第十六章 Intermezzo 3 ――間奏曲 3――





02




「ハンジさん?」
「ああ、ナマエ」

声をかけて入ると、すぐにハンジさんの返事がくる。
久しぶりにハンジさんの顔を真正面から見たわけだが、私は思わずひっと声を上げてしまった。
これは……ひどい。
目は血走り、目の下の隈の濃さは兵長の比ではない。髪の毛はボサボサ、野伏の様だ。多分顔すら洗っていないのだろう、顔面が脂ぎっている。
だが、まだ目の奥の生気が消えていないのがすごい。消えていないどころかギラついている。
極度の睡眠不足で精神が興奮しているのも一因だろうが、それだけではない。
この人の知的探究心は末恐ろしい。

ハンジさんの執務室を見渡すと、気づく事がいくつかあった。
食事が終わった後の食器が机上に乗っている事。これはモブリットがきちんと食事を運んで食べさせているのだろう。
水差しの中の水はまだ冷たいようで、水差しの表面に水滴がついている事。これも、モブリットが定期的に中の水を取り替えているのだろう。
甲斐甲斐しく世話をするモブリットの様子が目に浮かんだ。

「ハンジさん、今日はお風呂に入りますよ!」

私はハンジさんの腕を一方的に組む。

「ええっ、風呂? 何言ってるのナマエ、そんな時間あるなら研究と開発に使わないと……」
「何言ってるのはこっちの台詞です! ハンジさん、この執務室臭い! 異臭です異臭!
 あなた壁外調査前に兵舎内に伝染病を蔓延させるつもりですか!? 第三分隊の人間にうつしたら承知しませんよ!」

私は敢えてわあわあと捲し立てた。

「ひっどいなあ、ナマエ……今日厳しくない?」

そう言うハンジさんを引きずって私は廊下に出る。ニファ、ケイジ、アーベルが私に向かって両手を合わせて拝んでいる様子が見えた。私は苦笑して頷いた。



ハンジさんを女子浴場に無理やり引きずり込み、勝手に用意した新品の下着を渡す。

「どうせ洗濯もしてなくて足りてないでしょ?」

いくらなんでも下着の洗濯までは、モブリットはできないはずだ。

「……さっすがだよ、ナマエ」

ハンジさんはとうとう観念して、私と一緒に湯船に浸かることにした。

浴場は混み合う時間帯のはずだが、今日は幸運なことにそこまで混んではいなかった。
私達は湯船の隅の方に並んで肩まで浸かり、浴場の入り口から出たり入ったりしている裸の女性兵士達をぼんやりと眺めていた。

「……ふう……」

ハンジさんの口から恍惚としたため息が漏れた。

「入れば、気持ちいいでしょう?」

私が言うと、ハンジさんは目をトロンとさせ、うんそうだねと返事した。

「身体が温まってきたら眠くなってきたでしょう? 今日はもう寝たほうが良いです」
「……でもさ、寝てる暇もないんだよね……」
「わかるけど、寝たほうが絶対に効率上がります。それに、ハンジさんが寝ないとハンジ班の部下達も休みにくいんですよ。上官なんですからその辺は計らってください」
「……そーだね……その通りだな」

ハンジさんは腕を上げ大きく伸びをした。ぱしゃりという水音が控えめに響く。

しばらく私達は無言で、ただただ湯船を堪能した。
私もこんなにゆっくり湯船に浸かったのは数日ぶりだ。つい忙しさにかまけて、かけ湯のみで済ませてしまっていた。

湯気がもくもくと立っている浴場内は、若い女性の話し声や笑い声に満ちていた。
今や、調査兵団の中で私達は古株も古株、古参中の古参だ。
――この浴場にいるほとんどの兵士が、次の壁外調査では真の目的を告げられないまま、壁外に出ることになる。
私はそこまで考えて、思考に蓋をした。

今頃、モブリットも風呂に入れているだろうか。ハンジ班の皆は、少しは休めているだろうか。
いや、モブリットはきっと、ハンジさんがいないこの隙にと執務室の整理整頓でもしているかもしれない。

「……第四分隊副長は、優秀ですね」

思わずぽろりと私の口から出る。

「……何、モブリット? うん、優秀だよ」
「ハンジさんの事が大事なんですよ、モブリットは」
「え?」
「上官の食事や水差しの水までお世話して。ハンジさんが没頭しちゃうと見えなくなる事、全部モブリットが代わりに見てくれている。あんな甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる人、他にいませんよ。ああいうの、女房役って言うんです」
「……感謝してる」

少しの間の後、ハンジさんは言った。
その瞬間ハンジさんの表情が変わったのを私は見逃さなかった。
今まで見た事ないような……何というか穏やかで、でもはにかむみたいな。

ハンジさんにとってモブリットは、一部下じゃない。
それは誰が見たってそうだ。ハンジさんにとっては特別な部下のはずだ。
だが、「部下」の枠に収まるのだろうか……? 以前からその考えが浮かばなかったわけじゃない。

「……ハンジさんもモブリットのこと、大事ですか?」

私が尋ねると、ハンジさんはゆっくりと私の方を見た。もの柔らかな笑顔だった。

「……うん、大事」

その声はまるで湯気の中に消え入りそうなほど小さくて、きっと浴場で笑い合っている他の兵士達には聞こえていない。
でも、私にはしっかり届いた。

部下として大事なのか? 仲間として大事なのか? 友人として大事なのか? 
それとも……男性として大事なのか? 
――今はきっとハンジさんもよくわかっていないかもしれない。
そして、今追求するべきことじゃない。ただでさえ壁外調査前の忙しい時期だ。
それにもし、二人の関係が今までと形を変えるならば、きっとそれは自然に訪れる。外野の助けはいらないような気がした。
そのくらい、二人が紡ぎだす空気は自然で、まるで互いの凹凸がぴったり合わさっているようだった。

「さーて、じゃ、ハンジさん、髪の毛洗いましょうか?」
「うげっ!? 髪の毛!? 私もう上がろうと思ってたんだけど?」
「寝言は寝て言いましょうね、ハンジさん。今来たばっかりじゃないですか。ここまで来て、あなたをフケだらけの頭のまま帰すわけにはいかないんですよ。そうだ! 今日は特別に私が髪の毛洗ってあげます!」
「ええ〜……」
「さあさあ!」

私はハンジさんの手をひっぱり、湯船からあがった。
わあわあと騒ぎながら髪の毛を洗う私達を、年下の兵士達は物珍しそうに見ていたのだった。




   

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