番外編 微熱ワルツ





03




* * *



夜会は恙無く終了した。
テールマン公爵以外にも私は何人かの貴族とダンスを共にしたが、とりあえず足を踏むような真似はせずに終えることができた。
テールマン公爵には特に気に入られたようだった。札を数枚握らされ、「この後上の部屋で休憩を」と耳元で囁かれギョッとしたが、目敏いエルヴィン団長がそれを見逃さなかった。

「テールマン伯爵!我が団にご寄付いただけるとはなんたる光栄!」

私の手の中の札を無理矢理引き抜くと、侯爵に向かって仰々しくお辞儀をする。

「このような大金、いたみいります」
「あ……いや、そのような端金では我が名に傷がつく。これを」

邪な思いを見透かされていることに気がつかないわけがない。テールマン公爵は居たたまれなかったのか、私に握らせた金額よりも恐らく0が一つ多いだろう額を記載した小切手を、団長に寄越した。
そそくさと去っていく公爵を尻目に「ナマエ、よくやった」と耳打ちされる。
そうかこれからはこういう奴らがやってくるから自分でいなさなければいけないのだな、と妙に納得した。



* * *



その日は五人揃って宿に泊まった。
貧乏兵団と言えど、流石に個室が与えられる。ただ風呂付の部屋ではなかったため、入浴は共同の大浴場だ。
浴場で汗を流し部屋へ戻る途中、ポンと後ろから肩を叩かれた。気配で誰かはなんとなく分かっている。

「兵長、お疲れ様です」
「ああ」

振り返りながら挨拶すると、兵長は小さく頷いた。
兵長も風呂上がりだったのだろうか、濡れた髪の毛は真っ直ぐに下りている。先程の夜会で整えていた髪型と比べると、随分と幼く見えた。
幼く見えると言っても、この人は私よりも確か七歳ほども年上のいい大人なのだが。顔の作りが若すぎて美しすぎて年齢不詳だ。
着ているものがラフなTシャツであることも、きっと幼く見える原因の一つだ。それにしてもあのタキシードは似合っていた。

「今日はうまくやったじゃねえか。まさか一週間でここまで化けるとはな。スケベジジイから寄付金も分捕ったって聞いたぞ」
「語弊がありますね。男女差別も年功序列もなく、年若い女性を分隊長に起用する調査兵団に感銘を受けた紳士から、活動資金にとお心遣いをいただいたまでです」

私の皮肉たっぷりの言葉に、兵長はくっと小さな声を出して笑った。
二人横に並んで古い宿の廊下を歩くと、時々、ギシ、ギシという木材が腐っているような音がする。

「兵長こそ、貴族のお嬢様方からひっきりなしにお誘いがかかっていたじゃないですか。フロアでもすごく目立っていましたよ。
ミケさんも感心していました、あれは黙っていれば気品がある、って」
「てめえ一言多いのはわざとだな?」

ドスの利いた声に、ふふふと笑う。そうしているうちに、もう兵長の部屋の前に着いてしまった。
兵長とのおしゃべりは楽しいが、その分、終わるときに少し名残惜しいような気がする。

「じゃあおやすみなさ……」

ドアの前で挨拶をして去ろうとすると、急に手首を掴まれた。

「……?なんですか?」
「……」

意図が分からず純粋に尋ねる私に、兵長は無言で少し屈み、下から手を差し伸べた。
エスコートの形だ。

「お前のダンスは世辞抜きで見事だった。俺とも踊ってくれよ」

表情を全く変えないまま抑揚もなくそう言う彼に、私は少々面食らう。

踊るってどこで?まさかこの廊下で?
黙ったままキョロキョロと廊下を見渡していると、兵長は私に差し出した手はそのままに、片手で器用に彼の個室の鍵を開け、ドアを開け放った。

これは、どう受け取るものだろうか。
兵長の部屋の中でダンスをということだろうが、進んで良いものだろうか。



こんな夜更けに風呂上がりの女が男の個室へ入る。
その意味と起こり得る事態について考えないわけじゃない。私だってそこまで子供じゃない。
そもそもドレスも着ていないし風呂上がりの部屋着だ。ダンスをだなんて、真に受けて良いのだろうか。
そんな思いが高速で頭を駆け巡った。



眼前には兵長の掌。謙虚に下から差し出されたその手は白く、しかしやはり男性の骨格だ。見ただけでごつごつしているのが分かる。
掌から目線を少し上げれば、フロアで見せたあの凛々しい兵長とは少し違う、ラフな格好で髪の毛も整えていない、少年のような彼がいた。



「踊ってくれよ」。
その言葉の意味を噛み砕く前に、兵長の掌に自身の掌を重ねた。

――私は恐らく「敢えて」彼の言葉の真の意味を理解しないままに手を取ったのかもしれない。
深く噛み砕いてしまえば、きっとこの手が取れなくなるから。



掌にエスコートされる意志を読み取った兵長は、まるでフロアで御令嬢達にそうしたように、颯爽と前へ進む。
私達が兵長の個室へ入ると、パタンと音を立てて扉が閉まった。



* * *



彼の部屋の間取り、そして家具の配置も私の部屋と変わらなかった。大して広くないスペースに、ベッド、テーブル、肘掛けの椅子。兵長は使わないだろうが、鏡台もある。
無音の中、兵長は私の手から掌を滑らせるとそのままスッとホールドを組む。
呼吸音が私に分かるように大きく息を吸い込むと、ぐんと一歩を踏み出した。

ワルツ。この一週間死ぬほど練習したワルツ。
だが、ハンジさんともミケさんともホールドを組ませてもらったが、兵長と組むのは初めてだった。

なぜ彼に特訓を頼まなかったのかと言えば、まあ彼だって問題なく踊れてしまったとは言え、ダンスを教わったこともない初心者だったから。それが理由だ。
他に理由など、あっても私は見なかったことにする。
この部屋に入った時と同じように、深く噛み砕く前に思考を停止させている。
そのことに、どこかで気付いていた。



兵長が踏むのは、初心者用のステップのみだった。
私が今日一日ほぼこのステップで乗り切ったのを彼はお見通しなのだろう。

かつん、と私の爪先がテーブルの脚に当たった。

「……ちょっと、狭いですね?」
「上手く避けろよ、ダンス初心者には難しいか?」

苦笑して言えば、兵長も意地悪そうな笑みを返す。私達はベッドや椅子に時々ぶつかりながら、狭い部屋で無音のワルツを踊った。

存外、楽しかった。部屋の中へ入る前の憂いは杞憂に終わっていた。
彼の手を取り、彼のリードに身を任せ、ただただ踊っている時間は心地良い。
貴族の男性からの下品な視線、ご婦人達からのマウンティング、そして兵長に向けられた令嬢達の熱視線。そんなものでささくれ立った自分の心を癒してくれた。

このまま、ずっとこの時が続けば良いのに。
多分、私はそうと思っていたのだと思う。



「わ、きゃっ」

いつかはこうなるかもしれないと、可能性を感じなかったわけじゃない。私はとうとう、テーブルの脚に足を大きく引っ掛けてしまった。

ガシャンと大きな音を立て、テーブルはひっくり返る。テーブルの上に何も乗っていなかったのは不幸中の幸いだ。
テーブルに足を取られた私と、そして私としっかりホールドを組んでいた兵長はもつれ込むように倒れた。
倒れたその先は、兵長のベッドだった。

私が下に、兵長が上に。
ベッドの上でも私達は――微妙に崩れてはいたが――ホールドを組んだままだった。



そのまま、無音が続いた。

ここにはあの夜会のフロアのように楽隊もいない。
私達の軽口が終わってしまえば、無音になるしかないのだ。



視線が絡み合う。私の視線の先に灰色の兵長の瞳がある。
彼の瞳が私を金縛りにかけ、動けない。
口がカラカラに渇いて、額を風呂上がりのそれとは違う汗が伝った。



「……す、いません!怪我ありませんか?」

沈黙に耐えかねて、金縛りを必死に解く。先に声を出したのは私だった。

「問題ない」

すぐに兵長は体を起こし、ぐいと私の腕を引っ張り起こす。

先ほどまでベッドの上で重なりながらも、動かず、喋らず、ただ視線だけを絡ませ合っていた二人の空気が一気に崩れた。
まるで魔法が解けたような。
魔法?いや、呪いだろうか。



私はそのままベッドから立ち上がり、すぐにベッドから離れる。兵長も立ち上がって倒れてしまったテーブルを起こし始めた。
こんなところにベッドがあるのがいけない。ほんの一瞬妙な気分になってしまったのは、このベッドのせいだ。
こんな狭い部屋でワルツを踊り始めた自分たち、そしてこの部屋に入る前に脳裏に浮かんだ忠告を見て見ぬふりをした自分自身。それらを全部棚に上げて、私はベッドだけを心の中で罵った。



「……じゃあ、私そろそろ部屋へ戻ります!明日の朝、7時集合でしたよね、遅刻してはいけませんので!」
「ああ……そうだな」

声が上ずらないように必死に冷静を取り繕った。取り繕えている筈だ。
笑顔の仮面を貼り付け、私は落ち着いてドアへ向かう。
逸る鼓動を抑えるよう、意識してゆっくりとおやすみなさいと言った。兵長が頷いたのを確認して、私は静かに彼の部屋を出る。



廊下を歩き自室へ戻り、そのドアを閉めた瞬間。
私はへなへなと腰が抜けてしまった。

灯りもつけず、月明かりだけが申し訳程度に入る薄暗い部屋。その場にへたり込み、ドアにもたれ掛かった。



身体中が脈を打っている。それもかなり早足で。
胸から広がる鼓動は、頭の天辺まで響く。

ベッドの上で見た兵長の瞳が、脳裏から離れない。
彼をあんなに至近距離で見たのも初めてだったし、男性に上から覆い被さられたのも初めてだった。



美しく、妖艶な顔だった。
灰色の瞳も、薄い唇も、白い肌も。
廊下で見た時は幼く見えるなんて思っていたが、ベッドの上で見た兵長の顔は間違いなく男性だった。



「明日……早いんだってば……」

心臓がうるさすぎてきっと眠ることなんてできやしない。
私は月明かりの中、頭を抱えた。





【微熱ワルツ fin.】




   

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