第三十五章 溺れる 3





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 * * *



ランチの時間、私はいつものように、オフィスビルを出て五分歩いたところにある自然公園の池の前のベンチに腰かけた。

営業事務である私は内勤が主で、商談等で外出することはほとんどない。晴れていれば、ランチはこのベンチで取ることが多かった。
広い池にはアヒルやカモが泳いでおり、水中にはフナなんかの魚もいる。池の周りは整備された木で囲まれている。公園を一歩出ればオフィスビルが乱立しているビジネス街だというのに、この公園内では鳥の囀りも聞こえる。
暑い夏と寒い冬以外は非常に心地良い場所だ。
休日ともなれば、家族連れや若いカップルのピクニックで賑わう公園だが、平日のお昼時は私のようにランチを取る人間がパラパラといるだけである。

いつもここで、ベーカリーで買うレバーケーゼゼンメルかドライムヴェックラなんかを一つ食べる。
時間が合えばハンジさんがランチに来ることもあるが、別に約束をしているわけではない。
そもそも彼女は開発部で、更に彼女自身は大変な学者肌というか研究肌というか、研究に没頭すると寝食を蔑ろにすることが多々ある。ランチを抜かすことはザラにあるようだ。

私はレバーケーゼゼンメルを食べながら、時々手の中のパンを小さくちぎり、池に向かって投げた。
フナやモツゴがやってきてパンくずを食べようと口をパクパクさせる。



リヴァイ・アッカーマン部長。
――過去に会ったことがあっただろうか?
いや、ない。あんな美形、見たことがあれば絶対覚えている。

自慢じゃないが記憶力や人間観察力には自信がある。
アッカーマン部長は控えめに言ってもかなりの美男子だ。更にあの小柄な体格と印象的な瞳も特徴的だ。覚えていないわけがない。

アッカーマン部長のあまりの美しさに胸が高鳴るのは、まあ致し方ない。
一目惚れなんて柄じゃないし経験もないが、もしかしたらこれが一目惚れというものなのかもしれない。
だがそれとは違う、妙な既視感も覚えるのだ。
やはり部長は、テレビか何かで見た俳優にでも似ているのだろうか。

それに、引っかかっているのは朝ハンジさんが言っていた妙な一言だ。

『この名前見て、何か……何も思い出さないかな?』

思い出さないか、ということは、私が何かを忘れているということだろうか?

ハンジさんは、アッカーマン部長をご存じなのだろうか。
まあ、ハンジさんとエルヴィン常務は仲が良いみたいだから、繋がりでアッカーマン部長をご存じだったとしても合点はいくが……。私に何か思い出さないかと言うのは、どう考えても繋がらない。
私は頭を捻りながら、レバーケーゼをもう一口食べた。



そこへ頭上から声がした。

「おい」

後ろを振り向くとそこにいたのは、まさに今私の脳内を支配していた人物、アッカーマン部長だった。

昼休みだというのに昼食はどうしたのだろうか。
今日は出社初日だから、部長はきっとエルヴィン常務や、そうでなくともその他の役員なんかと一緒にランチを取るのかと勝手に考えていたが、違うのだろうか。

「部長……お疲れ様です。何か、ご用でしょうか?」

そう言って私はレバーケーゼを片付けた。

部長は何も口を開かず、ベンチに腰かけている私を見下ろすだけだ。
そして、朝と同じような表情をする。何か言いたそうに口を開けてはいるが、後に続く言葉が出てこない顔だ。
朝から何なのだろう、何か私に言いたいことがあるのだろうか。
私はこの沈黙に耐えかね、取り敢えず笑顔を作ってにこやかな声を出した。

「部長、ランチはまだ召し上がっていませんか? もしよろしければ、ランチを取れる店をご紹介します。
このあたりは高層ビルばかりですが、少し歩けば気軽なレストランも結構ある……」
「ナマエ」

アッカーマン部長は私の言葉を遮って、私の名を呼んだ。
またファーストネームだ。朝の時と同じように、私の心臓が跳ねる。
だがまあ仕方ないだろう。この顔とこの声で自分のファーストネームを呼ばれて、胸が高鳴らない女性の方が少ないのではないだろうか。

またしばらくの沈黙のあと、今度は部長の方から口を開いた。

「先に謝っておく」
「……は?」

部長の言っている意味がさっぱりわからなかった私は、思わず怪訝な声を出してしまった。

「わりいな」

部長はそう言うと、いきなり私を担ぎ上げた。

「へっ? ……ええっ!?」

私を抱きかかえた部長は池に向かってずんずんと進んだ。
池の周りの柵も跨ぎ、そのまま池に突き進む。そして――。

「えええ!? ちょっと……ぎゃーっ!?」

バッシャーン!!

私の叫び声を無視して、部長は池に私を放り投げた。
私は逆さまに落ち、頭から池に突っ込んだ。
続いて何故か部長まで池に飛び込み、水中で私の胸ぐらを引っ掴むと――私の唇に口づけた。



ビリビリビリッ

唇と唇が触れた瞬間、まるで体中が感電したのではないかと思うような、痛いような痺れるような刺激が、唇から全身に広がる。

刺激を感じると同時に私が見たのは、水中の気泡と、水中で揺れる自分と部長の髪の毛。
そして水の中から見たキラキラ光る水面。

この光景、同じ物を見たことがある。
こんな、水中から水面を見る特殊なアングルの光景、一体どこで見た?

その疑問が浮かんだ次の瞬間、すごい勢いで私の頭の中を数多の映像が埋め尽くした。



そびえ立つ壁。
馬に乗り雄叫びを上げる兵士達。
兵服を来た私。
右手の握り拳を左胸の心臓に当てる敬礼。
人の形をした巨人。
腰に付けた立体機動装置。
緑の外套。
茶色の三つ編みとそばかすの同期。
優しい目をした髭の大男。
ショートカットの美人。
体格の良い金髪碧眼の男性。
メガネにぼさぼさ頭の先輩。
人類の希望と呼ばれた大きな瞳の少年。
黒髪、小柄、三白眼の目つきの悪い男性――兵士長。そして、私の恋人。

映画のフラッシュバックのように、短い映像がバババババッと繋げられていく。
短い間に私の頭の中は数百の映像を映したようだ。
その映像を見ていたのはどのくらいの時間だったのだろうか。感覚値としては三十分にも一時間にも感じられた。
だが、映像が途切れ、はっと我に返った時にまだ水中で、しかもそこまで息苦しくはなかったのだから、恐らく数秒程度なのだろう。



私の唇を解放したアッカーマン部長は、私の手を引いて水面に上がろうとした。
恐らくこの池の水深は二、三メートルはあるだろう。部長は力強く私の手を引っ張ってくれたが、私は彼の手に頼り切ることなく、自分でも繋いでいないほうの手を掻き脚も使いながら水面に向かって上昇した。

「ぷはっ」

私達は二人、水面から顔を出した。水深が深いため当然水底に脚はつかない。お互い首だけが水面から出た状態だ。
周りには先ほどまでベンチから見ていたアヒルやカモが迷惑そうに鳴き声を上げている。

アッカーマン部長は私の手を引いたまま畔に上がった。
当たり前だが、アッカーマン部長も私も頭から足のつま先までずぶ濡れだ。部長の仕立ての良さそうなスーツも、私のブラウスとスカートもびしょびしょで、身体に貼りついていた。

私は、畔でペタリと座りこんでしまった。
ゼーゼーと肩で息をしながら呼吸を整える。
アッカーマン部長も芝生に尻をつき、後ろ側に両手もついている。こちらも少々だが息が切れているようだ。

「……おいお前、今世では泳げるのか」

部長は感情の表れない声で、そんなとんちんかんなことを言う。

今世では泳げるのか、って。
他に――他に、もっと、言うこと、

「……はは、……何、言って」

私は思わず笑ってしまった。
何言ってるんですか、と続けようとしたのだが、声はそこで詰まった。

「今世では泳げるのか」。
数分前の私が聞いたら、意味のわからない変な台詞だと思うだろう。
だが、今の私にはその台詞の意味がわかる。

私の両目から大粒の涙がボロボロとこぼれ出た。

顔は池の水でびしょびしょだから、涙がこぼれていることが誤魔化せているであろうか。
いや、きっと無理だ。だって、私の顔は派手に歪んでしまっている。

私は嗚咽を漏らしそうな喉をぐっと締め、なんとか声を絞り出した。
嗚咽を耐えながら出した声は掠れていた。

「今は……泳げるんですよ……。リヴァイ兵長……」

アッカーマン部長――リヴァイ兵長は、私のその言葉を聞くと大きく目を見開いた。

しばらく私達の間には沈黙が流れ、リヴァイ兵長の、はっ、と笑う声で沈黙が破られた。
次の瞬間、リヴァイ兵長は私の身体を強く引き寄せ、乱暴に私の顎を掴むともう一度口づけた。
先ほど突然水中でされた時とは違い、私も口づけを受け入れた。
性急に入ってくる舌を受け止め、私も必死に舌を絡ませた。

全部、全部思い出した。
私が前世で愛し、そして愛された男のことを。

私達は命を賭して平和を手に入れようとしていたこと。
平和な世の中が来たら一緒に家庭を築こうとしていたこと。
――それは叶わず、私が先に命を落としてしまったこと。

キスをしながらも私の目からは涙が流れ続けた。
何百年か何千年かわからないが、前世ぶりのこの人との口づけに夢中になった。

数分間舌を絡ませ合い、息苦しくなってきたところで互いにゆっくりと唇を離す。
リヴァイ兵長は私の後頚部に手を回し、わずかに笑みを浮かべて言った。

「思い出したか、ナマエ」

私も兵長の背中に両手を回したまま、答えた。

「……思い出しました、兵長」
「前世ぶりだな?」
「……はい、……は、はは……ううっ……」

涙が止まらない。
口からは笑い声らしきものがこぼれたが、もうそれは笑い声というより泣き声に近い。最後にはとうとう嗚咽が漏れた。
私は兵長の背中にしがみついて、泣きながら言った。

「兵長、先に死んで……生きて帰れという命令を守れなくて……っ、申し訳……ありません」
「……ああ、いいんだ……お前はよくやった」

兵長はもう一度私を強く抱きしめ、優しい声で応える。

「こん……ひっ……今世でも……私を、愛して……くれますか?」

嗚咽混じりのみっともない声だった。顔は涙と鼻水と池の水でぐしゃぐしゃだ。
だが、そんな私を兵長は抱きしめ続け、私が一番欲しかった言葉を紡いでくれた。

「ああ、今世でもだ。命が尽きるまでお前の事を愛していよう。命が尽きても、あの世でもお前を想っていよう。
そして、何回生まれ変わっても、何度でもお前を想おう。
……お前が……俺を選んでくれるなら、何度でもだ。
約束だ、ナマエ」

この人は前世で一度も約束を違えなかった。
この人が約束してくれるなら、私達は何度生まれ変わったって、ずっと一緒にいられるに違いない。

ひっくひっくとしゃくり上げて泣く私を、兵長はずっと抱きしめていた。
びしょびしょの私達は池の畔で座り込んだまま固く抱き合って、一つの岩のようになっていた。
通りすがりの人々が奇妙な目で見てくるが、もうそんなことはどうでも良かった。




   

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