第二十六章 溺れる 2





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 * * *



「ゲホゲホゲホッゲホゲホッ」

池から引き上げられたナマエは、地面に横たわり、派手に咳き込んだ。
水も飲んでしまっているのだろう、ウエッという音と共に少し嘔吐したようだ。
はー、はー、という呼吸音は、まだ荒い。だが少しずつ整い始めた。
命に別状はなさそうだ。

「……てめえ! 泳げねえんじゃなかったのか!? なんでこんなとこで水遊びしてやがる!?」

俺はナマエに謝罪しに会いに来たはずなのに、横たわるナマエに怒鳴り散らした。

信じらんねえ、池で溺れるなんて。ガキじゃあるまいし。
これは一体どういう状況だ。

馬で外へ出たと思われるナマエの姿を求めてここに来てみれば、目に入ったのは池でもがいているナマエだった。
俺が来たから良かったようなものの、こんな夜にこんな町から遠い森、普通であれば誰も通らない。
ナマエが命を落としていてもおかしくなかった。
俺は自分の幸運に感謝したと同時に、紙一重でナマエを永遠に失うことを思って、背筋がぞっとした。

(兵長、なんでここに……?)

一しきり咳き込みえずいたナマエは、ぐったりして地面に横たわっていたが、ゆっくり起き上がりながら俺を見上げてそう言った。
正確には「言った」とは言えない。唇からは無声音しか発せられず、俺は唇の動きを読んだに過ぎない。

本当に声が出ないのか。
今までナマエを避けていたが故に、ナマエの唇が動いているのに音が出ないという状況を今初めて目の当たりにした。
ショックだった。大きな罪悪感が肩に重く圧し掛かる。

俺は片膝を付き、ようやくのことで地面から身体を起こしているナマエを目線を合わせた。

「お前に……謝らなければならねえと……」

俺がそうゆっくりと口を開いた時だった。

「……何でっ! 助けたんですかっ!?」

ナマエの口から声が出た。

その声は、俺の記憶の中にあるナマエの涼やかな声とは全く違う、ガラガラのしわがれた声だった。
だが、出た。きちんと意味も聞き取れる。

ナマエは自分の声が出たことに気づいているのかいないのかはわからない。
だが、わあああんと子供のように泣きじゃくり、かなり錯乱した様子だ。
俺は泣き喚くナマエに、胸を拳でドンドンと叩かれる。
ナマエは掠れ声で非難の言葉を捲し立てた。

「助けなくて、良かったのに! 死ぬチャンスだったのに!
私は、兵長が傍にいないなら生きていけない!
生きていくのが辛いの! もう嫌なの!!」

思いもよらなかった言葉に思わず目を見開いた。
こんなふうに泣きながら、辛い、嫌だと喚くナマエを初めて見た。

「助けたんなら、責任取ってくださいよ! 傍に置いてくださいよ!
兵長が私の事をもう愛してないのはわかってる、それでもいい! どんな形でもいいから、傍に置いて! 
この声もなんとか治しますから! 部下として、もっともっと優秀になりますから……っ! 必要としてもらえるように、なりますからぁ……」

最後の方はほとんど泣き声だった。
俺の胸をドンドンと叩いていた拳はだんだんと弱々しくなり、最後は震える拳が俺の胸にトンと置かれただけだった。

頭からびっしょり濡れているナマエは、顔ももちろんびしょびしょに濡れていたが、瞳からは大粒の涙が絶え間なく流れ、頬に新たな水跡を作っている。
ひっくひっくとしゃくり上げる様は、本当にガキの様だった。

ナマエ。
ナマエ。

全く想定外だったナマエの言葉に、俺は震えた。
震えたまま、がっしりとびしょびしょのナマエを抱きしめる。

『あの子が今どんな気持ちでいるかなんて、きちんと向かい合わなければわからないだろ』

ハンジ、お前の言うとおりだ。
てっきり、憎まれて軽蔑されていると――もうナマエに触れることなど二度と叶わないだろうと思っていた。

「ナマエ、聞け」

俺はナマエをきつく抱きしめて、顔を見せないようにしながら言った。
気を抜けば、俺の顔も歪んでしまいそうだった。

俺も自分の気持ちを言葉に出そう。なるべく、素直に。
伝えたいことをきちんと伝えなければいけない。

ナマエはしゃくりあげながらも、俺の声に耳を傾けている。

「俺は、お前が必要だから傍に置いておくんじゃない」

ナマエを抱きしめる腕に、更に力が入った。

「お前を愛してるから、俺が傍にいてえんだ」

ナマエは、目を見開いて俺を見上げた。
美しい顔は池の水と涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
そんな顔も愛しい。こいつの全てが愛しい。

「……まだ、私のことを愛してくれるんですか……?」

ナマエの声はやはりしわがれていて小さかったが、しっかりと聞き取れた。

「約束した。命が尽きるまで、命が尽きても、お前を想っている。
今だってその気持ちに変わりはねえ。
お前がそれを許してくれるなら、だが……」

ナマエはまた大きく顔を歪ませ、涙をボロボロと流した。
わああんと泣きながら、コクコクと何度も頷いて、俺の胸に顔を埋めた。

やっと、大きなすれ違いが終わりを迎えた。
俺は空を見上げ、まるで三年前のあの日とそっくりな満月だと、その時初めて気が付いたのだった。



三年前と同じように焚火を作った。
そしてこれも三年前と同じようにだが、ナマエの服を全部脱がせ、絞らせた。
前と違うのは、絞った服をまたナマエが着ているのではなく、その辺から拾ってきた枝に服を掛け火の前で乾かしているというところだ。
着る物が無くなったナマエは今、全裸で俺の胡坐の上に座り、後ろから抱きしめられている。
俺も池に入り服が濡れてはいたが、辛うじてジャケットだけ脱いで池に入っていたのでジャケットは無事だ。
上半身は肌の上にそのままジャケットを羽織った。下半身は、ズボンもその下の下着もびしょびしょだったが、男性器を露出させるのはなんだか気が引けて(裸のナマエに反応させない自信がなかったとも言う)下着だけ履いているという間抜けな格好だ。
ナマエも俺も濡れた身体は、俺のシャツを脱いで絞ったもので適当に拭いた。タオルなんてないからこれしか方法が無い。十分とは言えないが、とりあえずの応急処置だ。

もう一度ナマエの肌に触れることができる喜びを噛みしめながら、俺は後ろからナマエを抱きすくめたまま、オレンジ色に揺れる火を見ていた。

「……お前、声出たな。まだ掠れているが、聞き取りはできる。良かった、本当に……」

そう言うと、ナマエはこくりと頷いた。

ナマエの肌には、まだ傷跡が残っていた。
自分でつけた物なのに、全身のそれが痛々しくて目を背けそうになる。
俺は首筋の傷跡の一つに指をなぞらせながら言った。

「すまなかった、本当に……痛かっただろう。こんなことをするつもりじゃなかった。
ただの……嫉妬だ。みっともねえが」

ナマエは後ろを振り向き、ふるふると首を横に振る。

「いえ……元々は私が原因です。ごめんなさい」

ナマエの口から出た掠れ声は萎れ、ナマエ自身も俯き、申し訳なさそうな顔をした。

「謝るな」

俺は強い口調で、ナマエに言う。

「お前がしたことが間違っているとは思ってねえ。
俺だって、あの政変で散々自分の手を汚したんだ。部下にも汚させた。
まあ……俺が手を汚したのはこれが初めてじゃねえが。地下にいたガキの頃から、生きるために何でもやってきたからな。
お前は……自分の任務を果たすための最善を尽くしただけだ」

ナマエはゆっくりと、前の火に向けて顔を戻した。そして小さな声を出す。

「もう……兵長には許してもらえないと思っていました」
「許すも許さないもねえ。……いや、そうだな、許さないことにする」

ナマエは顔を上げ、再び振り返り俺の方を見た。
瞳が一抹の不安に揺れている。

「俺はお前を一生許さない。
だからお前も、俺のしたことを一生許すな。
俺は一生かけてお前の傍で償う。お前も一生俺の傍にいろ」

しばらくの沈黙の後、はいと掠れた返事と共に、ナマエは俺にしがみついた。

こいつと俺を一生繋いでくれるなら、罪も罰も喜んで受け入れる。
幸せな贖罪だった。



翌日、ナマエは病院に行き、失声症は治ったと診断された。
今でもまだ声は掠れてはいるが、昨晩より幾分かマシなようだ。これからどんどん通常の声に戻っていくらしい。

ナマエはあと数日残っていた休暇の返上をエルヴィンに申し入れ、通常業務に戻った。
屋外訓練場で声を出すナマエは、生き生きとして嬉しそうだ。その様子を俺が遠目から見ていると、ハンジが傍にやって来る。

「リーヴァイっ」

ハンジは俺の肩にポンと手を置いたが、俺はその呼びかけに俺は応答せず、ちらりと目をやっただけですぐに視線をナマエに戻す。

ナマエは以前のように、部下に向かってわあわあ怒鳴りながら指導している。
まだ声帯に無茶をさせないほうが良いのではと心配になるが、あんな生き生きとした顔を見ると、指導を止めるのも忍びない。

「ナマエ、声出たんだってね」
「ああ」

簡潔に返事すると、ハンジはナマエに向けていた目をこちらに向け言った。

「ねえ、どうやって治したの?」
「……」

しばらく沈黙していたが、ねえってばーとしつこく聞いてくるハンジに根負けした。

「俺は何もしていない」
「ええ? そんなわけないでしょ?」
「……あいつが勝手に」
「え?」
「あいつが溺れて、それで治った」
「……は?」

ハンジは怪訝そうな声を出す。
俺はハンジをその場に置き去りにし、踵を返して兵舎へ戻ろうと歩き始めた。

「まあ、俺は三年前から……いや、もっと前からとっくに溺れていたんだがな」
「……はあ?」

わけがわからないと言った風のハンジをおいて、俺は兵舎へと歩みを進めたのだった。





   

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