第四章 壁外調査
02
その時だった。
緑の影がものすごい勢いでこちらに向かって飛んできて――一瞬のうちに私を握っていた巨人の項を削り取る。
瞬間、私を握っていた巨人の手から力が抜け、私は地面に落ちた。
「ぐうっ!」
骨折の痛みで、呻いてしまった。
肋骨と……他にもどこか折れているのだろうか、立ち上がることができない。
私の目の前に、巨人がズン……と音を立てて倒れこんだ。
一瞬で急所を仕留められた巨人は、蒸発を始める。
その巨人から降り立ったのは、小柄で粗暴で神経質な、人類最強の男だった。
男は私の目の前に立ち、不愛想な声を出す。
「おい……起きろ。立てねえのか」
「……リヴァイ兵長……ありがとうございます」
ゼーゼーという呼吸音と共に、必死に声を絞り出した。
絶対に肋骨をやっている。呼吸が上手くできない。
巨人の手の中で、なんであんなに怒鳴ることができたのか不思議だ。火事場の馬鹿力だったのだろうか。
「……なんだ、お前肋骨やられてるな? 足もか?」
リヴァイ兵長は私の左足に触れた。左足は変な方向に曲がっていた。
「ナマエ分隊長――――っ!!」
ダミアンとエーリヒが駆け付けてきた。エーリヒの顔は涙と鼻水で、下半身は尿で、更に全身が雨で濡れ、ぐしゃぐしゃだ。
二人の無事な姿を見て、ふっと笑ってしまい、また肋骨に激痛が走る。
「リヴァイ兵長……ありがとうございます……っ」
エーリヒは泣きながら兵長にお礼を言っていたが
「汚ねえな、その顔とケツをなんとかしろ」
と一蹴されていた。
左翼側索敵班の援護をしていたリヴァイ兵長は、カールが前方に向けて必死に何発も何発も打った赤い信煙弾に気づき、左翼側を片付けた後に後方まで援護に来てくれたのだった。
この土砂降りの中、煙弾に気づいてくれたのは幸運以外の何物でもない。
「おい、第三拠点まであと少しだ。乗れ」
肋骨と左足を骨折した私は自力で馬を走らせることが出来ず、兵長の馬に乗せてもらうことになった。左足を引きずりながら、兵長の後方に跨ろうとしたら止められる。
「前に乗れ。そんな状態じゃ力が入らなくて落ちるだろうが」
兵長に抱きかかえられ、無理やり鞍の前方に跨らせられた。その後ろに兵長が座り手綱を持つと、まるで後ろから抱きしめられているようだ。
こそばゆい感じだったが、やはり前方に座らせてもらって良かった。後方だったら揺れすぎて多分落馬しているし、後ろから兵長が支えていてくれるから落ちる心配がない。
振動が来るたびに激痛が走り、耐えているうちに意識を手放しそうになっていたが、そのたびに兵長が声をかけてくれた。
「おいナマエ、耐えろ。意識飛ばすんじゃねえ。もう少しだ」
返事もままならない私に、何度もそう言って声をかけ続けてくれた。
耳元で聞こえる低い声は心地よかった。
第三拠点に到着し、鞍から降ろされた私に、荷馬車と共に先に着いていたカールが泣きながら抱きついてきた。
「ナマエ分隊長――っ!! よくぞご無事で!!」
カール、ダミアンに支えられ何とか立った私は、やっとの思いで兵長に向かって声を出す。
「リヴァイ兵長……私と部下を助けていただいて……ありがとうございました……」
「……死ななくて何よりだったな」
兵長はそう言うと去って行き、私は支えられながら医療班の下へ連れて行かれた。
左足を固定され、肋骨は正確にはわからないが最低でも左右一本ずつは折れているとのことだ。
第三拠点からの帰路は、カールが引く荷馬車に乗ることになった。
ガスや刃の補給は第三拠点で終了したし、後は予備の物資が積んであるだけなので、荷馬車の中は比較的スペースがある。私は班の指揮をダミアンに任せると、遠慮なく横になった。
肋骨のせいで横向きもうつ伏せもできず、仰向けになったがそれでも辛い。
そのうち、先ほど医療班で打ってもらった鎮痛剤が効いてきて、呼吸もしやすくなり、かなり楽になった。
痛みが楽になり始めると、私の頭の中は一人の男の影でいっぱいになった。
もうダメだと思った時に、信じられない速さで飛んできた影。
私の左足に触れた、あまり大きくない、でも男性らしい骨ばった手。
馬上で背中に感じた体温。
耳元に残る低い無愛想な声。
『おいナマエ、耐えろ。意識飛ばすんじゃねえ。もう少しだ』
彼の声が脳内で再生された瞬間、私の顔がかぁっと熱くなった。
体温が多分三度くらい上がっている。
なに、これ……恋?
思い浮かんだその単語は、思いがけない物すぎて、理解が追い付かない。
「いやいやいや、待って!」
横になったまま、思わず声に出していた。
「分隊長、どうかされましたか?」
荷馬車を引いていたカールが私に問いかける。
「ご、ごめん……なんでもない……」
「そうですか?」
落ち着け、落ち着いて……。
私が、
リヴァイ兵長を、
好き?
恋をしたことがないわけではない……と思う。ただその時はあまりに幼かったので、よくわかっていなかった。
そのまま訓練兵団に入り、大した恋愛経験がないまま十八歳になってしまったのだ。
ありがたいことに言い寄ってくる男性はたくさんいたが、実は誰とも交際をしたことがない。経験不足のため、これが恋かなんてよくわからない。
ちょっと待って。思い出した。前に本で読んだことがある。
『吊り橋効果』という物があるのだ。驚きや恐怖などによる興奮を、恋をしたことによる興奮と錯覚することがあるという。
「それだっ!! 吊り橋効果だ!!」
「分隊長! どうされましたかっ!?」
また声が出てしまった。
「ご……ごめんカール……気にしないで」
「吊り橋ってなんですかそれ」
カールは訝しげな声を出した。
その後は大きな戦闘もなく、私達は無事に調査兵団本部へ帰還した。医務室へ運び込まれた私は、そのまま医務室預かりとなった。
真っ赤な顔をしている私を見て医師は、
「怪我をした時にはよく発熱するものなんだけど、すごく熱が高いねえ」
と心配そうに言った。
そうか、怪我をした時にも発熱するのだ……。決してこれは恋愛で体温が上がっているわけではない……。
そう自分に言い聞かせ、ベッドの中で意識を手放した。