第三十二章 ウォール・マリア最終奪還作戦
05
辺りをくまなく歩き回り、飛び散った身体の欠片で個人が特定できそうなものは、全て手に取って検分した。
しかし、腕や足は比較的手に取りやすかったが、胴部と思われるものはとても拾える状態ではなかった。
首から上の頭部も時々転がっていたが、顔が確認できるものは確認し、瞼を閉じる。できないものも多々あった。
こんな、こんな状況、初めてというわけではないのだ。
巨人と戦えば犠牲は付き物。今までの壁外調査でだって、何人も殺されてきた。
仲間を爆発で亡くすことはなかったが、喰いちぎられて同じように身体がバラバラになった人間を見ることは初めてではない。
なのに、俺は体の震えが止まらない。
一つ一つ拾うたびに、その欠片がナマエのものではない証拠を探していた。
激しく動いているわけではないのに息が上がっている。恐怖のせいだ。
ある腕を拾った。
俺は目を見開いた。
肘から下の部分のみだった。
細い手首、白い肌。衣類は既に纏っていなかったが、火傷による変色はそこまでではなく、肌の白さがよくわかった。この腕は明らかに男の物ではない。
見覚えのある腕と手だと思った。
この爪の形も見覚えがある。
――俺が昨日まで愛して愛して、ベッドの中で指の一本一本をしゃぶり、固く握った手ではないのか。
冷や汗がつーっと背中を流れた。
――証拠はない。この腕には個人を特定させる情報はどこにもない。ただの俺の勘違いの可能性は十分にある。何せ、多分俺の今の精神状態は普通じゃない。
必死にそう言い聞かせ、その腕を抱えたまま立ち上がる。
ナマエのものである証拠はないというのに、俺はその腕を手放すことができなかった。
「リ、リヴァイ!! こっち!!」
ハンジの叫び声が上がった。
俺は冷や汗を止めることができないまま、腕を抱えハンジの元へゆっくりと歩きだした。
ハンジの元へ近づくのが怖かった。ハンジが何を見つけたのか、知りたくなかった。
もたもたと歩き、しかしとうとうハンジの元へついた俺が目にしたものは、
ナマエだった。
「……お前……」
俺はその身体の前にがくりと膝をついた。
ハンジはしゃくりあげながら、涙をボロボロと流している。
ナマエの身体は、右腕と両脚、四肢のうち三つが吹っ飛ばされていた。
右腕は根元から、右脚は太腿の途中辺りから、左足は膝辺りから先が無かった。
俺が抱えている腕は、恐らくこの吹っ飛ばされた右腕の一部だろう。上腕に当たる部分がないが、まだどこかに落ちていると思われる。左腕はまだついている。
失った腕と脚以外の部分は、ボロボロだがまだ衣類も纏っていた。
だが衣類に覆われていなかった顔は酷い火傷だ。特に右半分が。しかし、目も鼻も耳も口も欠けることなく、まだ頭部についていた。
「ナマエ……」
俺の声は掠れた。
跪いたまま、ナマエの胸元に顔を埋める。
涙は出なかった。
ただ全身の震えが止まらない。
ふ、と気づいた。まだナマエの身体が温かい。
「……ナマエ?」
胸元に耳を当てる。
衣類が邪魔で、ボタンを外し胸を露わにさせた。左側の乳房に直接耳をつける。
小さく、しかも不規則ではあったが、わずかに心臓の動きが感じられた。
「……!! おい!! ナマエ!?」
叫びだした俺に、ハンジが驚き駆け寄る。
俺はナマエの鼻と口に顔を寄せ、耳を欹てた。ヒュー、ヒュー、と、こちらも不規則ではあるが、かすかな呼吸音が聞こえる。
「……ナマエ!! しっかりしろ!! おい、まだ生きてるぞ!!」
腕と脚を吹っ飛ばされても、内臓の損傷はそこまでではなかったのだろうか。
全身酷い火傷だが、それでも今、まだ確かに息がある。
「ナマエ!! ナマエ!!」
「ナマエ!! しっかり!」
俺とハンジが何度も呼びかけるが、反応はない。
さっき、注射はアルミンに使っちまった。もうナマエを回復させる術はない。
俺はナマエを担ぎ上げた。生きている馬を探しだし、トロスト区へ運べば――。
その瞬間、びしゃびしゃびしゃっと嫌な音がする。
ナマエを担ぎ上げた時に、腕と脚の欠損部分から大量に出血した。地面を鮮やかな赤が埋め尽くす。
先ほどナマエが横たわっていたところを見れば、既に黒く変色している血だまりができていた。
「……ダメだ、リヴァイ……これでは……」
ハンジが涙を流しながら、絶望を口にする。
出血が多すぎる。
火傷の痕がひどく元の肌色がよくわからないため気づかなかったが、本来であれば出血多量で真っ白な顔をしているはずだ。
既にこの血溜まりができていて、更に身体を動かせば今のように新たな出血が発生する。
こんな出血量を見れば誰でもわかる。特に俺達は、兵士として壁外でこういう状況を何度も何度も目の当たりにしてきた。
経験からはっきりと言える。ナマエはここまでだ。
脳みそでは理解できているのだ。
だが俺の胸の奥がその理解を拒否する。
口から出るのは全く情けない狼狽した言葉だった。
「いや駄目だ……なんとか……なんとかする……。
ナマエをここで死なせるわけにはいかねえ……こいつは生きることを望んでいた」
「リヴァイ、ダメだ……なんともならない。
ナマエをここにそっとしておいても、そのうち息を引き取るだろうが……ナマエを動かせば、死期が早まるだけだ。……わかるだろう?」
ハンジの瞳からはボタボタと涙が滝のように流れ続けている。一〇四期がいないせいか、多分箍が外れている。
ハンジは泣きながら言葉を続けた。
「ナマエは……ナマエは多分、即死でもおかしくなかったんだ。
ダミアンの腕を見ただろう? 今まで……他に生存者がいたか?
でも、ナマエはねえ……リヴァイが来るのを待ってたんだよ。リヴァイのこと信じて……そうに決まってる」
ひぐっ、ひぐっとしゃくり上げながらそう言うハンジに、俺は返す言葉が無かった。
そうなのか、ナマエ。
お前、俺が来るのを待ってたのか?
俺の顔は大きく歪んでしまった。
ナマエを地面に横たえる。まだ、心臓は小さく動いているようだ。
俺は全身ががたがたと震えていた。
怖い。これから、ナマエのいない世界が始まるのか。
エルヴィンを失い、ナマエを失い、俺はどうやって生きていけば――。
その時、ナマエの声が脳裏に浮かんだ。
『兵長、私達、一人と一人で支え合って生きていきましょう』
『いくらでも泣き喚いてください。私が受け止めます。その後、一緒に前を向けば良いじゃないですか』
ああ、ナマエ。
俺とお前は、一人と一人で支え合っているんだったな。
お前はこれからもずっと、俺を支えてくれるよな。
震えの止まった俺は、兵服の内ポケットに手を入れた。
あの日買った指輪を取り出す。
出立前に、持ってくるかどうか悩んだ。だが、万が一俺が死んでナマエが生き残った場合のことを考えた時に、この指輪が俺の机の中から出てくるのは好ましくないと思ったのだ。
この指輪がナマエの手枷になるようなことがあってはいけないと――もし俺が先に死んだら、俺に縛られずあいつはあいつの人生を自由に謳歌して欲しいと思ったのだ。壁外で俺が散るようなことがあれば、この指輪も一緒に散るべきだと。
俺の他に愛する人間ができれば幸せになって欲しかったし、お前の望む平和な世の中が来れば、子供だって持ってほしかった。
だからその妨げにならないよう、指輪を持ち出したのだ。
こんな形で指輪を取り出すことになるとは、想像していなかった。
奇しくも、ナマエの右腕と両脚は吹っ飛ばされているというのに、左腕だけは指先まで綺麗に残っているのだ。
「ナマエ」
俺の声は震えて滲んでいた。本当にみっともねえ声だ。
だが、お前はきっと笑わないで聞いてくれるだろう?
「……愛している。これからもだ。ずっとだ。
俺はまだそっちには行けねえが……お前の言う通り、俺は一人でも歩いてみせる。その証だ」
サイズがわからず直すこと前提で買った指輪は、奇跡的にナマエの左手の薬指にぴったりだった。指の付け根まで指輪を嵌める。
「やっぱり似合うな。お前の為に……必死こいて選んだ指輪だ……」
俺は、ナマエの火傷で変色した顔に自分の顔を近づけ、唇を重ねた。
唇の感触は火傷のせいでいつもとは違ったが、まだ温かい唇は俺のことを拒否せず、受け入れてくれた。
その時、ナマエの心臓が止まったのが直感でわかった。
僅かながら聞こえていた呼吸音はぴたりと止まり、左胸に耳を当てても、鼓動はもう感じられなかった。
ナマエの左手を握ったまま、俺は全身の力が抜けた。
肩の力が抜けた俺の様子を見て、ハンジが泣きながら近づいてくる。
俺の隣にしゃがみ込んだハンジは、ナマエの頭を撫でた。
「なんて……穏やかな顔してるんだ……。リヴァイの言葉、聞こえてたんだね」
どのくらいそうしていただろうか。
俺はナマエの身体の前から動けなかったが、意を決してナマエを抱きよせる。
「ハンジ新団長よ。最初の仕事として、まずは兵士長の我儘を聞いてもらうぜ。
エルヴィンとナマエの遺体は、壁の中に持ち帰る。誰にも文句は言わせねえ、英雄の凱旋だ。
ここまで調査兵団を率いてきた幹部の遺体が、二体とも奇跡的に持ち帰れる状態で残ってるんだ。文句ねえな?」
ナマエを抱いたまま、隣で同じく膝をついていたハンジに言った。
「……あなたの我儘は聞かないよ」
ハンジはすっくと立ち上がり、ナマエを抱きかかえながら立ち上がった俺を正面から見据える。
「団長命令だ。英雄二名の遺体を壁内に持ち帰る。
生きている馬と、使える荷車を探そう」
俺達はウォール・マリア壁上へ戻り、他の七名と合流した。
ナマエの遺体を見て、付き合いのあったエレン達一〇四期は泣いていた。
生存者は結局発見できなかったが、馬は走れる物を四頭なんとか発見することができた。荷車はシガンシナ区の家屋にあった物を拝借する。
その後、俺とハンジ、エレンとミカサは、エレンの家の地下室に辿り着いた。
エルヴィンの悲願だった、この世界の真実への扉に手を掛けることができたのだ。
日が沈み始める頃、俺達は馬に分かれて乗り、また荷馬車にもエルヴィンとナマエの遺体と共に乗った。
往路と同じように光る鉱石を光源に、行けるところまで馬で駆ける。
ウォール・ローゼに到着し、リフトで壁上に上った時には、日付を越えて夜明けだった。
トロスト区の住民の割れんばかりの歓声と共に、九名の調査兵団と二名の遺体は凱旋した。