第二十九章 一人と一人





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 * * *



別の日の夜。
俺はナマエの部屋のソファで茶を飲んでいた。
ナマエはベッドにゴロリと横になり、俯せで本を読んでいる。何の変哲もない、いつも通りの光景だ。

――大丈夫だ、俺は素朴な疑問を口に出して、こいつの考えを聞くだけだ。
こいつが俺を愛しているのはわかっているし、俺もこいつを愛している、それも明明白白だ。

意を決して、しかしそれを悟られないように自然体を装い、口を開く。

「なあナマエ」
「はい?」
「お前、子供が好きなのか?」
「え?」

ナマエは突然の質問の意味を深く考えていないようで、気のない相槌を返してきた。

「いや……この間お前に孤児院に連れられて行った時、そういう風に見えた」
「うーん、嫌いじゃないですよ。でもそれは、兵長だってそうじゃないですか? この間、なんだかんだ言って最後の方子供達と遊んでたじゃないですか」

ナマエはふふふと笑いながら、本のページをペラリと捲る。

「お前は……自分の子供は、欲しいとか思わないのか?」

その言葉を発した瞬間、部屋の空気が変わったのがわかった。
ナマエの本を捲る手がぴたりと止まる。

俺の一番知りたかった疑問は、口に出すとなんとも直接的で生々しかった。
ナマエの顔は本に向けたままだから見えないが、多分固まっているだろう。
この部屋の空気に耐えきれなくなり、俺は沈黙が重くならないうちにと焦って言葉を紡いだ。

「その、お前の遺伝子は優秀だから……残さないのは勿体ねえと言うか」

……焦って口を開くもんじゃない。
こんなとんちんかんなことが言いたいんじゃない。
俺は自分で自分の目に手をやり、天を仰いだ。何を口走ってるんだ、俺は。

「い、遺伝子でいうなら……兵長の方が、後世に残さないのは勿体ないかと」

ナマエは顔を本に向けたまま答えた。声が上ずっている。
ナマエの全身からに滲み出る空気が、緊張そのものだ。

「……」

俺達はしばらくお互いに何を言えばいいかわからなくなり、無言だった。

十分な沈黙の後、突然ナマエが本をバタンと閉じベッドの上に正座して座った。
俺の方を正面から向き、だが顔は俯いて自分の太腿あたりに目線をやっている。

「す、すいません、私、何か変なこと言ったかもしれません」
「いや待て、変じゃない、大丈夫だ」

俺もナマエも、いつもよりも少し早口で、声から焦りが鮮明に読み取れた。
俺は背中と手に変な汗をかいていた。
多分ナマエもそうだ。気恥ずかしいようなばつが悪いような空気が部屋に充満し、俺達に纏わりついている。

深呼吸を一つした。
思っている事がねじ曲がらず伝わるように、なるべく落ち着いて、言葉を選んでゆっくり喋る。

「お、お前が……兵士であることに誇りを持っているのは知っている。
だが、本当は子供が欲しいのに、兵士である俺がお前を離さないために子供が作れないでいるのなら、申し訳ないと思った。
俺は兵士を辞められない。お前は俺を好いていてくれているとは思っているが……子供が欲しいなら、その……考えなければいけねえと……」
「ちょ、ちょっと待って。兵長、待ってください」

ナマエは俺の言葉を遮って止めた。

「聞いてください、兵長」

ナマエは改めて俺に向き直る。

「私、この間声が出なくなった時に、ローゼの病院の医師に勧められたんです。
結婚して家庭を作り、子供を産んだらどうかと。
子供を産み育てるということは、この壁の民、つまり納税者を産み育てるということで、それも人類のためになる尊いことだと」

ナマエはゆっくりと、言葉を選びながら俺に伝えた。

「医師が言ったことは真実だと思います。
事実、あのまま声の出ない状態では、兵士を続けることは難しかったでしょうし……子供を産み育てるという形の幸せも選択肢の一つとしてとても自然でした。
でも、その時思ったんです。
子供を産むこと自体は尊いことですが、誰の子供でも良いから欲しいわけではありません。きっと女なら誰でもそうでしょうが……。
この人の子供が欲しい、と思える人とでないと……子供など作れません」

言い終わると、みるみるナマエの顔が赤く染まっていく。
形の良い耳まで真っ赤になったところで、ナマエは再び俯いた。

――俺は、自惚れても良いのだろうか。

「そして」

しばらくナマエは俯いていたが、ぱっと顔を上げ、赤みの引き冷静になった顔で俺を見た。

「私は兵士です。兵長と同じように兵士であることに誇りを持っています。
だから、今すぐ子供を持つことは考えていません。
ウォール・マリアを奪還して……その後、何がおこるのかはわかりませんが、とにかく全部終わってこの世界が平和になることが、私の一番の願いです。この世界の子供達には、今生きている子も、これから生まれてくる子も、等しく全て平和な世の中で生きて欲しいと思っています」
「……」
「……おわかりいただけましたか? 兵長……」

黙っている俺に、不安そうに尋ねる。

「……ああ、わかった……わかった、ナマエ」

俺はナマエを抱きしめた。
抱きしめることで、自分の顔をナマエに見せないようにした。
きっとひどく緩んでいる。こんな隙だらけの顔は見せたくない。

――平和になった世の中で、いずれは――と考えて良いのだろうか。

地下街で生まれ、生き延び、地上に出れたと思ったら兵士長だ。
この手で何体もの巨人――つまり人間を屠り、挙句政変の立役者となった。立役者と言えば聞こえはいいが、やったことは中央憲兵の汚れ役とさほど変わらないことは自覚している。
数奇な人生を歩んできたもんだと思っているが、もしかしたら自分にも極々一般的な幸せの形が将来訪れるのかもしれないと、俺は期待してしまった。

失ってきた仲間に罪悪感を覚えないと言ったら嘘になる。
だが、俺はこの時確かに、将来手に入れられるかもしれない幸せの形に心を躍らせたのだ。



 * * *



調査兵団は、レイス卿領地の地下空間で発見した光る鉱石を光源として、シガンシナ区までの夜間順路の開拓を進めていた。
エネルギーを消費しない光源の登場は夜間順路開拓の生産性を著しく上昇させた。

また、新兵器として「雷槍」も開発された。
中央憲兵の隠し持っていた新技術を導入し、技術班が形にしたのだ。
この雷槍の破壊力は、鎧の巨人に対抗できる攻撃手段となり得るとハンジは息巻いている。

もう一つ。エレンの硬質化の力を使って作った溝に巨人の顔を突っ込ませ、そこへ丸太で巨人の項を損傷させるという、固定式の対巨人兵器が完成した。
これなら大砲や資源を消費せずに、もちろん人的資源も消費せずに、巨人を屠ることができるのである。
硬質化ばかり求められるエレンの身体については心配だったが、それでも調査兵団は大きな武器を複数手に入れることができたのだ。

「ほう……巨人の処刑台か。よくやってくれたな調査兵団」

ザックレーが報告書を見ながら発言した。
三兵団及びウォール教も交えた会議の場には、調査兵団からはエルヴィン、俺、ハンジ、ナマエが出席していた。

「これでウォール・マリア奪還作戦を決行する日が見えてきました。
例の新兵器の実用導入を含め、およそ一月以内にすべての準備が完了いたします」

エルヴィンの発言に議場は沸いた。

幾たびの硬質化実験に耐えたエレン、新兵器の開発を担当したハンジ、モブリットと技術班の働きは素晴らしかった。
それ以外の人間も、調査兵団は皆がウォール・マリア奪還の為に全力を尽くしてきた。その成果である。

ウォール・マリアの奪還は俺達の、人類の悲願だ。
それを叶える日が一月後に迫っている。それはめでたいことだ。

だが俺の頭には引っかかりがあった。
このままいけば、俺達は一月後にシガンシナ区に行くことになる。

――こいつを行かせるのか?

俺は隣のハンジのそのまた隣に座っているナマエの顔をちらりと見た。

ナマエも行かせるのか? シガンシナ区に?
新兵器もできた、穴を塞ぐ目途も立った、だがウォール・マリア奪還作戦が一筋縄でいくわけがないことは、俺にでもわかる。必ず困難な作戦になる。
エレン奪還の際に、エルヴィンは右腕を失った。
今度は、誰が右腕を失うか――いや、腕や足で済めば良い。命と共に帰って来れない可能性は、非常に高いのだ。

議場で、ナマエの美しい横顔はピクリとも動かない。
いつもと変わらず冷静で全く揺らぎを見せないのだ、こいつは。
会議でこの横顔を見ることができるのも命あっての物だ。
実際、議場でミケの顔を見ることは二度と叶わなくなってしまった。

ナマエが帰って来れなかったら、どうなる。

お前は子供が欲しいだろう?
平和な世の中で子供を産み、育てたいだろう?

――いや、これは詭弁だ。誤魔化しだ。
それを本当に欲しているのはお前じゃない。

俺だ。
俺は何よりお前と、お前との未来を失いたくないんだ。



それからの一か月は、時が過ぎるのが非常に早かった。
新兵器の導入、そして実践に向けての演習。他兵団からの編入してきた新兵の訓練。夜間順路の開拓も継続して行われた。
忙しければ忙しいほど、時が過ぎるのを早く感じるのが世の常だ。
だが忙しいのも時の経過を早く感じる原因の一つに間違いないが、それだけではないことに俺は気づいていた。

言いたいことがある。
だが言えずにずっと腹に留めている。

言いたいことを言おう言おうと思っているうちに日が暮れ、次の朝が来る。それが、時の経過を早く感じる一因であるとわかっていた。
一日が終わるたびに、今日も言えなかった、明日は言う、その翌日も、今日も言えなかった、明日こそ言う……その繰り返しで毎日が過ぎていく。

ナマエに、ウォール・マリア奪還作戦に参加するなと言いたかった。
だが言えなかった。それは、俺の個人的で勝手な都合だとわかっていたからだ。
人類の勝利を思えば、あいつは作戦に参加するべきであることは明白である。
新兵が多くなってしまった調査兵団の中で、あいつは貴重な歴戦の猛者と言えるだろう。
戦力として申し分ないだけでなく、冷静な思考ができ、判断力もある。部下をまとめ指示する力もある。
そんな兵士を重要な作戦に参加させないなど、整合性がないことは明らかだ。
だから言えずに、何日も何日も過ぎていった。

もう一人、言いたいことがある奴がいる。
そちらの方はナマエと違い、大義名分が立っているので言うことに疚しさを感じることはなかった。

とうとうウォール・マリア奪還作戦の決行が二日後に迫った日のことである。
俺はその疾しくない方から片付けようと試みた。




   

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