第二十六章 溺れる 2





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 * * *



病院では予定通り発声練習を行った。
結論から言って、それは私を絶望させるものだった。

医師からは、まず口を閉じたままの状態でハミングをしてみるよう指示され試みたが、できないのだ、ハミングすら。何度も挑戦したが、全くと言っていいほど音が出なかった。
ハミングができるようになったら、それからやっと発声の練習らしい。マーとかメーとか、赤ちゃんが出すような比較的発音しやすい音から練習するそうだ。
道のりが遠すぎる。いつ喋れるようになるのか。私の表情は暗かっただろう。

「分隊長殿……何度も言いますが、焦るのは良くありません」

老年の医師は私の方をみて気遣わしげにそう言う。

これが焦らずにいられるか!? 
早く声を戻さなければ、私は兵士でいられなくなる。

「今日は……発声練習はここまでにしましょう」

医師はそう言って、机上でのカルテの記入を止め、身体をこちらに向け私に向き合った。

「分隊長殿、一旦発声練習のことは置いておいて、あなたの幸せを第一に考えてみましょう」

医師は穏やかな声と視線で私に語りかける。

「例えばですが、声が出なくても幸せな人生を送ることは可能です。
仮に声がこのまま出なかった場合、兵士を続けるのは難しいでしょう。
でもどうでしょう、兵士を辞めても、穏やかな家庭を築き、子供を産み育てる。それは可能です。
それも一つの幸せの形でしょうし、子孫を産み育てるということはこの壁の民を育てることだ。納税者となり国を支える、国民を育てることです。
それはとても尊い。あなたはまだ若い。それが可能なのです」

医師の穏やかな視線は、私をしっかりと見据え続けている。

「家庭を持ち子を育てることが幸せの全てだと申しているのではありません。でも、兵士でいることが幸せの全てだとも思っていただきたくないのです。
分隊長殿は今、兵士でありたいがために、とても焦っていらっしゃる。それは恐らく治療にも良い影響を及ぼさないでしょう。」

年配の医師が、まだ若い私を気遣ってそのように言っていることは良くわかった。
この人はこの人なりに、私の将来を慮って言ってくれているのだろう。
だが、今私が兵団を去り、どこか他の地で全く違う職業に就き、誰か適齢期の男性と出会い結婚し、子を授かる――それが幸せだとはどうしても思えなかった。

子を授かる、なんて……女なら誰だってそうだと思うが、誰の子でもいいから子供が欲しいわけではない。
誰の子供なら授かりたいか、と考えそうになって、慌てて思考をそこで止めた。

「分隊長殿、あなたが兵士であることに誇りをもっていらっしゃるのはよく存じております。それは素晴らしいことだ。
……誇りの他に、何か兵士に拘る理由がおありですか?」

ある。理由は明確にわかっている。
だがこの医師にそれを打ち明けることはもちろんせず、私は俯くままだった。



病院から戻った私は、もう一度絶望することになる。
兵舎へ戻ったその足で執務室へ向かった私は、机上の仕事を片付け始めた。
山のようになっていた机上の書類はどんどんと処理され、夜には終わってしまったのだ。あれだけたくさんあったのに。
当然と言えば当然だ。いつもは、訓練や会議の合間に書類仕事を片付けている。
それが、書類仕事だけを集中してやればこんなものなのだろう。

私の仕事は無くなってしまった。
声が出なくても、書類仕事や事務作業で役に立てるのではないか、そうすれば兵団にいられるのではないかと淡い期待を持っていたのだが、それは甘い考えだった。分隊長権限で処理する書類仕事など、たかが知れている。
兵団にいられる可能性がまた一つ消えた。



夜、私は兵服のまま執務室を出て、外の風に当たった。

あと何回この兵服に袖を通せるかわからない。
休暇が終わったら、辞表を書かなくてはいけないだろう。そう思ったら、自由の翼が刺繍された兵服が愛しくて愛しくて仕方ない。

月明かりの下、私が足を運んだのは厩舎だ。愛馬をそっと撫でる。

(ねえ……お散歩しよう? あなたにもあと何回乗れるかわからない。あなたは兵団の馬だから、私が辞める時はお別れの時だね……)

愛馬の首から背中にかけて縋りつくと、ブルンと鼻息で答えた。
調査兵団に入って八年だ。壁内も壁外もずっと一緒に歩んできたこの愛馬は、私の声が出なかろうと心を読んでくれた。
私は愛馬に跨り、兵舎を出てゆっくりと走り出した。



馬を走らせながら、以前にもこんなことがあったと思い出していた。
同じような月明かりの夜。夜間の外出届を出さず、愛馬に跨り兵舎を抜け出したことがあった。

(あの時も、ここだった……)

だいぶ馬を走らせた私は、小さな森の入り口の池で馬を止めた。



もう三年も前になるのか。
あの時は、求婚してきた貴族に嫁ぐか兵団に残るかで悩んでいた。
来てくれたのは、リヴァイ兵長だった。
あの時、この池に落とされたんだっけ……。
ふふ、と声は出ないが無声音で笑う。

兵長、私を池に落として。二人でびしょびしょになって。
なんだこの人、何するんだって……思って……。
でも、幸せだった。あの時、兵長が私へ想いを打ち明けてくれたのだ。

私の両目から涙がぼろっとこぼれた。
誰もいないが、兵舎に帰った時に目を腫らしていたら良くない。私はぐいっと兵服の袖で涙を拭い、それ以上涙をこぼさないよう尽力した。

仕方ない、誰も悪くない。
自分だけが悪い。全て自分が招いたことだ。
兵長に愛されなくなってしまったことも、自分の行いが原因だ。声が出なくなったのも、自分の精神の脆弱さが原因だ。
あの牢の中で思ったではないか。リヴァイ兵長が無事ならそれでいい、そのためなら何でもすると。
幸い、今兵長は無事だ。それで良いじゃないか。良いとしなくてはならない。
奥歯がうずうずと、疼く。
油断するとまた涙がこぼれてしまいそうで、私は奥歯を噛みしめた。

ふと、私は立ち上がり、池に向かって近づく。
水面に反射している満月が綺麗だ。

あの晩もこんな満月だった。同じように水面に映っていたと記憶している。
水面の満月は、私を池へ誘うようにゆらゆらと揺らめいた。

――綺麗だな……。

私はブーツを脱ぎズボンをたくし上げると、ゆっくりと池に向かって歩みを進めた。
そのまま片足ずつ、池の中に入れた。ぽちゃり、と小さな音がして、水面に波紋が広がる。

波紋は美しい月をキラキラとした数多の欠片に砕いた。
思わず、欠片になった水面の月に向かって手を伸ばす。
美しい物に触れたいなんてまるで子供のような行動だな、と頭の片隅でちらりと思った。私にも童心がまだ残っていたかと失笑する。
水面の月に手が届かないため、もう少し、もう少し、とゆっくりを足を進める。
ああ、もう少しでたくし上げたズボンに水面が追い付いてしまう、この辺で止めておこう――そう思った時だった。

池の底面が急に深くなった。
それに気づかず歩みを進めていた私は、完全に足を取られ水中で体勢を崩す。

浅いところだけを歩いているつもりだった私は、急に深くなった水底で足を着くことはもちろんできず、頭から足のつま先まで、無様にも水の中に沈み込んだ。
突然水中に引きずり込まれたような形になり、息が出来ず、水中で思わず口を開けてしまい、その口内に池の水が勢いよく入ってきた。
呼吸困難に陥る。つまり有体に言って、溺れた。

――嘘、これ、やばい。
ゴボゴボという音と共に、自分の体内の空気が水泡になって消えていく。
私泳げないんだってば。

思わぬ展開に慌てた。
だが慌てれば慌てるほど、私の両手は虚しく水中をかくだけで、顔を水面から出すことができない。

息が苦しい。ゴボボッと一際大きな音がして、大量の水泡が水面に向かって上って行くのが見えた。

――ああ、死ぬかも。
そう思った。

不思議と、生への執着がなかった。
壁外で散った仲間達のことを思い、自ら命を断つことはしていけないと何度も思ってきたのに。
今、私は生きることを簡単に手放そうとしている。

いいじゃないか、これで。
巨人に喰われるのではなく、溺死とは……何とも間抜けだが。
兵士として生きることができないなら、兵長の傍にいられないなら、もうこのまま水に沈んでもいい気がする。
だって、医師の言う「別の幸せ」は、見つけられそうにない。
私の幸せには、どうしても兵長が必要なのだ。
きっと事故死として処理されるのだろう。遺体は水の中に沈んで、魚の餌になる。
それでもいい。これでいい。
先に死んだ仲間に申し訳が立たないとか、そういう意識は完全に頭の外に追いやられていた。

「ナマエ、来るな!」
「ナマエだめだ!!」
「ナマエさん! しっかり!!」

声がする。ああ……前にもこういうこと、あった。確か、前は水責めをされていた時……。
皆、また来てくれたんだね? ナナバさん、ミケさん、ペトラ……。

「ナマエ、ふざけないで!? あなたはまだ生きられる!」

もう一つ声がする。……アメリーだ。アメリーが怒っている。
でも、ごめん、皆……私もう、生きていくのが辛い。

兵長の心が私から離れたの。傍で姿を見ることさえ叶わなくなるの。
やっぱり、あの人と離れて生きていくのは辛い。私には耐えられない。
大好きなの、あの人のことが。
あの人のいない人生を生きていく自信がないの。

「ナマエ! だめ!!」

皆の声がぼやけていく。

ごめんなさい。こんなの裏切りだよね。
でももう、いっぱい裏切った。
兵長も裏切った、ペトラも裏切った。
自分自身にもいっぱい嘘をついて、裏切ってきたんだ。
最後は本音を通させてよ。

もう嫌なんだ。
この先あの人のいない人生を生きるのは、私には耐えられないの。
いっそ死にたいくらいに耐えられないの。

「ナマエ! しっかり!!」
「ナマエさん! だめ!!」

ごめんなさい。もうそっちに行かせて。

「おい! ナマエ!」

……今までと違う声がする。誰?
男の人の……ミケさんじゃない。誰……ゲルガーさん? いや、違う……。

「おい!!」

この声、知ってる。リヴァイ兵長の声だ。

……え!? 兵長!?

「おい! ナマエ!! しっかりしろ!!」

ザバアッという派手な水音と共に、私は池から引き上げられた。




   

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