第二十九章 一人と一人





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「兵長、ちょっと落ち着いてください……そうだ、今お茶を淹れますね?」

努めて穏やかでいようと、平静を装っているナマエがそう言って立ち上がろうとしたのを俺は押さえつけ、睨み付ける。
ナマエをソファに座らせたままにしておき、立ち上がったのは俺の方だ。

俺はソファから歩み机の引き出しを開けると、地下街にいた頃から使っていたナイフを取り出した。

「……こんな小型のナイフじゃ何もできないと思うか?
いや、俺のことを良く知っているお前なら、そうは思わないよな……。
刃物ってのは力の入れ方次第でどんな風にも使える。このナイフでお前の腕だろうが足だろうが、致命傷を負わせるのは簡単だ」

ナマエはまた目を見開き、ナイフを持ち立ちはだかる俺を見つめた。

「……あいつも……エルヴィンも、俺の進言に聞く耳を持たなかった。
お前もか? ナマエ」

俺は自分の顔がひどいことになっているのを自覚していた。

こんな、縋るような顔をこいつの前でしたくなかった。
みっともない――だが、俺は確かに縋っている。

「お前の腕と足をダメにしてでも……お前を行かせたくない」

俺を見るナマエの瞳は、まるで可哀そうな子供を見るような憐みの目にも見えた。

「兵長、聞いてください」

憐みのように見えていたナマエの表情は、ふわりと笑顔に変わる。

なぜ、笑える?
この無様な俺の姿を見て笑ってるのか?

ソファから立ち上がったナマエは、ナイフを手にしているにも拘らず、俺を抱きしめた。
ナイフは俺の右手に握られたままだ。

「……てめえ、ナイフが見えねえか? それとも、俺が本気でお前を傷つけるようなことはしないと思ってんのか?」

お前を愛している。
愛しているからお前を傷つけてしまいそうだ。

実際、傷つけた。首を絞め、全身に歯形をつけ、ボロボロに犯した。
二度としてはいけないと思いながらも、してしまいそうな自分が恐ろしい。
俺はこんなに弱い人間だったのだ。
「人類最強」? 笑止千万だ。

ナマエは俺の質問には答えず、ただ俺を抱きしめていた。
そして俺の耳元で、優しい声を出す。

「兵長、私は何を言われても、ウォール・マリア奪還作戦に参加します」

その優しい声で絶望を口にする。

ナマエが口にしたのは確かに絶望だが、俺は何故かその声色に在りし日の母親を思い出していた。

「そのまま、聞いてください。途中で腕とか刺しちゃ嫌ですよ」

ナマエは俺を抱きしめたまま、まるで冗談を言うかのように笑いながら俺を牽制する。
「私、前に言いましたよね? 子供は嫌いじゃない。けれど、誰の子供でも良いから欲しいわけじゃない。
私が欲しいのは、リヴァイ兵長、あなたの子供です」

俺達二人の間に、暗黙の了解としてなんとなく漂っていた幸せな将来をはっきりとナマエに口にされて、かっと嬉しくなった。
俺はナイフをしっかり握りしめたまま、だがまるでナイフは意味を持たなかった。
刺してやりたい、もう兵士を続けられなくなるような致命傷を負わせてやりたい、という気持ちはあるのに、俺の手は金縛りのように動かない。
脆弱な精神がそうさせているのか、それともナマエの言葉がそうさせているのか。

「あなた以外の子供を生むことは考えられません。
それには、大前提として、あなたも無事でなければいけないんですよ?」

ナマエは俺を抱きしめていた身体をゆっくりと離し、俺のナイフを握った右手に両手を添えた。

俺とナマエの目が合う。

ナマエの浮かべている笑顔は美しかった。
いつも他人の前で見せる完璧な仮面のような美しさではない。
もっと穏やかで、優しくて、慈愛に満ちている。

俺はその笑顔に自分の母親を重ね――いや、こんな笑顔をどこかで見たことがある。
俺の母親よりももっと近いものを……どこで見た?

記憶を辿り思い出したのは、以前資料室でエルヴィンと一緒に見た、壁外の情報が書かれている禁書だった。
この壁の中には、ウォール教ぐらいしか宗教がないが、壁外には様々な宗教があるらしい。
その中の、キリスト教といっただろうか。そのページで見た、神の母とされている女性の肖像画だ。聖母マリア、それにそっくりだと思った。

「兵長……あなたも無事でいなければ私は子供が持てない。
あなたもウォール・マリア奪還作戦へ行かないことにしますか? 壁の中で仲間の帰りを待っていることにしますか?」

宗教の象徴にそっくりな穏やかで美しい笑顔のナマエは、俺の右手を取ったまま、優しい声でそう言った。
そしてそっとナイフを取り上げる。
俺は答えに詰まった。

「……それは……」
「それは、できない。そうですよね。
兵長、私もです。それはできません。
兵長と同じように、兵士としての自分に誇りを持っていますから。
……いつか子供を持てたなら、胸を張って誇りたい。お父さんとお母さんは、この世界の平和のために全力を尽くしたって」

そんな未来の幸せを語ったナマエは、いつも俺がナマエにやっているように俺の頬に手をやり、撫ぜた。
ナマエの柔らかく穏やかな笑顔とは反対に、俺は本当に情けない顔をしていたと思う。

「大丈夫です、兵長。私達、一人と一人で生きていけますから」
「……一人と一人?」

言葉の意味がわからなかった俺は聞き返す。

「そう、一人と一人です。
これ、旦那様の受け売りなんですけど……。二人で生きていくなんて烏滸がましいって。人間は、いつでも一人だって」

俺ははっと息を呑んだ。
俺はナマエと二人で生きていこうとしているからだ。
それを何というか――今の言葉で、俺はうっすら気づいてしまった。

「人間は、生まれてくる時も一人で生まれてきます。もちろん、母親の大きな助力はありますが……」

ナマエは執務室の天井に目を向けながら、優しい顔のまま語る。

「知ってますか? 赤ちゃんってね、自分で陣痛を起こすんですって。生まれてくる前から、自分の力で、一人で、出てくる日を自分で決めるんですよ。そして、自分の力で回転しながら産道を降りてくるんです。双子だって、産道を通る時は二人一緒になんて無理です。一人ずつ出てきます。
もちろん、死ぬ時も一人です。誰に看取られようと……息を引き取る瞬間は一人です。
誰か自分の望む人とシンクロして同時に息を引き取るのは、物理的に難しいでしょう」

語った内容は、今の俺には辛辣だった。

「兵長」

ナマエは天井に向けていた目を下ろし、俺に向ける。

「私は兵長を、愛しています。本当に……この上なく。大好きです。
だから、あなたに恥じない、あなたにふさわしい人間になろうと思い……一人で立つことに決めました。
兵長の前では泣き言を散々言いましたが……ふふ」

そう小さく笑ったナマエは――俺より少し小柄だったはずだ。
なのに、なんだ。これは。
こいつの方が大きく見える。

「きっともう泣き言言わなくても大丈夫。例え泣き言を言うことがあっても、ちゃんと立ち直れます。
兵長からの大きな愛があるから、私は一人でも立っていられるんです」

俺がうっすら気づいていたこと。
二人で生きていく――それは「依存する」と紙一重だ。

「兵長、私達、一人と一人で支え合って生きていきましょう」

ナマエはにっこり笑った。
そして、取り上げた俺のナイフはソファの前のテーブルにコトリと置く。ナイフを俺の手の届かないところに投げるわけではなく、俺が手を伸ばせばすぐに届く位置に置くのだ。

「……クソが……」

俯いてそう呟くしかない。

「どいつもこいつも、俺の言うこと聞きやしねえ」

俺は下を向いたまま悪態づくが、ナマエの纏う空気は全く動じず、穏やかなままだ。

「てめえは……自分は散々泣き喚いておいて……俺には許さねえってか?」
「ううん、いくらでも泣き喚いてください。私が受け止めます。その後、一緒に前を向けば良いじゃないですか」

下を向いた俺の顔を、ナマエが覗きこむ。

「その代わり、もし私がまた泣き喚きたくなったら、今度は兵長が前を向かせてくださいね?」
「……はっ」

強がった笑いを絞り出す。
せいぜいこのくらいの強がりはさせてくれ。

「……俺の知らない間に、一人で勝手に強くなりやがって……全部旦那様のお陰ってか?」
「ええ。兵長、強い女は嫌いですか?」
「クソが」

俺は俯くのを止めて、悪戯っぽく笑ってるこの女の目を真正面から捉えた。

「めちゃくちゃ好みに決まってるだろうが」

皮肉めいた口調でそう言ってやると、ナマエはふふふと笑って、俺の背中に手を回した。
俺はナマエに抱きしめられている体になる。
お互いの顔が肩の上で交差するような形になり、表情が確認できない。それが素直になる後押しになった。

「……ありがとうな、ナマエ」

沼に沈みそうな俺を引っ張り上げてくれて。



この日、俺もナマエも兵士としての役割を最後まで果たすことを誓った。




   

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