第十五章 旧調査兵団本部にて
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「確かにね、あんな手枷足枷、あろうがなかろうが変わらないと思うわ。
私も様々な報告書を読める立場にあるから、あなたに関する物は一通り読ませてもらったけど、もし巨人になったらこんなもの無意味でしょう。だったら、ベッドの上で自由に寝返りを打つくらいどうってことないわ。
それに、こんな物がなくても、リヴァイ兵長はあなたが暴走したら必ずあなたを止める。手足をちょん切ってでもね。
彼にはそれができる実力があるし、彼があなたの事を本当に思っているからできることよ」
「……兵長って、やっぱり優しい方なんですか……?」
「あの男はね、一見じゃわかりにくいけどかなり仲間思いの優しい男よ。
超絶に不器用だから表現が下手みたいだけど」
そう言ってエレンに笑いかけると、エレンもぎこちない笑いを返した。
「この間……スプーンを拾おうとして思いがけず巨人化しちゃったんだって?」
私が核心に近い質問をすると、エレンはせっかく出た笑顔を引っ込めて、また俯いた。
「……はい……」
「その時、リヴァイ班から剣を向けられたって報告書で読んだけど、怪我はなかったの?」
実際には怪我なんてしなかったと報告書で読んだから知っている。
が、心配しているという事実を強調したくてそのように尋ねた。
「ええ……リヴァイ兵長とハンジさんが止めてくれて……俺には何の怪我もありませんでした。
ただ……エルドさん、グンタさん、オルオさん、ペトラさんに実際に敵意を向けられて……ああ、俺は人間じゃないのかって……俺は化け物なのかって……皆にそう思われてるのかと……」
エレンの声は震えはじめ、膝の上にある両手の拳は、ぎりぎりと音を立てそうなほど強く握られた。
「でもその後、エルドさん達四人が、俺が巨人化する時のように自分の手を噛んで、謝ってくれたんです……俺に剣を向けた事は判断を間違えたって……。それが嬉しくて……。ペトラさんが『私達を頼って欲しい』って言ってくれて……嬉しかったんです。
俺、一〇四期で訓練兵として皆と過ごしていた時……信頼し合える仲間に会えて、嬉しかった。幼馴染のミカサとアルミンだけじゃなくて、他にも信頼できる仲間ができて……。
それが、俺が巨人になってしまったことで一気に全部失ったと思っていました。でも、化け物の俺にも、また信頼し合える仲間ができるかもってやっと思えたところなんです」
十五歳の少年の独白に、私は胸が苦しくなった。
この子は五年前のシガンシナ区陥落の時から、親がいない。
多分心を許している人間もかなり少ない筈だ。
それでも信頼し合える仲間が欲しいと訴える彼を、抱きしめてあげたい衝動に駆られた。だが実際に抱きしめては、さすがにそれは誤解を生むだろうと自重する。代わりに私はエレンの頭を撫でた。
「エレン、あなたは化け物じゃない。巨人化できたとしてもね。化け物じゃないわ、人間よ。
少なくとも、ここにいるリヴァイ班と、団長を始めとする調査兵団幹部は全員そう思ってる。
だから、他の誰に何を言われても気にすることはない。
そして、ペトラが言う通りよ。あなたは私達に頼るべき。私達もあなたを調査兵団の仲間の一人として頼るんだから。
あなたは調査兵団の一員として、私達の仲間になったのよ」
私はエレンの頭を撫でながら、その美しい目を見つめた。
「今すぐ私達の事が信頼できないなら、これから私達のことをよく知って。そしてあなたの信頼に足る仲間かどうか、判断して。
あなた達新兵の信頼に足る上官であるよう、私も頑張るから」
「そっか……そうか……ナマエさん……ありがとうございます」
エレンはやっと、少年らしい無邪気な笑顔を出す。
なんだ、可愛い笑い方もできるんじゃない。そう思って、私は頭を撫で続けた。
「でも……子供扱いしないでくださいよ、俺もう十五です」
長々と撫ですぎたらしい。エレンは少し顔を赤らめむっとした表情を見せた。
「ごめんごめん、男の子だもんね」
私は手を引っ込めた。
少し照れた様子でエレンは小さく笑顔を見せ、私も笑顔を返した。
* * *
翌日の早朝、俺は隣でまだ寝ているナマエを起こさないよう、静かにベッドから出た。
まだ時間が早いため、兵服を着るのは後回しにするが、素っ裸のままでは廊下にも出られない。
とりあえず、室外をうろつけるだけの間に合わせの衣類を身に着けると、ベッド横の水差しを手に台所へ向かった。
昨日というか今日というかは微妙なところだが、俺は宣言通りナマエをひいひい言わせて、最後にはとうとうあいつは失神するように眠りについてしまった。
俺が後処理をしたが、それでも全く目を覚まさない。そのまま起きずに今に至る。
無茶をさせ過ぎたと心の中で反省した。
起きたら冷たい水が飲みたいだろうと、台所の流しで水差しの中のぬるくなった水を捨て、新しい冷たい水を入れ直す。
その時、がたんと物音がして誰かが台所へ入ってきた。
「あっ兵長でしたか……おはようございます」
エレンだった。律儀に敬礼をして挨拶をされる。
エレンもまだ兵服ではなくベルトも付けていない状態だ。
「ああ……おはよう」
俺はそう言ってまた水差しの方へ向き直った。
水差しをいっぱいにした後、水を飲みに来たのであろうエレンに水道を譲ると、エレンはありがとうございますと言いながらコップに水を入れ始めた。
エレンがコップの水を一口飲むのを待ってから、俺は口を開いた。
「お前……ゆうべナマエと話したんだろ」
「あ……はい」
「あいつはどうだ? お前にとっては頼れる上官になり得そうか?」
エレンは何と答えるべきか思案しているのか、口を開けたまま言葉を発しない。俺は続けた。
「まあ……俺から言わせれば、あいつは上官としては最高だ。信頼に足る人間だな。
昨日も、お前と何を話したのか俺が聞きだそうとしても、『私は構いませんがエレンの許可を得ていませんから』って一切俺に漏らさなかったぞ」
もちろん、業務を指示したエルヴィンには報告するのだろうし、そこからエルヴィンが必要と判断すれば俺にもその会話の内容は下りてくるだろうが、それは任務だ。
「そうなんですね……」
エレンはそう言うともう一口水をごくりと飲んだ。飛び出てからそれほど時間が経っていないであろう喉仏が上下に動く。
「ナマエさんって」
つい喉に注目して見ていたら、その上の唇から突然声が発せられた。
「俺、審議所で会った時から思っていたんですけど……なんか美人過ぎて表情に隙がなくて……腹の底読めなくて怖いっていうか、近寄りがたいって思ってたんです。
でも、勝手な先入観でした。ナマエさんって優しいんですね。
昨日俺、ちょっと泣き言言っちゃったんですけど、そしたら頭撫でてくれて……」
――は? 頭を撫でた?
十五の少年相手に大人気ないのは承知だが、地下の密室で異性と二人っきりの状況でそんなことをするなど、ナマエにしては少し油断が過ぎるんじゃねえか。
俺の顔が険しくなったことに気づかないエレンが、はにかんだように続ける。
「子供みたいにしないでくださいって言ったら笑って謝ってましたけど、でも俺本当はちょっと嬉しかったんです。
なんか……いないけど、姉さんがいたらこんな感じかなって……」
そう言って頬を赤く染めた。
――姉さん、か。ならまあいい。
だが、俺のいないところで二人の距離を必要以上に縮められたことに苛立ちを感じたのは事実なので、一応釘を刺しておくことにする。
「おい、エレンよ……お前、あいつの男を知らないな?」
「男? ナマエさんの恋人ってことですか? ナマエさん恋人がいるんですか?」
「ああ、そうだ。ナマエは確かに美人だし良い奴だ。魅力的な女だが、お前、手を出さないほうが身のためだぞ」
「どういうことですか?」
俺はエレンの肩を一方的に組み、わざと体重をかけた。エレンはよろけそうになる。
「あいつの男はやばい。仮にあいつに手を出したと思われたら……まあ、お前のイチモツを削がれるだろうな。
お前の股間についてる大事なモンは二度と使えねえようにされるだろうよ」
「ひっ!?」
エレンは短い叫び声を上げ股間を押さえた。
「ナマエさんの恋人って……やばい人なんですね……誰だか知らないですけど、俺、誤解を招かないよう気を付けます……」
「ああ、そのほうが良いな」
俺がそう言うと、エレンは会釈してコップを持ったまま台所を出た。
が、台所を出た瞬間、ドアの外に誰かいたようだ。
「あっ、エルドさん! おはようございます」
エレンはそう言うと去って行き、入れ替わりで入ってきたのはエルドだ。
「兵長、おはようございます」
「ああ、おはよう」
挨拶をしてきたエルドに、俺も挨拶を返す。
エルドは俺と同様、水差しの水を入れ替えに来たようだ。
無言のまま、水道から水差しに水を入れている。ザアアという蛇口から水の出る音だけが台所内に響く。
――いつからドアの外にいた? エレンとの会話を聞かれていたか?
入団したばかりでしかもガキのエレンは、俺の話を疑いもしなかっただろうが、エルドはそうはいかないだろう。
「……兵長」
先に口を開いたのはエルドだった。
「なんだ」
「……ナマエさんの男って」
「聞いていたのか」
「……」
エルドは、キュッと音を立て蛇口を閉めた。そして黙ったまま、俺に向き合い正視する。
俺も言葉を発しない。台所には沈黙だけが流れた。
目は口ほどに物を言うとはよく言った物だ。
エルドは、目だけで俺に語りかけてきた。
――ナマエさんの男って、兵長なんですよね?
エルドは俺から視線を外さない。真正面から捉えて離さない。
俺の方が先にエルドから視線を外した。まるで根負けしたような気になる。
「……他言無用だ、口外するなよ」
溜息と共に、降参の言葉が口から出た。
「……言いませんよ、言えるわけないでしょう」
俺が言葉を発したら、エルドもやっと声を出す。
「言って、がっかりする女がどれほどいると思ってるんですか。……うちの班内だって……」
「……」
エルドのその言葉に、俺は黙るしかなかった。
「兵長、気づいていないわけじゃないんですよね?」
こいつは、女にやたらもてる。女の扱いも上手いのだろうし、女心も多分よくわかっている。
ナマエが嫉妬している件があるにしても、俺ですら薄々気づいていることにこいつが気づかないわけがないのだ。
「エルド」
俺は意識して声を固くした。
「はっきり言っておく。
俺が女として大切にしているやつはただ一人だ。お前ら全員のことも大切だが、それは部下として、仲間としてだ」
「……」
エルドは口を一文字に結んでいる。
「この話は終わりだ、いいな?」
「……はい。出すぎた真似をしました、申し訳ありません」
エルドはぺこりと頭を下げ、水差しを持って台所から出て行った。
――なんだか急に喉が渇いた。
俺も蛇口をひねりコップに水を入れて、一口飲んだ。
いつもの蛇口から出ているただの水だ。だから絶対にそんなはずはないのだが、いやに苦く感じる。
俺は思わず顔を顰めてしまった。