわけじゃないんです。二週間に一回、その他にも雨が降ればお休み。
リヴァイさんには……そうですね、火曜と金曜の夕方に来ていただくというのはどうでしょう? 週二回の授業、期限は……特に決めずにいましょうか。リヴァイさんが基礎的な読み書きをマスターするまで。いかがですか?」
「……俺は構わねえが」
「じゃあ決まりですね!」
パンと両手を打ったナマエは、かちゃかちゃとリヴァイの前に紅茶と茶菓子を配置する。
どうぞと勧められ、リヴァイはティーカップに手を伸ばした。
湯気がふわりとリヴァイの鼻をくすぐった瞬間、少し驚いた。とても芳醇な香りだったのだ。
ティーカップに目を落とすと、白いカップの中に鮮やかな黄赤が映えている。香りだけじゃなく色も見事だ。
では味はどうだろうかと、リヴァイはカップの縁を鷲掴みにする独特な持ち方で紅茶を持ち上げる。
一口飲んで、思わず目を瞠った。
美味い。
上手い。
もしかしてとんでもなく良い茶葉なのだろうかと、キッチンに置いてある紅茶缶に目をやった。
特別高級な茶葉ではない。兵団の食堂に置いてあるものと同じ銘柄である。
だが同じ茶葉とは思えないほど、美味い紅茶だった。
「あんた……茶を淹れるのが上手いんだな」
無愛想な声と共に視線を向けると、ナマエはにっこりと微笑んだ。
これだけ茶葉を上手に扱って、美味い紅茶を淹れる奴だ……悪い奴ではねえんだろうな。
リヴァイはそんな風に妙な納得をし、そしてその日から二人の授業が始まった。