第三十五章 溺れる 3





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ナマエの死後、俺は何十年生きただろうか。
正確に何年生きたかは、もう覚えていない。
だが、あの時代あの環境においては、長生きしたほうだと言えるだろう。
兵士として戦死したのではなく、老いてから病で命を落としたと記憶している。天寿を全うしたと言って差し支えないと思う。

ナマエは俺に約束を守らなくていいと言ったが、俺は結局ナマエの死後、決まった女は作れなかった。
どうしてもナマエ以外の女に興味が持てなかったのだ。
ナマエ以外の生きている女を愛するよりも、死んでいてもナマエを想い続けるほうが幸せだったのだから、仕方ない。
そして俺は生涯通して無宗教だった。

ウォール教は、壁が意味をなさなくなったパラディ島で徐々に衰退していった。
終戦後は他国からも様々な宗教がパラディ島に入ってきたが、そのどれにも俺は興味を持たなかった。

あの時代、俺には盟友がいた。
愛する女もいた。
人と比べて多くはないだろうが、仲間と呼べる奴もいた。
奴らの多くは俺より先に命を落としたが、それでも奴らは俺の中でずっと生き続けた。
だから俺は、あのクソみてえな時代の中にいたって、縋る神を持たずとも正気を保って生きてこれたのだろう。

だがオニャンコポンから教えてもらったその知識だけは、死ぬまでずっと覚えていた。
輪廻転生。

どこかで期待していたのかもしれない。
時空を超えて再びお前と出会えることを。



 * * *



――二〇XX年――



ドイツ、フランクフルトにある世界的医療機器メーカー、フライハイト・コーポレーション。
私は大学卒業後すぐにこの会社に入社した。今年で入社三年目となる。
営業部の営業事務チームリーダーとして、数人の部下を持ち勤務していた。
入社三年目だと会社全体から見ればまだ若手に属するのだろうが、営業事務チームにはたまたま私より社歴が長い社員が他にいなかった。私がチームリーダーとなってもうすぐ半年が経つ。

ある朝、廊下の掲示板前に数人の人が集まっていた。
何かと思い私も掲示板の前に向かうと、そこに貼り出されていたのは本日付の辞令だった。
営業部長の退職に伴い、新たな営業部長の名が発表されていた。

新営業部長として名前があったのは、今まで社内にいた人間ではない。
役員のエルヴィン・スミス常務がよそから引き抜いてきたやり手の人間らしいというのは、噂で聞いていた。

「リヴァイ・アッカーマン……」

辞令にあったその名前を読み上げた。

――会ったことのない人のはずだ。
だが名前を口にした瞬間、何か懐かしいものが胸の中に広がった。

「ナマエ、おはよー!」

辞令の前に立っていた私の肩を、後ろからぽんと叩いて挨拶してきたのはハンジさんだ。

ハンジさんは私より何年か入社が早い。社歴上でも先輩だし実年齢も数歳上だ。
私はハンジさんを頼れる先輩として慕っていたし、ハンジさんも私を可愛がってくれている。
開発部のハンジさんは、営業部所属の私とは部署が全然違う。
だが時間が合えば時々一緒にランチもするし、互いの家を行ったり来たりするくらい仲が良い。

「おはようございます、ハンジさん。
辞令、新しい営業部長ですよ。本日付でいらっしゃるんですね」
「ああ、今日だったんだね。
今の部長、随分長い事体調不良で休んでいらっしゃったもんね。とうとう退職されることにしたんだって?」
「ええ。なんか新しい部長、エルヴィン常務が引き抜いてきたらしいじゃないですか。ハンジさんも常務から聞いていたんでしょう?」
「ん? んー……うん」

ハンジさんは少し歯切れの悪い返事をした。

エルヴィン・スミス常務とハンジさんは、この会社で出会う前からの旧知の仲らしい。
ハンジさんは常務のことを「エルヴィン」とファーストネームで呼び捨てだ。

大企業には珍しい傾向かもしれないが、この社内にはファーストネームで呼び合う習慣がある。
だから私達も「スミス常務」ではなく「エルヴィン常務」と呼んでいるのだが、流石に常務の役職名を省略してファーストネームのみで呼び捨てるのは、ハンジさんくらいのものである。

「ナマエあのさ……この名前見て、何か……」
「え?」

ハンジさんは珍しくはっきりしない口調でもごもごと言った。

「……何も思い出さないかな?」

辞令の「リヴァイ・アッカーマン」の部分にトン、と人差し指を当てて私に尋ねた。

「は……?」

要領を全く得ない私は、そうとしか返事できなかった。ハンジさんの質問の意味と意図がわからない。

「いや、いいんだ。何でもない」

ハンジさんはそう言うと、笑顔で去って行った。

リヴァイ・アッカーマン。
もう一度辞令にあるその名前を読んでみたが、やはり知り合いではない。

私もハンジさんの後を追って、エレベーターホールへ向かった。



 * * *



その日の営業部の朝礼には、エルヴィン常務もいらっしゃった。新部長の出社初日だから、彼の紹介も兼ねて来たのだろう。

「皆、辞令を見て知っているかと思うが、本日よりこの営業部には新しい部長が付く」

エルヴィン常務のよく通る声がフロアに響いた。

「入れ」

そうエルヴィン常務がドアの向こうに声をかけると、ドアが開き、男性が営業部のフロアに入室してきた。

入ってきた男性の姿に、私は息を呑んだ。

ツーブロックに刈り上げられた黒髪。小柄な体格。意志の強そうな三白眼。
何より顔立ちが美しい。端正、とはこのことを言うのだろう。
私の心臓はトクンと小さく跳ねた。

「挨拶を」

エルヴィン常務に促され、新しい部長は私達を見回すと、一言だけ声を出した。

「リヴァイだ……」

なんて――無愛想な挨拶。隣に立っているエルヴィン常務も苦笑している。
だが、なんだろう。
なぜこんなに惹かれるのだろう。彼が美しいからだろうか。
それになんだか既視感を覚える。
どこかで会ったことがあっただろうか? それともテレビか何かで似た俳優でも見たのだろうか?

あまりに無愛想で情報が足りない挨拶を受けて、エルヴィン常務がフォローに入った。

「彼はリヴァイ・アッカーマン。
前職は医療機器ではなかったが、他社で同じく営業部の部長として活躍していた。
彼は優秀な営業マン――プレイヤーであり、マネージャーだ。私が保証する。必ずやこの営業部を引っ張っていってくれるだろう。
社内のルールはわからないことも多いだろうから、皆教えてやってくれ」

パチパチと営業部員からは拍手があがった。

無愛想この上ない挨拶だったが、なぜかこの人は人を惹きつける。
優秀な営業マンというのもわかる気がする。この人の話は聞いてみようと思ってしまうのだ。こういうのを人たらしというのだろうか。

その後は売上進捗の報告、本日の予定の確認など、いつも通りの朝礼を行い解散となった。
私は自席へ戻ろうとしたが、その時いきなり、部長に右腕を掴まれた。

「おい、お前……」

急に腕を掴まれ、私は驚き部長を見つめた。
近くで見るとやはり美しい顔だ、ちょっとドキドキしてしまう。
平静を装い、なんでしょう? と声を出そうとした。しかしそれより先に部長が口を開いた。

「ナマエ……」

突然呼ばれたファーストネームに、心臓を鷲掴みにされたようだった。

何を考えているのか、部長のその表情は読み取れない。
切なそうにも嬉しそうにも見えたが、今日初対面の私には、彼の表情を正確に把握する力はなかった。
ただ、私の名を呼ぶその声がやたらと扇情的に感じられて、思わず背筋にぞくっと快感のようなものが走ってしまう。

それにしても、初対面のはずなのにファーストネームを知っているとは。
もう営業部内の人間の顔と名前は覚えているということだろう。流石、エルヴィン常務が引き抜いてきたというだけのことはある。
だがいきなりファーストネームで呼ばれ、少々面食らってしまった。決して嫌な気はしなかったが。
まあ、この社内ではファーストネームで呼び合う習慣があるから、ファーストネームで呼ばれること自体は別におかしくはない。既に社内の習慣を知っているのだろう。

部長は、私の名を呼んだきり何も声に出さない。
何か言いたそうに口を開けてはいるが、後に続く言葉が出てこないようだ。
私は助け舟を出すつもりで、自分から声を出した。

「お初にお目にかかります、アッカーマン部長。
ナマエ・ミョウジです。営業事務チームのリーダーをしております。以後、どうぞよろしくお願いいたします。
社内でわからないことございましたら、何でもお尋ねくださいね」

そう言って、にっこりと笑顔を出した。

部長は私のことをファーストネームで呼んだが、部下に当たる私が初対面でファーストネームをお呼びして良いものかどうか迷ったため、「アッカーマン部長」とファミリーネームで呼んでおいた。これで失礼には当たらないだろう。
部長は私の笑顔を見ると、掴んでいた私の右腕を解放した。

「……ああ、よろしく頼む。引き留めて悪かった、戻って構わない」

静かにそう言うと踵を返し、部長自身も自席へと戻っていった。




   

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