第三十五章 溺れる 3





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私達は水滴を床に滴らせながら、会社のエントランスでハンジさんとエルヴィン常務を呼び出した。
急いでエレベーターホールから駆けて来た二人は、ずぶ濡れの私達を見て唖然としていた。

「……これは、また……派手にやったな? リヴァイ」

エルヴィン常務――エルヴィン団長は、苦笑してリヴァイ兵長に顔を向けた。兵長は何も答えず、チッと舌打ちをするのみだ。

「お前達二人は取り敢えず、シャワー室だ。
まずその藻が貼りついた服を脱いで、身体を綺麗にして待っていろ。俺とハンジで替えを調達してきてやる。
リヴァイ、午後は『俺と一緒に外回り』だ。会社に戻る必要は無い、直帰で構わない。
ナマエ、君は有休を全く消化していないな? 勤務調整のため、本日は『午後半休』を命じる」

エルヴィン団長は親指でエレベーターホールを指した。ありがたい采配に従うことにする。

「と、とりあえず……ZARAとスーパー! 行ってくる!」

ハンジさんはそう言って、エルヴィン団長と共に会社を出て行った。



私は一通り身体を流し終えて、女子用シャワー室から出た。
流石に池の水は汚かったようで、ソープで身体を洗うと自分が今まで如何に臭っていたかがよくわかる。
ハンジさんの用意した下着、カットソーとスカート、靴も調達してもらったのでそれを身に着けて、更衣室のカーテンを開けた。

「良かった、サイズ合ってるねナマエ。靴は大丈夫? 靴が一番心配なんだけど」
「大丈夫、ピッタリです。歩けます」
「そう……そうか、良かった……はは、ははは……」

ハンジさんは着替えた私を見てうんうんと頷いていたが、静かに笑い出した。

「ふふ……はははは……」

私もつられて笑い出す。

「ハハハハッ……」

二人の笑い声は重なりあった。
小さかった二つの笑い声はだんだんと大きくなり、私達はお腹を抱えて笑った。

「ありがとう、ハンジさん」

私は人差し指で目尻に浮かんだ涙を掬いながらお礼を言った。
着替えを調達してくれてありがとう、もちろんその意味も含んでいる。だが、もっともっと、大きなありがとうを伝えたい。

目尻の涙は、笑いすぎて出た涙なのか、そうではない涙なのか。
そんなのはもうどちらでも良かった。今、私達はこうして向かい合い笑い合っている。
この人は、大切な私の友人であり、頼れる先輩だ。
そして、それは前世でもそうだったのだ。
ハンジさんはきっと、ずっと前から記憶を持っていたのだろう。だから「何も思い出さない?」なんて、あんなことを聞いてきたのだ。

私が口にした「ハンジさん」の響きが、今までと違うことにハンジさんも気づいたのだろう。

「お安いご用だよ、ナマエ。
あなたが……あなたとリヴァイが幸せなら、こんな服も……靴も……いくらでも……」

そう言って、がしっと私を抱きしめた。

昔からこの人は情に厚い人だった。
私が辛い目に遭った時も、私よりも涙を流してくれていたのだ。
私は今世でも恵まれた友情に、心から感謝した。



 * * *



その日の夕方、私はリヴァイ部長の家へお邪魔した。
呼び方は「リヴァイ部長」に納まった。社内では、ファーストネームに役職名が浸透しているので、この呼び方はおかしくない。
営業部の社員は皆リヴァイ部長とは今日が初対面だったためアッカーマン部長と呼んでいたが、そのうちリヴァイ部長と呼ぶようになるのだろう。

「ここだ」

リヴァイ部長に案内されたそこは、とんでもない高級マンションの最上階だった。

「……」

私は声も出ず、呆然と室内を見回す。

だだっ広いリビングの東向きの窓は、私の見たことのない大きさだった。
窓というよりは、壁が一面ガラス張りのようなものだ。日が暮れればさぞかし夜景が美しいだろう。
東向きのため沈む夕日は見られないが、窓の外には橙に染まった広々とした空が広がっていた。

「……なんだ、口が開いているぞ」

リヴァイ部長は呆けた様子の私を見て言った。

「……リヴァイ部長は、今世ではお金持ちなんですね?」
「これでも、世界有数の医療機器メーカーの部長職にヘッドハンティングされてきた人間だぞ。
お前よりは給料はもらっているだろうな。もちろんエルヴィンには及ばないが」

リヴァイ部長が口に出した「エルヴィン」という響きが、また前世を思い出させる。
それはとても懐かしい響きだった。

あの頃、兵長は毎日こんな風にエルヴィン団長を呼んでいた。
二人は、互いをこの上なく信頼し合っている関係だった。
他の者が割って入れないような空気がそこにはあった。

窓の外、橙の空の下にはフランクフルトのビル群が広がっている。
高層階のここからは、人や車がまるで模型のように見えた。

あの時代、壁の上から見た景色とは違う。
あの頃は車なんて無かったし、ビルも無かった。家屋はせいぜい三階建てがやっとだった。
違うはずなのに、あの時代壁上から見た景色が今窓から見ている景色と重なった。
この人はまた空に近いところにいるんだな、と少しだけ嬉しくなる。

「エルヴィン団長、いえ……エルヴィン常務とは……?」

大きな窓に手を触れながら、後ろを振り返りリヴァイ部長を見る。

「仕事のパーティの場で偶然会ってな。俺も驚いた。エルヴィンの方から声を掛けてきたんだ。
あいつに出会った時、既に俺にもエルヴィンにも記憶があった。俺にとってはエルヴィンが今世で初めて会った『記憶を持つ人間』だ」

リヴァイ部長はジャケットを脱ぎハンガーにかけると、キッチンでお湯を沸かしお茶を淹れ始めた。

「お前とハンジが同じ会社にいるとエルヴィンから聞いてな。
会いたいと思った。――特にお前には。
会社には、エルヴィンの力で引き抜いてもらった部分もある」

紅茶の良い香りがキッチンから漂う。
座れ、と促され、私は大きな革張りのソファに腰かけた。

「その後エルヴィンに、ハンジにも引き合わせてもらった。ハンジにも記憶があったからな。
お前には記憶はないようだとエルヴィンとハンジから聞いていたから、今日まで会わなかったんだ。混乱させてもしょうがねえからな。
しかし……記憶を持っている俺にとっちゃあ……
実際に会って、お前の顔で『お初にお目にかかります、アッカーマン部長』って言われるのは、なかなかしんどいものがあった」
「す……すいません……」

はあ、とため息をついた部長に私は恐縮して謝った。

紅茶を持ってきたリヴァイ部長も隣に座ったが、それでもこの大きなソファには縦も横もまだまだ余裕がある。
リヴァイ部長とこんな立派な部屋でこんな大きなソファに座るのは、初めての経験だった。
あの頃私達がいつもいたのは、もっと狭くて質素な部屋だった。私はなんだかそわそわしてしまい、落ち着きなくソファを撫でる。

「……なんだ?」
「なんか……あの頃は多分……もっと小さなソファでしたよね? それでも幹部の執務室にあるソファなんてすごく大きいほうだと思ってたんですけど。
ベッドも今考えればあんまり大きくなかったし、固かった気がします」
「ああ、そうだな……まあ、時代が時代だったし、俺達が所属していたのは貧乏兵団だったからな」

部長は紅茶をずずっと啜った。
ティーカップの持ち方が、前世と同じく独特だ。そんな小さなこと一つで私の胸はまた温かくなった。

「……今更だが」

カチャリとティーカップを戻し、部長は私に向き合う。

「お前に……記憶を戻させるような真似をして申し訳なかった」
「え……?」
「良く考えりゃ……あんなクソみてえな時代の記憶なんてないほうが良いだろう?
俺はお前のことをしっかり覚えてたっていうのに、お前だけさっぱり覚えてないのが胸糞悪かったってのはあるが……軽率だった、すまない」
「ううん、兵長、それは良いんです」

私は両手を胸の前で振った。
呼び方が兵長になってしまった。しばらくは混同してしまうかもしれない。

「確かにひどい時代でした……。でも不思議ですね。私、幸せな記憶ばかりなんです。
悔しい事辛い事いっぱいあったはずなのに、それよりも幸せだった事ばかり思い出します。
私、あの世界でもすごく幸せだったんです。思い出せて、良かった」

橙に染まる空が、リビング内と家具も同じ色に染め上げていた。
私は橙のソファの上で、そっと部長の手に自分の手を重ねた。

「兵長がずーっと約束を守っていてくれたから、私幸せだったんですよ。
生きている間ははずっと、死んでもずっとあの世で想っていてくれるっていう約束。
――まさか、生まれ変わってまで想っていてくれるとは思いませんでしたけど」
「……壁の中には輪廻転生なんて観念はなかったからな。あれはブディズムやヒンディズムの教えだろ。
俺だって輪廻転生を知ったのはお前が死んでだいぶ経って、壁外の文化が壁内に入って来てからだ。
あの頃の俺達じゃ、生まれかわりなんて思いもつかなかっただろう。転生という概念がねえんだからな」

そう言われてみればそれもそうだ。
兵長はソファの上で、重ねた私の手の指に自身の指を絡ませた。

「……まあ、お前が思い出したことを悔いてないなら、それで良い」
「全然悔いてはいませんよ。でも……」

私はむうと少しだけ恨めしい顔を作る。

「前世の記憶を思い出させるためにすることが、池に突き落とすって……」
「あ? 前世ではお前は何かと池で溺れてた記憶があるんだが、違えか?」
「違いますよ! そんなにたくさん溺れてないし、自分で溺れたのは一回だけですよ! 多分……。他は、兵長に突き落とされたんでしょ!」
「だが実際溺れて思い出してんじゃねえか」

むきになって反論する私に、部長はしれっと論破した。
それはそうですけど、とブツブツ言っているとうるせえなと一蹴された。

「でも! もし、前世のこと思い出せなくたって大丈夫ですよ」
「何が大丈夫なんだ」

リヴァイ部長は相変わらず感情の伴わない声で静かに聞き返す。

「多分私思い出せなくたって、『アッカーマン部長』のこと好きになってましたもん」

私がそう言うと、リヴァイ部長は驚いたような目でこちらを見る。
目が合うと私は恥ずかしくなって、目を逸らしてしまった。

「……一目惚れですよ」

ぼそりとそう言うと、顔中に熱が走る。
自分の顔が赤くなったのがよくわかった。

リヴァイ部長は、はっ、と笑うとゆっくりと私の耳のあたりに両手を当てる。

「……お前は本当にいい女だな」

鼻頭がくっつきそうな至近距離でそう囁くと、ゆっくりと私の唇に唇を落とす。
部長はそのまま私をゆっくりと押し倒し、橙色の空間で、私達は前世ぶりに重なり合った。




   

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