第七章 昔話





01




一人にしてくださいと言ったのに、ハンジさんは結局すぐに医務室に戻ってきた。
何も言わずにベッド横の椅子に腰を下ろしたハンジさんを見て、私は横になったまま口を開いた。

「……私の事が心配なんですね? 舌でも噛まないかと」
「……」

ハンジさんは黙ったまま、また困ったように笑う。
沈黙は肯定だ。

「大丈夫です……安心してください。死んだりしません。
自ら命を断ったりしたら……心臓を捧げて散った仲間達に顔向けできません」
「……そうか、そうだね……」

天井を見つめて言った私に、ハンジさんは静かに返事をした。

「でも、ナマエが……その、」
「ハンジさん」

私はハンジさんを遮った。

ハンジさんの言わんとしていることはわかる。
私がさっきリヴァイ兵長に全てを知られていると知って取り乱したことを言いたいのだろう。
私が兵長に抱いている気持ちにも、気づいてしまっただろう。もちろん、エルヴィン団長も。

「ハンジさん、……信用しています。何も、余計なことは言わないでくださいね。私にも、他の誰にも。
聞かなかったことにしてください。自分の気持ちは自分で始末するつもりでいます」
「始末、ね……」

そう言って、ハンジさんは天を仰いだ。

「……ナマエはさ、こんな時にも人前では泣かないんだね……」
「……」
「私の前では甘えてくれてもいいのに。そんなに頼りにならない?」
「そんなことはありません! ハンジさんのことは、頼りにしているし、信用しています。
ただ……泣かないってことは、我慢できてるってことですよ。意外と平気なのかも知れません、私」
「そんな風に言わないで」

そう言ってハンジさんは私の頬に手を添えた。

目が涙ぐんでいる。
私の代わりに泣いてくれている。

「……ありがとう、ハンジさん」

私は頬のハンジさんの手に、手を添えた。

「ハンジさん、じゃあ甘えさせてください。
私、きっと眠れないので……私の話を聞いてくれませんか?」
「ナマエの話?」
「そう……。誰にも言ったことなかったんですけど。アメリーにも。私の昔話、聞いてください」
「……いいよ、喜んで」



* * *



私戸籍上は、出身地はシーナの東区ってなっているんですけど。本当は地下街で生まれたんです。
うち、貧しくて。四歳の時に、両親に娼館に売られたんです。
シーナ内の高級娼館に、高く売れたそうですよ。その時初めて地上に出たんです。
せっかく地上に出たのに、その瞬間、娼婦として売り物にならなくなるまでは、ずっと娼館に縛り付けられる生活が始まりました。

四歳の子がいきなり娼婦になんてなれないから、初潮が来るまで、炊事洗濯をしたり、娼婦達の世話をしたりするんです。
その一方で、将来の高級娼婦としての勉強もさせられてね。四歳にして、男女が睦びあうことを知っていました。

初潮がやってくれば、水揚げをさせられる。
私はいずれ来るその日が、恐ろしくなかったと言えば嘘になりますが、半ば諦めていたんです。
館主が私の水揚げでいくら儲けられるか、楽しそうに算盤を弾いているのを毎日見ていましたから。

そして十歳の時に初潮がやって来ました。
店に初物として並べられて、ああこれから私は何百人、何千人の男性に股を開くのだって覚悟した時に、一人の若い男性がね、私を買ってくれたんです。
買ってくれたっていうのは、一晩でなくて、一生です。身請けをしてくれたんです。
びっくりしました。初物の身請けですよ。
一体娼館にいくら払ったのかわかりませんが、とてつもない大金だったことは確かです。私は高級娼婦として、使い物になる限りは、そこで働かなくてはならなかったのに、館主は身請けを認めたんですから。
私は綺麗な体のまま、娼館を出たのです。



私を買ってくれたのは、シーナ東区で大店をたくさん持っている商人でした。
彼は独身でしたが、私は十歳でしたのでもちろん娶るというわけにもいかない。女中として迎えられました。
娼館から身請けしたとは言いづらいので、対外的には、遠縁の親戚の子を引き取ったということにしていたようです。

まあ、女中などとは言っても、実際のところは性的な奉仕をさせられるのだろうと……覚悟していました。娼館から買われたわけですから。
何千人の相手をする予定だったのが、この若者一人だけになる――まあ多少はマシな状況になった、と思っていました。

ところが、彼は本当に私を女中として使うだけなんです。
それも、大した仕事はなく、ちょっと掃除をしたり、食事の支度をするくらい。学校にも行かせてもらいました。

何故こんなに良くしてくださるのですかって聞いたら、

「一目見て君の事が気にいった。君には幸せになってもらいたい。
幸せになるためには学が必要だし、たくさんの物事に触れるべきだ」

って。

「性的なご奉仕はしなくてよろしいのですか」

そう率直に聞いたら、笑って

「そうだな、君が十八か十九歳ぐらいになった時に、改めて君にお願いしよう。
その時、僕を男性として愛し受け入れてくれるなら、抱かせてくれ」

って言うんです。



私は彼の事を旦那様と呼び、恩に報いたくて、できる限りのことを尽くしました。
旦那様は、私に十分な衣食と学を与えてくれ、そして、人間として尊重してくれました。

今となっては、なぜ旦那様が大枚を叩いて私を身請けしてくれたのかわかりません。
もしかしたら金持ちの気まぐれだったのかもしれません。

私は旦那様にどんどん惹かれていきました。
十八歳になったら、旦那様に貞操を捧げたいと思っていました。私の初恋です。



でも、旦那様は私が十八歳になる前に亡くなりました。

旦那様との生活はたった二年間。
私が十二歳の時、街で盗人に刺されて、病院に運ばれましたが息を引き取りました。

旦那様は、男に股を開くことでしか生きていけなくなるところだった私に自由を与えてくれ、そして貞操を守ってくださったのです。
でも私の初恋は、旦那様の死によって終わりました。
親でもあり兄でもあり初恋の相手でもある旦那様を失って、私も後を追おうとしましたが……自殺は失敗しました。服薬した睡眠薬が足りなかったとのことでした。



* * *



ハンジさんは、そこまでずっと黙って聞いていた。絶句していた、と言った方が正しいかもしれない。

「旦那様が守ってくださった貞操を、私は自分の不注意で失ってしまいました。
でも旦那様には申し訳ないですが……こんなの、きっと大したことじゃありません。生きてるんですから」

そう言って、私はハンジさんの目を見つめる。

「それにほら、私には抜きん出た頭脳も美貌も備わってますから? あんまり多くを望んじゃ罰が当たっちゃうってもんですよねえ」

空気を変えるように、明るい声色でしゃあしゃあと言ってやると、

「はは……」

ハンジさんは合わせるように、小さな声で笑ってくれた。

「……でも、やっぱり、――捧げたいと思った人に処女を捧げられないというのは、悲しいかも」

ぽつりと言った私を、ハンジさんはぐっと抱きしめてくれた。
ハンジさんの震える肩からは、嗚咽が漏れていた。

私の事で泣いてくれる先輩が、心からありがたかった。



絶対に死なないから安心してくれと諭して、ハンジさんには自室に帰ってもらった。
ついていてくれるのは正直心強かったしありがたかったが、この狭い医務室の中では、ハンジさんの体も休まらない。無理やり帰らせた。
私はとろとろとまどろみ――長く辛い一日が終わった。



二、三時間は寝たのだろうか。ふっと目が覚めた。
そこはまだ医務室のベッドで、昨夜の出来事は悪夢ではなかったのだな、とぼんやり思った。

目線だけで壁の時計を見ると六時前だ。起床時刻にはまだ早いが、目覚めたついでに身体も起こしてみる。
あちこち痛い。が、動かすのに支障はなさそうだ。

そこへ、椅子に腰かけて腕を組み俯いている、小柄な男性の姿が目に入った。

「……」

私は声が出ず、ただ見つめていると、兵長はゆらっと揺れ、う、と小さな呻くような声と共に目を覚ました。まどろんでいたようだ。
ベッドの上から兵長を見つめている私と目が合う。

「……ああ、悪い……。お前が目覚める前に帰るつもりだったんだ」

起き抜けの兵長は、気怠そうに片手で髪をかき上げながらそう言った。

「ちょっと顔を見て出ていくつもりだったが、寝ちまった。悪かったな。まだ早い、俺はもう行くからゆっくり休め」

自分の顔を見せた事が良くないと思っているのか、兵長はしきりに悪いと言って、椅子から立ち上がり医務室から出て行こうとしたが――私の方を見て、目を見開き立ち止まった。

視界が急に滲んだかと思ったら、バタバタと水が音を立ててシーツに落ちる。
頬を触ると水の感触。
思わず戸惑いの声が出てしまう。

「……え、何これ……」

私、泣いている。

それを自覚した瞬間、喉がひくっと鳴った。
ベッドの上から思わず兵長のほうを見る。兵長は驚いたような顔をして私を見ている。
涙はとどまることを知らず、次々と溢れては頬を伝っていった。

「へ……」

兵長、と言おうとしたのに、声にならずに顔が大きく歪む。

その瞬間、私の体は固い腕と胸につつまれた。
兵長が、私を抱きしめてくれた。
痛いくらいに抱きしめられ、私の顔は兵長の筋肉質な胸に埋まる。

私は咽び泣きながら、兵長のシャツに水跡をたくさんつけた。
調査兵団に入って初めて、人前で涙を流した。

兵長は一言も発さず、ずっと抱きしめていてくれた。





   

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