第二十六章 溺れる 2
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早朝で開いたばかりの浴場へ向かい、誰も来ないうちにさっさと身体を洗う。
全身の傷が癒えるまで、ゆっくり湯船に浸かることはできないだろう。浴場が空いた直後の早朝か、閉まる直前の深夜か、どちらか人がほとんどいない時間帯を狙ってこっそり入るしかない。
部屋に戻り、クローゼットを開けた。
タートルネックのカットソーを数枚引っ張り出す。去年の秋から冬にかけて着ていたものだ。
今の季節に着るにはちょっと季節外れで暑苦しいが、背に腹は代えられない。首の傷や締め痕を人に晒すわけにはいかない。
スカーフやストールなんかを巻くことも考えたが、訓練中に落としたりする可能性があるものより、タートルネックの方がより安全だろう。
部屋を出てからの私は、意識して笑顔を浮かべるようにした。気を抜くとすぐに暗い顔になってしまいそうだったからだ。
朝食もハンジさんと一緒にもりもり食べた。ハンジさんは私の服を見ても何も言わなかった。触れないようにしてくれているのがありがたくて、私も何事もなかったかのように振る舞う。
久々の訓練もいつも通り、いや、いつもより意識的に張り切って進めた。
樹上で抜剣して仁王立ちになり、部下に指示を出す。
「次! 飛べ!」
私の声を合図に、第三分隊の部下達が一人ずつ順に立体機動で飛び上がり、林の中を進んで行った。
遅い。速度が全然足りない。
「遅いわよ! アンカーを射出させるタイミングが後手後手になっている! 次! 飛べ!」
次は、体幹の鍛え方が甘いのだろうか、身体が揺らいでいる。
「重心が安定していないわよ! 次! 飛べ!」
私に指導されている彼らが、特別出来が悪いわけではない。彼らは先日駐屯兵団から編入してきたばかりの新参者だ。
第五十七回壁外調査からというもの、色々ありすぎた。
ストヘス区での女型捕獲作戦、ウォール・ローゼ内地での戦闘、ライナーとベルトルトに捕らわれたエレンの奪還、フリッツ王制の打倒、オルブド区での防衛戦……。
その度に多数の兵が死んだ。自分が生き残っているのも奇跡だ。古参のダミアン、エーリヒ、カールが三人揃って残っているのも奇跡だと思っている。
新兵や若手ももちろんたくさん死んだが、今、調査兵団には力のあるベテラン兵がほとんどいなくなってしまった。
今の兵団には以前のような戦力はない。そもそも人数が足りなさすぎる。
急遽駐屯兵団や憲兵団からの編入を募集し、随時入団させているというわけだ。
とにかく今いる兵士の力を少しでも高め、一人でも多くの「使える兵士」を排出するのが急務だった。
「次! 飛べ!」
私は樹上から声を出し続けた。
(次! 飛べ!)
突然だった。
今までと同じように、そう声を出したつもりが、出ていないようだ。
あれ、おかしい、と思いもう一度声を張る。
(次! 飛べ!)
やはり声が出ない。
何で? さっきまで普通に出ていたじゃないか。
体調が悪いわけではない、風邪を引いたとかそんなんじゃない。
そもそも、ほぼ全くと言っていいほど声が出ないのだ。
ひどい風邪を引いたってもう少し声は出る。自分でも聞き取れないような小さな掠れた音しか出ないのだ。無論、言語の体を為していない。
声帯に異常でも発生したのだろうか。それともどこか他に悪いところがあるのだろうか。
いつまでも指示が出ないことを訝しんで、ダミアン、エーリヒ、カールがこちらへ飛んできた。
「ナマエ分隊長? どうされました?」
(声が出ないの)
「は?」
(声が、出ないの)
音は無かったが、私の口の動きで意図は伝わったようだ。
「……えっ!?」
三人は揃って声を上げた。
訓練はカールに任せ、私はダミアンに連れられて医務室へやって来た。
一人で行けるとジェスチャーで主張したのだが(難しかった)、ダミアンはそれを許さなかった。ぴったりと私の後ろに貼りついている。
「ナマエ分隊長……」
医師は背もたれから背を起こし、カルテを見ながら言いにくそうに口を開いた。
「分隊長ならご覧になったことがあるんじゃないですか? こういう症状」
そう言われて、記憶を掘り起こした。
ここ最近は見ていなかったが……確かに、以前……。
「失声症です。恐らく心因性の」
ここ数年ではお目にかかっていなかったが、以前見たことがある。
壁外調査で心的外傷を負った兵士が、突然声が出なくなることがあった。発声器官に問題はないのに、突然喋ることができなくなるのだ。
「心因性……」
ダミアンは苦虫を噛み潰したような顔をしてつぶやいた。
彼は「心因」に心当たりがあるためだろう。緊急避妊薬を手配したダミアンは、潜入先のクヴァント家で何があったのかを知っている。
「大きな病院で診察してもらった方が良いでしょう。診断結果は変わらないでしょうが、今後の治療を相談する必要がある」
医師はそう言って、紹介状を書き始めた。私は当然だが声も出ず、ただ座っているだけだ。
「分隊長、エルヴィン団長に報告します。いいですね? リヴァイ兵長にも」
私はぎょっとし、ダミアンを見て首を横に振る。
「だめです、報告します。一人でまた無茶されたら俺が堪りません」
(兵長はだめ)
私の唇を読んだダミアンは察し、妥協案を出した。
「わかりました。じゃあ団長とハンジさんに報告します」
その足で団長室とハンジさんの執務室へ連れて行かれた私は、すぐにトロスト区の大きな病院へ向かわせられた。付添はハンジさんだ。
年配の医師は兵舎の医師からの紹介状を読み、私を診察した。
「まあ……兵団の先生の言うとおりで間違いないです。心因性失声症ですね。
喉頭にねえ、異常がないんですよ。炎症も、もちろん麻痺も腫瘍もない。心理的ショックや過度のストレスが原因です」
「ストレス……」
ハンジさんは心配そうな声色で顎に手をやり俯いた。
「……その、心当たり……おありですよね? 分隊長殿」
医師は言いにくそうに私を見やる。
医師が示唆しているのは、私の全身の傷と首を絞めた痕のことだろう。先ほど診察の際に上半身は裸になった。多分暴行されたと思っている。
(違う、これは何ともないんです、合意の上なんです)
そう言ったが、もちろん声にはならない。届かなかった。
「まあ……それだけじゃなくて、我々にもこの数か月色々ありましたから……」
ハンジさんが気遣わしげな声で、医師にそう言った。
「焦らないでくださいね、これは治る可能性のある症状ですから。気長に治療しましょう。
投薬治療はできません。今の医療では、失声症を治せる薬はないんですよ。
発声訓練と……あと一番の治療は、原因となった心理的要因の解消ですね。つまり、心が元気になれば治る可能性はあります」
(治る可能性って……治らない可能性もあるってことですか!?)
私はそう言ったつもりだが届かないので、与えられたノートで筆談した。
「……そうですね、何年経っても治癒できない患者も少なからずいます。
でも、焦りが一番良くありませんから……気長にいきましょう、分隊長殿」
『困ります、すぐに治せないんですか?』
私はノートに殴り書いた。
「すぐに……と言われましても、こればかりは……とりあえず、明日から通ってください。発声訓練をしていきましょう。訓練しているうちに、ある日突然治ったりすることもあるんですよ」
気長に? そんなの無理だ。
クーデター直後、新政権が生まれたばかりのこの時に、そして何より、一刻も早いウォール・マリア奪還に向けて準備を進めているこの時に。
これじゃあ兵士としての役割すら果たせないではないか。
帰り道、兵舎へ向かって歩きながら、ハンジさんは明るい声で励ましてくれた。
「治る可能性もあるって言ってたでしょ? 大丈夫大丈夫! 焦るのが良くないって医者も言ってるんだしさ、明日から少し休んだら? 長期休暇とかさ。
今まで色々ありすぎたもん、少しゆっくりしたらいいよ」
ハンジさんに悪気がないのはわかっている。
ただ今休めと言われて、はい休みますとは言えない。皆がこんなに忙しい時に。
だいたい、色々ありすぎたのは皆一緒だ。
一〇四期だって声が出なくなった子なんていないのに、なぜベテランの私が。まるで自分のメンタルの脆弱性を知らしめられているようで辛い。編入してきた新兵達にも知られたら示しがつかない。
思い出した。
以前、失声症にかかった団員達のことだ。
皆、退団していった。いつ治るかわからない状況で兵士は続けられないという判断だったのだろう。
至極真っ当な判断だと思う。
声が出ない兵士は兵士の役割を十分には果たせない。それに、新政権が生まれ、また世論も変わり、今までより調査兵団に対する風当たりが強くないとはいえ、我々が貧乏兵団であることには変わりがない。
兵士の役割を果たせない人間に給料を払う余裕はないはずだ。
私は口を開かず、前だけを見て兵舎への道を歩いた。
隣のハンジさんから気遣わしげな気配を感じたが、そちらは見なかった。