アイオロスは闇夜を駆ける 01




澱んだ空気が湿気を含み、重く路地を覆っていた。泥混じりの水溜まりは乾くことなく、時に眉をひそませるほどの腐敗臭を漂わせ、更に空気を澱ませた。

ウォール・シーナ地下街。朝も夜もない黒く歪な天井 () が人々を見下ろす街。かつて地上の住人たちが移住するため、都市計画が進んだ地下街も、今ではゴロツキや孤児、借金の形に売られた女たちなど、世間からはじき出されたいわく付きの人々が、最後に行き着く陽の当たらない街である。




「ふん、間抜けな奴らめ。穴だらけなんだよ、てめぇらの仕事は」


入り組んだ路地の更に奥、小柄な人影が滑り込む。落とさないように紐で括りつけた四角い荷物は、抱え直す度にガシャンと重苦しい金属音を鳴らした。


「どこに行きやがった!!」
「早く探せ!! アレが捌かれたらこっちの身がヤバい!!」
「どこの野郎だ! ネズミを必ず探し出せ!!」


路地に怒号が飛び交い、ガラの悪い男たちが幾人も走り回る。地下商人の一団からあるものが盗まれ、彼等は血眼になってネズミを追っていた。


窃盗は日常茶飯事。奪い奪われがこの地下街のルール。強者は弱者を食い物にし、しかし油断をすれば寝首をかかれてしまう。だから地下商人が油断すれば、ネズミは隙を突いて襲い掛かる。今必死になっているのは雇われた用心棒たちだけで、他の住民たちはいい気味だと、いつも自分達に理不尽な仕打ちをする輩を嘲笑っていた。

地下での商売は相場が高い割に、地上で売り買いされているものに比べれば粗悪な品物が多い。ただ稀にとんでもない掘り出し物がある。日々の生活に必死の住民たちが買うとも思えない代物が、だ。
昨今、兵団からの横流し品の中に、あの立体機動装置が地上ばかりか地下でも出回り始めた。どうしてもネズミ──リヴァイはこれを手に入れたかった。否、手に入れなければならなかった。


彼はこの地下街で生まれた。娼婦だった母は病に罹り、もうこの世にはいない。一人残され餓死寸前だったリヴァイは、母の知人という男に引き取られた。男はリヴァイにここでの生き方を教え、いつの間にか姿を消し、未だに戻る気配はない。

子どもが一人で生き延びるには厳しい環境だが、リヴァイは違った。教え込まれた術を駆使し、危険と隣り合わせの地下街で、彼は時に理不尽に堪えながら日々を過ごしていた。


地上では当たり前に輝く太陽とは無縁の穴倉。
申し訳なさ程度に設置されたくすんだ緋色の灯りと、家屋で点される灯りだけが、人々の生活を照らしていた。生きる術を持たない弱者は暗く汚い路上に膝をつき、そして体を横たえる。泥水がその身を汚そうとも、生気を失った瞳は瞼で閉ざされ、立ち上がる気力すら奪われていく。
地下街では変わらぬ日常として、弱い者から命を落としていった。

誰もが精いっぱいで、自分のために生きていた。恵むことも気に掛ける余裕もない日々。しかしリヴァイは、初めて自分ではない誰かのために動き、危険を冒そうとしていた。
どうしても助けたいと思う人がいる。それはリヴァイにとって、名も知らない感情の始まりだった。


* * *


数時間前──。

長い上り坂を曲がると、差し込む太陽の光によって、地下では決して感じることのない目の痛みを訴えた。強烈な白い刃は暗い穴倉に慣れた瞳へと、容赦なく振り下ろされる。


「クソが……っ」


白む視界に目を細め、光を遮るために手が無意識にかざされた。わかってはいるものの、一直線に伸びる陽の道から逃げる術はない。
子どもにしては纏う空気が鋭く、力を見誤って手を出せば、間違いなく噛みつき、食いちぎられるだろう。灰色がかった青の瞳は、凍てつく氷を連想させるものの、触れれば火傷をするかのような炎が揺らめいていた。


かざした手の甲は赤黒い血がこびり付き、皮が剥けて赤くなっていた。この血はリヴァイのものではない。地上に続く階段を管理し、法外な通行料を巻き上げる元締めが雇ったゴロツキを、殴り飛ばした際に不本意ながら飛び散った汚れ。今頃血反吐を吐きながら無様に転がっている男たちが脳裏に浮かび、まだ (ぬめ) りを残したそれに吐き気がした。

先刻まで気にならなかったが、太陽の光に照らされると、己が汚れ切っているものだと突きつけられているようで、不快さは更に増していく。

通行料さえ払えば難なく地上に出ることはできる。しかし大人でさえ用意するのが難しいのに、子どものリヴァイが易々と出せる額ではなかった。だからリヴァイは隙をついて地上に続く階段を目指したのだが、結果力任せに突破する以外、方法はなかったのだ。


なぜそんなことになったのか。
最近めっきり獲物からの収穫が落ちた。その原因は地上で幅を利かせている憲兵団員の、憲兵らしからぬ勤勉な働きにある。ここ最近、地下商人から賄賂でも受け取ったのか、積荷の護衛をする彼らの姿がちらほらと確認できた。

数日前、憲兵を舐めてかかった子どもの一団が、一斉に捕縛されるのを目の当たりにしたリヴァイは、同じく狙っていた積荷を襲わずに、大人しくアジトへと見つからないように引き上げるはめになってしまった。

地下商人の積荷を複数で襲い、目ぼしいものを強奪する。それが年端のいかない少年たちたちの手段。まともな食事も摂れずに痩せた体でも、肥えた動きの鈍い商人相手ならなんとかなっていた。
それでも随分危ない橋を渡っている。腕に自信があるとはいえ、リヴァイとてまだ子ども。兵士として正規の訓練を受け、益して立体機動装置で追跡された時には、すぐに捕縛されるのがおちなのだ。


「チッ。憲兵の奴らが張り切っているお陰で、地上に出るはめになっちまったじゃねぇか」


不自然な動きを見せれば、居住権のない地下街の人間だとバレてしまう。危険を冒してまで登ってきたのに、何の収穫もないまま強制送還されるのだけは御免被りたい。
しかもリヴァイは見張りを殴り飛ばしてきてしまったのだから、余計に都合が悪い。捕まって地下に送り返されれば、真っ先に奴らが報復に出るだろう。

自然と顔が歪んだ。男とはいえまだ子ども。しかも色が白く小柄で整った顔の男児は、ある種の人間にすこぶる受けがいい。


「気持ち悪ぃんだよ、クソどもが」


つい先日も小柄なことをいいことに、押さえ込まれてコトに及ばれそうになったが、警戒していた矢先のことだったので、返り討ちにし、代わりに金品を巻き上げてやったばかり。最近では手を出してくる輩も少なくなったというのにと、戒めも兼ねて蹲る男の腹に蹴りを入れてやったくらいだ。


フラリと人の波に紛れ込みながら、リヴァイは辺りを窺った。金目のものか食料か。懐の金を掏るか店先から盗みを働くか。選択肢は限られているが、失敗する気など毛頭ない。
懐に潜ませたナイフを確認し、品定めをしていると、やけに人だかりがあることに気付き、これは都合が良いと仕事の手口を掏りに決めた。
何かに夢中になって見物している様子から、これは仕事があっさり片付きそうだと、身なりの良い者を物色していれば、横にいた数人の会話が耳に届いた。


「また男爵様のお遊戯 (たわむれ) が始まったぜ」
「ああ、相変わらずだな。いい趣味だぜ、まだ子どもだぞ」
「可哀そうに。散々玩具にされて、飽きたら娼館に落とされるだけだ」
「しかもあの落ちぶれた伯爵から買ったらしい」


男たちの視線は、人垣の向こうにある大きな通りに向けられていた。一体何があるのだろう。僅かな隙間から見えるのは、立派な馬車が連なって行進する様子だった。
地下街では当然こんな行列などない。初めてみる光景に、「今のうちに動け」と頭ではわかっているのに、リヴァイはそれに反し馬車の前へと人を掻き分け前に出る。仰々しい馬車の行列が目の前を通り過ぎ、更に見たこともない眩い装飾の施された馬車が近付いて来た。周囲を囲む沿道の人々は、その豪奢な馬車に好意ではなく、嫌悪と憐れみと好奇が入り混じった視線を向けていた。


「ふん、どこの貴族様か知らねぇが、いい御身分だな……」


侮蔑の籠った声で呟けば、周囲にいた大人たちがギョッとした顔でリヴァイを見下ろしてきた。どうやら彼らはリヴァイの存在に気付かなかったらしく、突然湧いた声に驚いているようだった。


「なんだ坊主……。驚かすんじゃねぇよ」
「あれは、どこの豚野郎だ」
「おい、お前っ!……まあいい。丘の上にデカい屋敷が見えるだろう。そこに住む貴族様だ。男爵ではあるが、そこいらの爵位を持った貴族より権力があるからな。大抵何をしたって許される」


言っている意味は理解できる。貴族と名のつく者は、相当の足がつく犯罪でも侵さない限り、暗黙の了解としてまかり通る仕組みだ。それが高位であればあるだけ当然なのだが、相手はどうやら爵位が一番下の男爵らしい。しかし権力が上とはどういうことなのか、大抵とは何を指してのことなのか気になってしまった。

前者は財産、つまり金の力が並外れているのだろう。では後者の答えはと怪訝な顔をしていると、男は「ほら」と近付く馬車を指さし、それに合点がいった。


この感情をどう言い表せばいいのだろうか。
まるで馬車の中を見せつけるように、カーテンが開けられたままの窓の奥には、眩いブロンドを綺麗に巻いた、人形のような少女が座っていた。どう見ても自分と同じ年頃のその少女は、宝石と見紛う大きな瞳でじっと外を見つめていた。光のような美しさだが、魂が宿らずただ輝くだけの瞳の少女は、このまま貴族の屋敷に向かい、一体どうなるというのだろうか。

ゾワリと全身が総毛立った。
行き着く先の解答はただ一つ。少女は買われ、囲われ、汚されるのだ。こんな子どもを買う趣味の人間など、腐りきっているに違いない。美しいブロンドも白い陶器のような肌も、何より無垢な少女の全てが、欲に塗れた手によって汚される姿を想像し、リヴァイは急激に怒りが込み上げてきた。


一体何をしようとしているのか、体が勝手に動いて沿道に一歩足を踏み出したその時だった。

ほんの一瞬。しかし射抜くような視線の先にいる少女が、窓の外のリヴァイに気付き、目があったように思えた。


私をここから出して──。

命の宿らないガラス玉のような瞳が、リヴァイを見て輝き、生気を取り戻す。互いが互いを認識し、確固たる意志が湧きあがった。

必ず助け出す──。

リヴァイはごった返す通りを抜け、再び地下への道を駆けて行く。あの少女の元に行くためには、地下に戻って危険を一つ冒さなければならない。それは今日の夜更けまででなくてはならない。
そうでなければ、少女は汚らしい豚の生贄になってしまうのだから。







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