第九章 溺れる
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* * *
日付も変わった深夜。
夕方にはカイさんと別れ、居室に戻っていたが、私は着替えもせず、ずっと椅子に座り、窓から外を眺めていた。
夕食も取らず、風呂も入り損ねた。
お腹はあんまり減ってないし、風呂は、明日の朝でいいか……と思い、意味のないため息をついた。
カイさんの真摯なプロポーズを受けて、私はすっかり参ってしまった。
どうすれば良いのか、一層わからなくなってしまったようだ。
このまま兵士として戦い続けるべきか、兵団への継続的な金銭的援助を受けるべきか……。エルヴィン団長は、何が自分にとって最善かを自分で決めろとおっしゃっていた。
決められない。
私は自分がどうしたいのかわからないのだ。
兵士を続けるのであれば、今と生活はそう変わらないだろう。
デメリットとしては、金銭的援助を反故にしてしまったという罪悪感が残ることだ。その罪悪感を払拭するために、きっと私は命の限り刃を振るい続けるのだろう。
兵士を辞めてカイさんと結婚したら、生活は一変する。優しいカイさんと家庭を持ち、世継ぎとなる子供を産むのだろう。
兵団へは向こう十年莫大な金銭的援助が送られる。きっと壁外調査の費用に充てられるだろうし、巨人の捕獲や武器装備の改良などもできるようになるかもしれない。
なんだか兵団にとってのメリットばかりが思い浮かぶ。
私一人が兵団に残るより、よっぽど兵団としてはありがたいのではないか?
私の代わりはたくさんいるだろうが、寄付金の代わりはないのではないか?
デメリットは……あるとすれば、私が自分で選んだ兵士という生き方ができなくなることだ。
貴族という生き方がしたいわけではない。
私は、自由の翼を背負って、心臓を捧げて戦うことに誇りを持っている。
そしてもう一つ……きっともう会えなくなる人がいる。
それはこんな命を賭すことが日常の生活では、いつでもそうなのだけれど。
思い浮かんだのは一人。
きっと、兵長には……兵長が命を落とすとは考えにくいが、生きていたとしても会ってはいけない気がする。
心の奥底に沈めたはずの瓶がガタガタと騒ぎだしそうで――私はそこで思考を停止した。
居室の窓から差す月明かりが優しい。
今日は満月だ。夜風に当たりたい。
どこに行くか迷って、私は厩舎へ行き、愛馬に跨った。
夜間の外出届は出していないが、この際どうでもいい。後で怒られよう。
行先は決めていないが、とにかく遠くへ行きたい。どうせ眠れないのだ。夜明けまでに戻れば、午前の訓練にも十分間に合う。
愛馬は、起きていた。
「夜遅くにごめん。でも、付き合って」
背中を撫でると愛馬は私に顔を摺り寄せる。承諾の意と捉えた。
「はっ!」
私は愛馬に跨ると、腹を蹴って走り出した。
どのくらい走っただろう。街を抜け平地に出、かなり遠くまで来た。
小さな森の入り口に池がある。そこで馬から降り、水を飲ませた。
森の中に入るのは野生動物もいるし危ないだろうが、ここなら視界も開けているし、月明かりで周囲がよく照らされている。危なくはないだろう。
池の畔に腰を下ろし、水を飲む愛馬の顔を撫でた。
もう、考え疲れた。
考えるのは止めて、結論を決めてしまおうか。
私は兵士を辞めて、カイさんに嫁ぐ。それが一番兵団にメリットがあるのではないだろうか。
あれだけの援助、この機会を逃せばもう手に入れるチャンスはないかもしれない。壁外調査の費用を捻出するのに苦労する必要もなくなる。きっと、巨人の捕獲費用も確保されてハンジさんも喜ぶ。
カイさんは紳士的で思いやりがある上に、ハンサムだ。後輩達があんなに騒いでいたではないか。
きっとこの結婚は正解なのだ。兵士を辞めたからそれがなんだというのだ。私の生き方を曲げることが兵団のためになるなら、それでいいではないか。
そんなことを考えて、ゴロリと仰向けになり夜空を仰いだ。
満天の星だ。
初めてリヴァイ兵長と屋上で一緒になった時の空に似ていると、ぼんやり思った。
――物音がした。立ち上がり、警戒する。
壁外へ出るわけではなかったから装備もない。両手を構えていると、そこに現れたのは。
「……へい、ちょう……」
驚いた。馬を引いたリヴァイ兵長だった。
私は構えていた手を下ろした。
「お前……こんな夜中にこんなところで何をしている」
眉間の皺がいつもよりも多い。怒っている……?
「……すみません……規律違反は承知しています」
そう言うと、兵長は馬を繋ぎながら、
「俺も出てきちまったから、俺も規律違反だな。明日の朝は始末書だ」
と、立ち尽くしている私の足元に座った。私も座り、兵長と二人で池の畔に並ぶ。
「規律違反の私を回収するために来たのではないのですか?」
「規律違反だから回収しに来たわけじゃない」
「じゃあ、なぜここに?」
兵長はこちらを見ず、水面をじっと見つめている。
水面には満月が反射して白く柔らかい光がゆらゆらと揺れていた。
「兵服ではなく私服で出て行くお前が窓から見えたから……お前が兵団を出て行くのかと思った」
「へっ?」
「ユルゲンス卿のところへ行くのかと……」
そう言って黙った兵長は、水面を見つめたままだ。
私の口は少し震え、誤魔化すように、ははっと乾いた笑いを出した。
「こんな深夜に、しかも兵団の馬を持って出て行きませんよ……」
「はっ、そりゃそうだな……慌てちまった」
――ユルゲンス卿のところへ行くのを止めるために来た、ということだろうか。
進んではいけない方向へ思考が進もうとする。
しばらく私達は黙り込み、二人でずっと穏やかな水面を眺めていた。
「お前……今日はあいつとどこへ行ったんだ?」
兵長は突然口を開いたかと思ったら、カイさんとのデートのことを聞いてきた。
「……あんまり、その話はしたくないです」
「……そうか……」
「ええ」
二人の視線は決して交わらない。四つの視線は水面に向かって平行に流れるだけだ。
まるで交わることを怖がっているように。
「じゃあ、何の話をする?」
「そうですね……一昨日の夕食に出たスープの話なんてどうですか」
「はっ、ありゃあクソまずかった」
「ええ、何を入れたんだってくらいまずかったですね。ハンジさんは平然と食べていましたが」
「あいつは舌までおかしいのか、奇行種が」
「舌『まで』って失礼ですよ」
笑い合いながら、取り留めのない会話を滑らせる。
この軽口が心地良かった。いつまでもこうやって叩いていたい。
ふっと二人の笑いが収まり、一瞬の沈黙が流れた。
兵長は小石を池に投げ入れた。
ぽちゃんという音と共に、穏やかだった水面に波紋が広がる。
それを合図にしたように、兵長は口を開いた
「……いや、ナマエ、こんな話じゃない。俺はお前に聞きたいことがある」
そう言って私の方に顔を向ける。
兵長の顔が向いたことはわかっていたが、私は視線を合わせるのが怖くて水面を見つめ続けた。
聞きたいことって何ですかと言えばいいのに、それも怖くて口を開けないでいる。
「ナマエ、お前はユルゲンス卿と結婚して、兵団を去るつもりなのか?」
核心をついた質問に、私の顔は思い切り強張った。
「……その話もしたくないです」
答えを拒絶したが、兵長は許してくれなかった。
「いや、俺はこの話がしたい」
心の奥底に沈めた瓶が騒いでいる。ガタガタと震えて、今にも割れてしまいそうだ。
やっとの思いでこの気持ちを殺したのに。
「お前は、ユルゲンス卿を愛しているのか?」
愛しているわけじゃない、あなたのことのほうがよっぽど!
――そう心の奥底で瓶が叫んだ。
どうしてそんなことを聞く? 何もなかったことにしたかったのに、どうしてわざわざ寝ている子を起こすようなことを。
黙っている私を見据えているのがわかる。リヴァイ兵長は続けた。
「お前の気持ちがわからねえから、俺は俺の言いたいことを言うぞ」
もう止めて、それ以上この会話を続けたら。
「ナマエ、友達ごっこはもう終わりだ」
言うとリヴァイ兵長は私の肩を掴み、身体ごと向かい合わせにさせ、無理やり視線を合わせた。
「……も……もう、終わり……なんですか?」
私の出した声は震えていた。
「ああ、終わりだ。俺は結構楽しかったがな」
今すぐに決断して、あなたから離れなくてはいけないのか。
この場から逃げ出したいが肩を強く掴まれて身動きもとれない。
「あいつのところに行くな。兵団に残れ」
兵長は肩を掴んだまま、視線も私から外さずにそう言った。
「……は……?」
「聞こえなかったか? 兵団に残れと言った」
私は血圧が上がっているのを感じていた。
心臓がドクドクとうるさいくらいに鳴っている。体中が混乱しており、言葉を飲み込むのにだいぶ時間がかかった。
「……そ、それは……兵士長としての命令ですか?」
絞り出したような掠れ声は、なんだか少し的外れな言葉を紡ぐ。
「……ああ、命令だ」
「き、聞けません……エルヴィン団長の指示と相違があります……」
エルヴィン団長から「自分で決めろ」と言われていたことを思い出し、またなんだかおかしな言葉が口から出てきた。
「そうか、ならいい、命令じゃなくていい。お前が聞けるのなら何でもいい」
リヴァイ兵長はまだ肩を離さない。それどころか、更にぐっと力を入れた。
「これは命令じゃない、俺からの要望だ。
ユルゲンス卿と結婚しないでくれ。兵団に残ってくれ」
「は……? な、なぜですか……」
「なぜか? ……それは、俺がお前を愛しているからだな」
リヴァイ兵長の目は満月が映りこんでいるのか、黒目がゆらゆらと揺れている。
その瞳でまっすぐこちらを見つめられ、私は金縛りのように動けない。
「……は……?」
疑問の意をもっとも簡便に表したその一文字を辛うじて口から捻り出した。
カタカタ震える腕をなんとか動かし、兵長の腕を私の肩から外す。
「お……おかしいですね……。
以前執務室で、フィーネ・ガブリエルを抱いていた気がするんですが……」
「ああ、そういう時もあったな。後腐れない女を抱いた事もあった。だがお前が嫌だというなら今後一切しない」
「私は……ご、強姦……された、その……綺麗な体ではありません……」
「お前の体に何があったのかは知っている。だがお前は何も悪くないし、お前自身が穢れたわけではない」
そう言うと兵長は私が外した手を、再び私の肩にかけた。
そしてじりじりとにじり寄ってくる。
「ちょ、ちょっと兵長……池に、落ちます」
「ああ、そうか」
そう言ったものの兵長は私の体を掴んだまま、じわじわと顔を近づける。私の尻はそれに押されて池にじりじりと迫った。
「兵長、私、本当に……落ちます……」
「そうか」
兵長は止まる気配はない。
「わ……私、泳げないんです……お、落ちたら、溺れます……」
「そうか、結構なことじゃねえか」
とうとう私の尻は池に迫り、そして。
「俺はもう、とっくにお前に溺れてる」
反転。
バッシャーン!
大きな水音を立てて、私と兵長は向き合ったまま、池に逆さまに落ちた。
水の中で兵長は私の胸ぐらを掴み、口づけた。
私の目に映ったのは、水中の気泡と、水中で揺れる自分と兵長の髪の毛。そして水の中から見たキラキラ光る水面。その奥に満月。
水中で私は兵長の体温を唇に感じながら、目を閉じた。