第二十二章 団長と分隊長 2





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翌日、エルヴィン団長は、もうしばらく病院にいるべきだという医師の助言を無視し、やはり勝手に馬車を手配し兵舎へ帰ってきた。
私は団長に対してハンジさんの時と同様に通り一遍喚き、そして「すまないすまない」とあしらわれた。
だが、エルヴィン団長に仕事をされたんじゃたまらない。治るものも治らない。
本来であればまだ入院中の身なのだ。私達は一先ずエルヴィン団長を執務室ではなくベッドのある居室へ閉じ込めた。
しかし、おそらく私達に言っても無駄だと思っているのか、私達よりもっと下級の兵士に指示し、執務室から書類と筆記用具を持ち出させて、結局ベッドで仕事をしていた。

「失礼します」

団長が帰舎してから数日後の午後、私はノックをし声をかけ、エルヴィン団長の居室に入った。

「ナマエ」

エルヴィン団長は慌てたように手元に持っていた書類を枕元に置く。

「……」
「いや、今日はこれだけだ……すぐに終わる、サインをすればそれで終わりだ」

無言でその書類を見つめる私に、団長はまるで言い訳をする子供のように言葉を紡いだ。

「……ふふ」

私は団長のその慌てた様子がおかしくて、小言を言うつもりがつい笑ってしまった。
団長もそれにつられたのか、ふっと笑みをこぼす。

「団長のお顔を綺麗にしようかと」

私は持ってきた盆を掲げた。盆の上には粉石けん、カップ、ブラシ、そして剃刀。
無精髭が目立つので、剃ってさしあげようと思っていた。
石鹸をカップでふわふわに泡立て、団長の口周りに塗る。そして剃刀で優しく肌をなぞる。

「……うまいもんだな」
「あっ、団長喋らないでください、危ないので」

泡立て方も剃り方も手慣れている私にエルヴィン団長は驚いたようだったが、喋ることを私に止められそれ以上は口を開かなかった。

これは娼館にいた時に身に着けた技術だ。
客から求められれば髭も剃ってやるし、先輩娼婦達の剃毛も手伝わされた。陰毛がないことを好む客もいたためだ。そんなことは団長には言わないが。

「んー、はい終わりです。男前に戻りましたよ」

団長の顔の泡を温めたタオルで拭きとった後、私は団長の頤に手をかけ口周りを検分して言った。

「はは、ありがとうナマエ。慣れたもんだな。リヴァイの髭もいつも剃ってあげているのか?」
「……まさか! 兵長はそんなことは……」

私は慌てて否定する。

「ナマエ、すまないがお茶を淹れてくれないか。君の分も」
「あ、はい……私もよろしいんですか?」
「ああ、話し相手になってくれ。ずっとこの部屋に一人でいると退屈で仕方ない」
「そういうことでしたら、遠慮なく」

居室に備え付けのポットと茶葉でお茶を淹れ、団長の左手側に差し出した。

シャツの右袖は、通常中にあるべきものがない状態でだらんと垂れ下がっている。
何度見ても痛々しく、まだ慣れない。

「ありがとう」

団長は左手でティーカップを持ち、一口飲んだ。
やはり無精髭はないほうが団長らしい。美しい顔が引き立つ。
金髪碧眼、眉目秀麗。おまけに長身でガタイもいい。
浮いた話がまるでないのが信じられない。この人なら選び放題だろうに。
実際兵団内でもかなりモテている。団長、兵長はツートップだ。どちらが一位でどちらが二位かは知らない、というか僅差過ぎてわからない。

「ナマエと、きちんと話したかったんだ」
「はい、なんでしょう」

改まってそう言ったエルヴィン団長に、私も向き直る。

「先般の作戦では、よくやってくれた」

エルヴィン団長は左手で私の手を取り、握った。

「実践に慣れていない新兵と憲兵が多い状況で、その上君以外の幹部が誰もいない中、作戦中無茶な事を言った自覚はある。よく部下をまとめてついてきてくれた。帰路もよく隊を率いてくれた。
君の止血も、あの状況下でできる最善だったそうだ。病院で医師がそう言っていた。
今俺の命があるのは、ナマエ、君のお陰だ。ありがとう」

私はこの人を常人じゃないと思っているし、この人が腹の中に抱えているものが恐ろしくて仕方がない。
だが、私達には計り知れない考えを持っているこの人を尊敬しているのも、この人ならきっと世界を変えてくれるからついていこうと思っているのも、事実だ。
自分の尊敬する人にそんな風にお礼を言われるのは、嬉しいし照れくさい。

「いえ、そんな……私の力なんて、微々たるもので……エレンを奪還したのも団長のお力ですし」

そう言って両手を胸の前で振った。

実際、エレンを負ぶっていたベルトルトの隙をついて斬りつけエレンを奪還したのは、健常な他の兵士ではなく、右腕を無くした状態の団長だった。恐ろしい体力と精神力だと思う。

「いや、リヴァイからも報告を受けている。帰還後状況を報告する君は立派だったと。
胸を張ってくれ、俺の自慢の部下だ」
「……ありがとうございます。嬉しいです」

私は謙遜を止めて、素直にお礼を述べた。

「……でも、団長にとって一番の『自慢の部下』は、リヴァイ兵長ですよね?」

私の口からぽろりと出た言葉に、エルヴィン団長はきょとんとしてその大きな目を丸くした。

「団長が意識を取り戻した時の兵長の顔ったらなかったですよ。それはそれは安心した顔をして。もう、一番大事な部下に心配かけないでくださいね?」

この際だ、私は勢いに任せて色々言ってみた。全て事実だ。

「……ははは、なんだナマエ、俺とリヴァイが仲が良いと妬いてるのか?」

エルヴィン団長はおかしそうな顔をして、左手を口元へ持っていく。

「うーん、少しそうかもしれません」
「ははっ、安心しろナマエ。リヴァイは君に惚れている、君だけに惚れている。それはもうどっぷりとな。くくっ……」

声を出して笑うエルヴィン団長は、なんだか楽しそうにも見える。

「それは安心しました。私エルヴィン団長が恋敵じゃ勝てませんもん。相手が悪すぎる」
「ふっ、大丈夫だ。それに……」

団長は声を出した笑いを引っ込め、穏やかな笑顔で私を見た。

「俺はストレートだ。……君も知っているだろう?」
「……」

私は黙った。示唆していることに思い当たる節はある。

「団長、あの日の……帰路の記憶はありますか?」

女を抱きたい、「マリー」を……と言ったあのことだ。

「……ああ、ある。ところどころ飛んでいる部分もあるがな……君に不躾な事を言ったのは覚えているよ。すまなかったな」
「いえいえそんな、とんでもないです……」

私は恐縮して、また両手を胸の前で振った。

「部下に女の心配をさせるなど、セクシュアル・ハラスメントと言われても仕方がないな」

確かに、いきなり女を抱きたいと言われてびっくりしたが、あの時あの状況だったら仕方ないとも思う。きっと本能がそうさせたのだから。

「団長、『マリーさん』……お呼びしましょうか?」
「……」

エルヴィン団長は黙り込んだ。



私は壁に戻った後、一人でこっそり「マリーさん」の事を調べていた。

先般からベテラン調査兵がどんどん戦死している中、情報を掴むのは正直骨が折れた。
あちこちにネットワークを張り巡らせ、やっと辿り着いたエルヴィン団長の想い人、「マリーさん」――それは、憲兵団、ナイル・ドーク師団長の奥方だった。

「団長にとって必要ならば、どんな形を取ってでもお連れしますが」
「……」

「どんな形でも」というのは、人様の奥方を他の男の前に連れてくるのは、多少真っ当ではない方法を取らなくてはいけないかもしれないとわかっていたからだ。
しばらくして、エルヴィン団長はやっと口を開く。

「いや、いい、ナマエ。ありがとう。……もう人のものだ。君ならわかっているんだろう?」

私は黙った。沈黙が回答だ。

「私とナイルは同期でね」

団長は窓の外を見つめながら話し始める。

「訓練兵の頃はよく一緒に酒場に行ったもんだった。あの頃は、兵士は十八歳以上じゃないとなれなかったからな。訓練兵も今のような子供じゃなくて皆成人していたから、調整日前には皆揃って酒場に通うのが恒例だったんだ。
マリーはその酒場の看板娘だった。美人で愛嬌のある子で……俺もナイルも彼女に惚れていた。
俺とナイルは調査兵を目指していたが、マリーに惚れたナイルは、憲兵となり彼女と穏やかな家庭を築くことを選んだ。そしてマリーもそんなナイルを選んだ」

そこまで話すと、エルヴィン団長は窓の外から視線を動かし、私の目を見つめた。

「俺が選んだのはマリーじゃない、巨人だった」

だんだんと日が暮れてきた。部屋が少しずつオレンジ色を帯び始める。
エルヴィン団長は、また視線を窓の外へ戻した。

「もう二十年近く前の話だ。今、マリーの事を本気で愛していて手に入れたいわけではない。
彼女が子供にも恵まれ幸せな家庭を築いているのであれば、それは本当に喜ばしいことだと思っている。
ただ、俺には最後の恋愛だったからな……思い入れが強い。思い出は美化されるものだしな」

団長は、はは、と乾いた笑いを出した。私はずっと黙っていた。
この人は、二十年近く前を最後に、女性を愛していないのか。

「ナマエ、君は……マリーに少し似てるんだ。
顔立ちと言うか……金髪碧眼なところがな。君のほうがマリーよりも更に美人だが」

団長は再び窓の外から視線を動かし、私に合わせる。

「だが、中身は全然違うな。マリーは君ほど狡猾にはなれない」

私を形容する言葉がなかなかに辛辣だったため、私は苦笑しながら抵抗した。

「狡猾って……」

ひどくないですか、と笑いながら抗議する。するとエルヴィン団長は慌てて否定した。

「いや、褒めているんだ。頭の回転が早く、機知に富んでいて、相手の事を読めるからこそ、狡猾になれるんだ。それも君を部下として買っている一因だ」

そこまで一息で早口で口に出すと、エルヴィン団長はふう、とため息をつく。

「すまない、自分の事を話しすぎたな……君に甘えてしまったようだ」

なんだかんだいって弱っているかな、と自虐の笑みを浮かべる。

「とんでもないです。甘えてください。
良いように使っていただいて結構です。私は団長にとって使い勝手のいい部下でいたいので」

駒で構わない。駒として認めてもらえるならば。
せめてポーンではなく、ナイトかビショップくらいには思っていてくれると良い。
この人についていくと、とうに決めている。それは私の愛する人も一緒のはずだ。

「今日の話は、団長と私の秘密にしましょう」

そう言って私は人差し指を口に当てた。団長はそれを見て嬉しそうに笑顔を見せる。

「ありがとう、ナマエ」

恋愛感情ではない。友情、とも違う。
私とエルヴィン団長の間には、お互いの聡さと腹黒さを認め合った、そして共にリヴァイ兵長を大切に思う者としての、奇妙な連帯感が生まれた。

「明日も髭、剃りに来てくれるか? 明日は茶菓子を用意しておこう」
「ええ、喜んで。エルヴィン団長」

私はにっこりと笑顔で返した。




   

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