第九章 溺れる
01
――八四七年――
冬になると、南側の地域でも雪が降ることが稀にある。
壁外調査は降雪時には行われないため、冬は頻度が極端に少なくなる。
十二月頃から兵士達の間には少し穏やかな空気が流れ始め、年が明けた一月。
その日は降雪こそなかったが、いつも以上に寒い日だった。俺はエルヴィンと一緒に、兵舎の見学にやってきた貴族の相手をしていた。
名はユルゲンス卿。年の頃は二十代後半というところだろうか、御者を馬車と共に待たせ、男一人で兵舎にやってきた。
貴族が兵舎の見学にやってくるのはそう珍しいことではない。
調査兵団の活動に理解を示し、寄付金を寄越す者もいるので、貧乏兵団としては邪険にはできない。見学の申し出があればエルヴィンが手厚く対応していた。
時々豚のご婦人方から「人類最強にお目にかかりたい」というクソな申し出があることもあり、そういう時は俺がエルヴィンから呼ばれ、見学や雑談に同席することもあった。
しかし、今回はなぜ俺が呼ばれているのか謎だ。
ユルゲンス卿は、人類最強を見たいとかそういった類のミーハーな申し出をしたわけではなかったようだし、至って紳士的で常識的な男性のようだ。
貴族にありがちな、兵士を見下すような発言や態度もない。ただエルヴィンの後ろについて熱心に見学をしている。
「続いて、こちらが屋外訓練場です」
エルヴィンがユルゲンス卿に案内をしている。
「木製の模型を使い、巨人を討伐する訓練を行います。
立体機動装置も装着し、壁外調査時と同様の装備で実践的な訓練を行っています」
そこでは、ミケ、ナマエを始めとした第一分隊と第三分隊が訓練を行っていた。
「面談をご所望のナマエ・ミョウジはあちらです」
そう言って、エルヴィンはナマエを右手の平で示した。
――面談をご所望? どういうことだ?
俺は眉根を寄せたが、ユルゲンス卿はそれには気づかずに、示されたナマエの方を見つめた。
「ナマエさん……やはり、お美しい」
ナマエは立体機動で飛び回りながら、部下に指導をしているところだった。
立体機動の腕前は見事で、自在に飛び回っていることで軽いナマエの体がますます軽く見える。
長い金髪は一つに小さくまとめられているが、その艶のあるブロンドは日光を反射してキラキラと光っている。
おいどういうことだ、とエルヴィンに視線を送ると、エルヴィンはしれっと
「見学のお申し出を手紙でいただいた際、ナマエへの面会を一緒に希望されていた」
と言ってのけた。
「ええ、一度トロスト区で仕事をしていた際に、壁外調査へ出立されるところをお見かけしまして……。エルヴィン団長の後方にいらっしゃった姿が忘れられず、こうしてお会いする機会を作っていただいたというわけです。
馬上の凛とした眼差しと、その勇ましくも美しいお姿に、すっかり心奪われてしまいまして」
そう言ってユルゲンス卿は俺に向かってにっこりと笑った。
団長であるエルヴィンや兵士長である俺が、市民の注目を集めやすく、好意的な物にしろそうでない物にしろあらゆる声の対象になることは多かった。
そしてナマエもまた、その人目を惹きすぎる外見のせいと、更に分隊長となってからは壁外調査の出立時にエルヴィンのすぐ後方に位置することもあり「あの美女はいったい誰だ」と注目を集めていたのだ。このユルゲンス卿も、ナマエの美しさに眩んだ一人ということだろう。
「……しかし、こんなに美しい方があのように軽やかに飛んでいらっしゃると、まるで天使のようですね」
ユルゲンス卿はさらりと歯の浮くような台詞を吐く。
天使なんて簡単に言ってくれるな。軽々と飛んでいるように見えるかもしれないが、あの立体機動の技術はナマエが必死に訓練で身につけたものだ。
飛び回りながら部下を叱咤激励し、空中でぶら下がったまま手を取って刃の使い方を指導している――一般人のお前が同じことをしようとしたら、ひっくり返って胃の中の物全部ぶちまけるだろうな。
俺の顔が不機嫌そうに見えたのか、ユルゲンス卿は苦笑して
「すみません、命を賭けて前線で戦っていらっしゃる方に、天使とは不躾でしたね」
と謝罪した。
その貴族らしからぬ謙虚な態度は本来であれば好ましいと感じて然るべき物のはずなのだが、無性に苛立ってしょうがなかった。
* * *
こんな寒い日に屋外で訓練とは、辛いがこればかりはしょうがない。
訓練中に手をこすりあわせたいところだったが、部下も寒い中飛んでいるのを見ると、自分だけ温まっている場合ではない。意識して胸を張り、丸まりそうになる背中を伸ばした。
エルヴィン団長とリヴァイ兵長が一人の男性を連れて訓練場にやってきた。
危険だから近づいては来ないが、何やら男性に話しかけている。今日やってくることになっていた貴族を連れて、兵舎の見学をしているのだろう。
確か、ユルゲンス卿。寄付金の話が出ているはずだ。
兵団の活動に理解のある貴族らしく、先期も多額の寄付金をいただいていた。
なぜそんなことを知っているかというと、幹部会議中に団長の手帳が見えてしまったのだ。
盗み見したわけではない。たまたま団長の手帳が開いていて、たまたま私が近くを通りかかり、たまたま私の視力が抜群に良く、たまたま見えた手帳の内容を全部暗記していた――それだけのことだ。
いつの間にか団長、兵長、ユルゲンス卿の三人はいなくなっていた。他の場所に移ったのだろう。
訓練を続けていると、ミケさんのところの新兵が私を呼びに来た。
「ナマエさ――ん!」
駆けてきた彼は私の前で立ち止まり言った。
「団長がお呼びです、団長室へ」
「エルヴィン団長が?」
もうユルゲンス卿は帰られたのだろうか。そう思いながら団長室へ向かった。
「失礼します。第三分隊長、ナマエ・ミョウジです」
「入ってくれ」
団長の許可を得てから団長室に入室すると、そこにはエルヴィン団長、リヴァイ兵長、ユルゲンス卿の三人がいた。
何のために呼ばれたのだろう?
お茶はもう出ているようだし、お茶はもっと若手の団員が出すことが多い。
「ナマエ、ここに座ってくれ」
促されるまま、ユルゲンス卿の前、エルヴィン団長の隣に位置するソファに腰掛けた。
リヴァイ兵長は斜め前に位置している。
「こちらはユルゲンス卿だ、君なら名前は知っているだろう。本日は兵団の見学にお越しくださった。毎年、調査兵団にも多額の寄付金をいただいている」
そう紹介されたユルゲンス卿はにっこりと笑顔を私に向けた。
なんとも端正な顔立ちをした男性である。座っているのでよくはわからないが、身長も高そうだ。
三十代には届かないくらいの年齢であろうか、兵長と同じくらいかな……。
相手を素早くチェックしながら、私はソファから立ち上がり敬礼した。
「調査兵団第三分隊長、ナマエ・ミョウジです。本日はお越しいただきありがとうございます」
「ああ、いえ、とんでもありません。どうか腰かけてください」
ユルゲンス卿は穏やかな声でそう言うと私を立たせ、座らせた。
「カイ・ユルゲンスと申します。どうか、わたくしの事はカイとお呼びください」
そう言ったユルゲンス卿は、私に手を差し出し握手を求めた。私は握手を返す。
どうやら貴族であるが、尊大な態度はとらない謙虚な方のようである。
「今日は、ナマエさんにお会いしたくて、エルヴィン団長には無理を聞いてもらいました。訓練中のお忙しいところ申し訳ありません」
私に? なんの用件か? 疑問に思うと、明確な回答がさらりと来た。
「壁外調査へ出立する際のナマエさんをお見かけしておりまして。一目惚れしてしまいました。
私の妻となっていただきたく、結婚の申し込みをしに参りました」
……は?
私は茫然とした。
エルヴィン団長は知っていたのか涼しい顔。リヴァイ兵長は無表情。
ユルゲンス卿だけがニコニコと微笑んでいる。
何も声に出さない私を見て、ユルゲンス卿は続けた。
「すみません、突然で。びっくりされましたよね。でも私は本気なんです。
壁外調査前の凛々しいあなたを見て、あまりの美しさに息を呑みました。それからもあなたの事が片時も頭から離れず……。
もちろん、急な話だということは承知しています。ですから今すぐにお返事をいただけるとは思っておりません。
これから少しずつ、ナマエさんには私の事を知っていただきたいし、私もナマエさんの事を知りたいと思っています。お近づきになるチャンスをいただけませんか?」
「は、はあ……」
と思わず答え――いやいや、ちょっと待て。
「ユルゲンス卿、大変ありがたいお申し出、恐悦至極に存じます。
ですが私は心臓を人類に捧げた兵士です。この命が尽きるまで、兵士として生きていくことを自分に誓っております。退団は考えておりません」
頭を下げてそう言った。
「カイとお呼びください」
ユルゲンス卿――カイさんは再びそう言って私の右手を取った。
カイさんの両手が私の右手を包む。
「そう言われるだろうと思っておりました。若く、女性でありながら、分隊長を務められるほどの方ですから。兵士であることに誇りも持っていらっしゃるかと思います。
それに、分隊長が退団するとすれば、調査兵団にも少なからず影響は出るでしょう。
私は調査兵団の活動を支持しておりますし、ナマエさんが退団することで兵団に不都合を与えたくありません。また、そのような方に結婚を申し込むのですから、私も手ぶらでは参りません」
そう言ってカイさんは私の目を見つめた。
カイさんの緑色の瞳が私を捉えて離さない。
「ナマエさんが私と結婚していただけるのなら、退団から向こう十年間、毎年昨年同様の寄付金をお支払いするとお約束します。私の妻となる方が人生を賭けた活動を、途絶えさせるようなことはいたしません。
ユルゲンス家のできる限りの力を用いて、調査兵団を支援するとお約束しましょう」
私は息を呑んだ。
ずっと無表情だったリヴァイ兵長が驚いたようにカイさんを見つめる。
私は何も答えられず、団長室は沈黙に包まれた。
その時、団長室のドアがノックされた。
「入りなさい」
エルヴィン団長が指示すると、女性新兵がお茶のおかわりを持って入室してきた。
その顔は平然を装ってはいるが、ニヤニヤとした笑みが隠しきれておらず、口角がひくひく上がろうとしている――盗み聞きしてたな。恐らく入室した兵士の他にも、数人は団長室の外にいるだろう。
お茶を出した兵士が部屋を出て行くと、カイさんは改めて私を見つめて言った。
「先ほども申し上げましたが、今すぐにお返事をいただけるとは思っておりません。まずはお近づきになりたいのです。これからも時々、会いに来てもよろしいですか?」
口調は穏やかだったが、有無を言わせない言い方だった。
「は……はい、でも、私に会いに来てくださるというのであれば、調整日にしていただけるとありがたいです。何度も訓練を抜けるのは気が引けますので……」
言ってから、まるでこれではカイさんが何度も会いに来ることが前提なようだ、と気づいた。
本意ではなかった。しかし、カイさんの顔はぱあっと明るくなる。
「わかりました! それでは、ナマエさんのお休みの日に参ることにいたします!」
そう言って、私の右手に口づけをした。
――こんなことをされるのは初めてだ。
団長と兵長と共に、馬車へ乗り込むカイさんを見送った。
馬車が駆けていった後、エルヴィン団長に言われた。
「ナマエ、突然のことでびっくりしただろうが、これは君自身で決める問題だ。良く考えて自分で決めると良い。何が自分にとって最善なのかを」
その眼差しは優しく、まるで労わってくれているようだ。
もう夕暮れの時刻になっていた。
オレンジ色に染まるエルヴィン団長とリヴァイ兵長の後ろについて、兵舎へ戻った。
兵長は、とうとう最後まで言葉を発さなかった。