第九章 溺れる





03




その翌週、兵舎までやってきたカイさんに私は言った。

「今日は、お話ししたいことがあるんです」

真剣な目で言うと、カイさんも真剣な目をしてくれた。

「できれば、あまり人がいないところでお話ししたいのですが」
「少し遠いですが、街中の喫茶店で個室があるところがあるんです。そこでもよろしいですか?」

そう言ってカイさんは、馬車に乗り込む。

喫茶店に入り、注文したコーヒーが来たところで、私は口を開いた。

「あの、カイさんが私との結婚を本気で考えてくださっているのは良くわかりました」
「わかっていただけましたか」

カイさんは嬉しそうに言う。

「――ですが、カイさんはまだ私の全てをご存じでない。
カイさんが結婚相手を選ぶにあたり、お伝えしておかなければいけないお話があります」

返事はない、が、それを了承の意と汲んだ。

「私は、王都ミットラスの地下街で生まれ、四歳の時に両親から娼館へ売られました。
幼い頃から金儲けのことしか考えていない大人に囲まれ生きてまいりましたので、擦れているところは多分にあると思います。
水揚げ直前で心ある紳士に女中として身請けされ、幸運にもその時は清らかな体のまま娼館を出てこられましたが、その後、強姦され、今は処女ではありません」
「……」

カイさんは絶句している。

当たり前だ、私の見目を気に入って求婚までしたというのに、外から見えない私の基柱は真っ黒だ。
これを伝えて求婚を撤回するなら、そのほうが互いのために良いだろう。

「お互いのことを知り合う上で、隠してはおけない話だと思いましたので、お伝えさせていただきました」

数十秒の沈黙の後、カイさんは口を開く。

「ナマエさん、わかりました。あなたの過去も身体も全て承知しました。
その上で改めてお願いいたします。私と結婚してください」

――今度は私が黙り込んでしまい、再び数十秒の沈黙。

「……なぜですか? あなたほどのお家柄とお顔立ち、そしてその優しいお心があれば、私のような者でなくても、どんな女性も選び放題でしょう?」
「私は、他の誰でもない、ナマエさんを愛しているのです」

強い声で言われ、怯みそうになってしまう。

「ナマエさん、私は何回もあなたにお会いして、その美しさだけではない、聡明さ、芯の強さにどんどん惹かれていきました。
そんなあなたを作り上げたのが、あなたの凄惨な過去だというのなら、その過去も含めて丸ごとあなたを愛します」

カイさんの両手が、私の両手に重ねられる。
その手にぎゅっと力が入り、私の汗ばんだ手を握りしめた。

「私の愛を証明する物がもっと必要であれば、なんでもご用意いたします。
そうですね、例えば……あなたが嫁いでくれた際の兵団への援助ですが、年額このくらいまではお支払いできます」

そう言って小切手に書いた額に目が飛び出そうだった。
確か最初は、昨年と同等の額をという話だったかと思うが、私が認識している昨年の寄付金よりもゼロが一つ多い。こんな多額の寄付金、見たことも聞いたこともない。

「あなたが命を賭して大切にしている兵団の活動資金です。
これが私の愛を示す値になるのであれば、いくらでもお支払いします」

カイさんは机上で私の手を離さない。目も離さない。
私は目も手もカイさんに縛られ、身動きが取れなかった。

「ナマエさん、愛しています」

――愛している? 私を? 
私は、誰を愛しているんだっけ……? 



* * *



なぜ俺をユルゲンス卿の見学に同席させたのか、とエルヴィンに文句を言ってやったら、

「親切のつもりだったのだが。『部下』であり『友達』であるナマエの進退に係わる話だからな」

と微笑みやがった。



あれから毎週、ユルゲンス卿は調整日になるとナマエを迎えに兵舎へやってくる。そして、兵服でない少しめかし込んだナマエと共に、馬車で街へ出かけていく。
帰りは早かったり遅かったりするが、いつも馬車で門まで送られてくる。
毎回手には何かしら持っていた。菓子と思われる箱だったり、花束だったり。
俺はそんな様子をいちいち執務室の窓から見ているわけだ。

「……はっ」

俺の頭はおかしくなったのかと、笑いが出る。

ナマエがユルゲンス卿と会うようになってから、今日で四回目の調整日。
今日も馬車で帰ってきた。
馬車を降りるナマエ、その後に続くユルゲンス卿――門前でナマエの右手甲にキス。
いつも通りのやりとりだが、イライラしてしょうがねえ。俺の頭はやはりおかしくなっている。
チッと舌打ちをし、俺は執務室を出て門へ向かった。



ナマエが兵舎内に入ったのを陰から確認して、馬車の元へ走る。
ユルゲンス卿は丁度馬車に乗りこむところだった。
俺が走ってきたことに気づき、ユルゲンス卿は馬車から再度降りた。

「……リヴァイ兵士長……いかがされましたか?」
「……話がある」

ユルゲンス卿は俺を一瞥してにこりと笑い、馬車の中へ勧めた。

「どうぞ、この中なら邪魔者はおりません」

馬車はどこに向かって走っているのかわからないが、いつまでも兵舎前に止まっているわけにもいかない。
適当に街中を走り回っているのだろう。

「お話とは?」

ユルゲンス卿の静かな目と薄い笑顔がこちらに向いた。

「……ナマエのことだ」
「でしょうね」

二人の声の後ろには、馬の足音と街中から聞こえてくる喧噪。
だが会話の邪魔になるような大きな音ではなく、逆にこちらの会話が外に漏れないようカモフラージュしてくれているようだ。なるほど、馬車の中は密談に持って来いというわけだ。

「あいつは確かに飛びぬけて見目麗しい。兵団の中にもあいつの顔に惚れている奴はたくさんいるしな。
だが、あいつは顔が良いだけの女じゃねえ。現実主義だし、夢見るようなことは一切言わない。機知に富んでいるが、その頭の良さ故に下衆なことも思いつけるし、必要とあらばそれを実行もできる。巨人から部下を守るためなら、部下を大声で怒鳴りもするし、ケツを蹴飛ばすことだってある。あの顔からは想像もできないけどな。
それに、俺の口からは詳しくは言えないが、あいつの過去は複雑だ。一般的な家庭で一般的な育ち方をしてきたわけじゃない。綺麗なだけのお人形さんにはなれねえだろうな。
貴族のご婦人にしておくには、ちょっと灰汁が強いんじゃないか」
「……ナマエさんのこと、よくご存じなんですね」

ユルゲンス卿は口を開いたが、その笑顔は硬い。

俺は何を言ってるんだ。
こんな……女々しいことをしている自分に反吐が出そうだ。

「ユルゲンス家の事を慮っての忠告でしょうか。それとも、ナマエさんを結婚させたくない理由が他にあるのかな」

前者ではないことは、お前もわかっているはずだ。
――俺ももうわかっている。

「ナマエさんの過去なら……本人から聞きました。結婚を考えるなら知っておかなくてはならないと。
リヴァイ兵士長がどこまでご存知かわかりかねるので、具体的には申し上げませんが、僕は彼女の『過去』も、その『身体に何があったのか』も、承知しています。
ナマエさんが美しいだけの女性じゃないことは、僕もわかっているつもりです。あなたほど付き合いは長くないと思いますが、毎週お会いして濃厚な時間を過ごしていると思っています」

『濃厚』のくだりに反応してしまった。
その言葉が具体的に何かを指し示しているのか否かは考えないことにするが――俺がナマエと過ごす時間は『濃厚』だっただろうか。
いや、決してそうではないだろう。ただ楽しいだけの会話を滑らせているだけだ。
俺がナマエについて知っている事なんて、こいつも知っているのだろうし――もし仮に、結婚なんてしたら、俺が知らないナマエをこいつは山ほど知ることになるのだろう。
胸がチリチリと……不愉快な痛みだ。

「……あなたもナマエさんのことを特別な目で見ていることはわかりました。
でも、選ぶのはナマエさんだ。
ナマエさんが僕を選んでくれるように、僕はあらゆる手段を用います。僕も必死ですから」

――こいつが道理だ。こいつは何も間違っちゃいない。
ナマエを愛していることを正々堂々と認め、ナマエを手に入れるために努力しているだけだ。

「……邪魔したな」

俺は馬車から降りた。もう話すことは何もない。

「馬車で兵舎までお送りしますよ」
「いや、いい。歩いて帰れる」

ユルゲンス卿の顔を見ることができなかった。
俺はまっすぐ前を見て兵舎に向かって歩き出した。




   

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