森宮莉子は突き進む。 | ナノ
聴覚は最後まで残ると言われています。
絹枝さんのストーカー行為が鳴りを潜め、やっと静かに学業に専念できると思っていたら、あっという間に前期試験がやってきて、息を吐く暇がなかった。
今回も成績上位を維持できて、追試もなく安心していたところに長めの夏休みが訪れた。
今年も久家くんから合宿旅行に誘われたが、去年の部外者アウェイ感を思い出すと気分が乗らず、丁重にお断りした。
あの暴力的な弓山さんは卒業してもういないと久家くんが説得してきたが、学業とバイトを優先したいのだと突っぱねるとしぶしぶ引き下がっていた。
私は冬休み同様、みっちり家庭教師のバイトを入れている。
なんで家庭教師のバイトをここまで頑張るかって言われると、今度は個人で学会に遠征しようと考えているからだ。遠方への交通費や宿泊費は一介の大学生には大きすぎる出費なのだ。それにこれからも何かと入用になる。なので稼げるうちに稼いでおきたいというわけである。
そんなわけで家庭教師のバイトと自分の学習、語学レッスンで今年の夏休みは過ぎていった。
『莉子先輩聞いてくださいよ、彼氏がぁぁ』
「高野さんや、先輩は学業とバイトで手いっぱいだから、愚痴なら他のお友達に聞いてもらいなさい」
夏休みもあと数日で終わるという日に、別の学部の後輩から珍しく連絡が来たので何かあったのかと思ったら、彼氏に対する愚痴だった。
すべてを聞く前に拒否の姿勢を示すと、彼女は半泣き声で『つめたいぃぃ』と騒いでいた。
恋愛ごとを彼氏のいない私に相談する選択が誤りなんだよ。
『莉子先輩は夏休み何していたんですかぁ?』
鼻声の高野さんからの問いかけに、私は座っていたデスクチェアの背もたれに寄りかかって背筋を伸ばした。直前まで勉強していたので肩が凝っているようだ。
「家庭教師のバイトと試験勉強と、リモート語学レッスンかな」
『真面目ですかぁぁ? 女子大生なのにそれでいいんですかぁ?』
大学生なんだから勉強しているのが当たり前だろう。
私は電波の向こう側にいる後輩に顔をしかめた。
「私はこれでも医学生なんだよ。今年は大切な試験もあるから忙しいの。…話がそれだけなら切るね」
『えっちょっと莉子せんぱ』
高野さんの返事の途中だがブチ切らせて頂いた。
あいにく私は暇ではない。他の暇そうなお友達を捕まえて好きなだけ長電話したらいい。
他人の恋愛話を聞いている暇はない。
2学期が始まればまた小テストが毎週、毎日のように実施されるし、今年は大切な仮免試験もある。
1つでも落としたら私は特待生では無くなってしまう。
私には余所見する余裕はないのである。
◇◆◇
「莉子、久しぶりだな」
新学期が始まり、今日からまた忙しい日々が再開されるぞと気合十分で大学構内を歩いていると、久家くんが私を呼び止めた。
「おぉ久家くん久しぶり。2か月ぶりかな? ……あれ、眼鏡替えた?」
「前の眼鏡は錆びて壊れた。見えなくて不安だからって着けたまま温泉に入ったのがまずかったらしい」
「あはは、なにしてんのー」
定期的な連絡を交わしていたけど、直接顔を合わせるのは本当に久しぶりだ。日帰りで一緒に出掛けようって誘われていたけど、私の都合が合わなくて結局合わず仕舞いだったもんね。
彼はいつも掛けている眼鏡のフレームを新調したようで少し印象が変わった。サークルの合宿で日焼けしたのもあって、夏休み前とは印象が大分変わる。
イケメンなのは変わらないんだけど……いつもにも増して華やいで見える。
「ところで、莉子はうちの祖母と交通事故現場に居合わせたんだろう?」
「うん、そんなこともあったね。何か月も前のことだけど」
「警察伝手で祖母へ連絡があったんだ。莉子が応急処置を施した相手が少し前に退院されたらしい」
あれから夏休みを挟んだのですっかり遠い記憶になっていた。
衝突事故で大怪我を負ったあの男性がどうなったか気になっていたけど、それを知る術もなく。その口ぶりだとご本人が無事なようでほっとした。
それにしても絹枝さんはどこまで孫に話しているんだか……
「当事者本人とそのご家族が直接お礼を言いたいそうだ。場所は祖母がセッティングするからって言っているんだが、会ってみないか?」
「んー…でも、当たり前のことしただけだし」
「いや、こういったことはありがたく受け取っておくべきだ。莉子がしたことは立派な救命行為なのだから」
お礼なんて大げさな。私は初期対応をしただけで、後のことは警察と医療従事者に丸投げした。
だからお礼を辞退しようとしたら久家くんがそれを止めた。相手方はきっと直接顔を見てお礼を言いたいだろうからって。
そう言われちゃ仕方ないな
彼のおばあさんがうちの家族や職場までストーカーしていることに私が腹を立ててなかったら、あの事故現場に遭遇する可能性も低かっただろう。あの事故は何かの運命に引き寄せられたのだろうか。
「祖母はすっかり莉子のことを気に入ったみたいだ」
久家くんはなんだか自分の事の様に嬉しそうに微笑んでいた。
本当に本当に嬉しそうだったので私は何も返せずに黙り込んでしまった。
その笑顔を直視した瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた気がした。なんだろうと思って心臓の辺りを擦ってみたけど、原因はわからなかった。
絹枝さんが間に入ってセッティングした場は個室のあるレストランだった。店員さんに案内される形で中に入ると、約束の時間前だというのにもうすでに先方は待機していた。
私を見るなりガタリと席から立ち上がった男性が、あの時私が応急処置した相手なのだろう。顔面血だらけの印象が強すぎて顔を見てもぴんと来なかったけど、怪我から回復した今の元気そうな様子を見れて安心できた。
「あなたが…あの時はろくにお礼も言えずに」
「本当にありがとうございます」
「いえいえ、お顔を上げられてください。私は当然のことをしたまでですから」
同席している奥さんらしき人と一緒に頭を下げてくるものだから、私は慌てて止める。
改めてお礼を言われて妙に照れ臭かった。
「お店の人に大学生の女の子が好んで使いそうなものを聞いて購入しました。気に入ってくれるといいけど…」
あの時破いたブラウスと応急処置で使用した折りたたみ傘の代わりを贈られた私はぶんぶんと首を横に振った。
「そんな悪いです」
「いえいえ、受け取ってくれなきゃ持ち腐れになりますから」
自分たちが使えるものじゃないからと言われて押し付けられるように渡された紙袋。それは百貨店のものだった。
自分が持ってたものより高そうなものを貰ってしまったようだ。1,980円のブラウスと700円の折りたたみ傘だったからいいのに…。
「意識がもうろうとしている中で、あなたの呼びかけはしっかり届いていました」
死が近づき意識が危うくなった際、最後まで機能している五感は聴覚だという。
脳死と判定された患者さんが奇跡的な回復を見せた時、『眠っている間、周りの会話が聞こえていた』と言っていたという話もあるのだ。
ほかにも手術で使用する麻酔の効きが悪くて、手術真っ最中の医療従事者の会話が聞こえていたなんてこともある。
応急処置のために呼びかけをしたのは、講義や実習で教えられたことを反復で行っていたに過ぎないのだが、私の声掛けが不安を軽くしてくれたと言われると感極まってしまう。
「こんなことでしかお礼の気持ちを伝えきれないのが惜しいけど、助けてくれて本当にありがとう」
今回の事故での応急処置は善意の行為のため金銭は一切発生しない。
この方たちはそれがすっきりしないようで、こうして私に改めてお礼を伝えたかったのだという。
「主人を担当した病院の先生が応急処置のこと褒めてましたよ……処置したのは優秀な医学生だろうって仰っていました」
奥さんから言われたのはそんな言葉だった。
目指している医者の先生から陰で褒められた事を知らされた私は照れくさいのと、誇らしい気持ちでニヤニヤ笑ってしまった。
いやぁ、それほどでもぉ……
「えぇ、そうでしょう、なんと言っても莉子さんは旧帝大医学部の特待生ですから」
私は横に座る老婦人を見た。
彼女は鼻高々と言わんばかりにドヤ顔をしていた。
なぜ絹枝さんが威張るんだ。赤の他人の私が褒められただけだぞ。あなたがドヤる必要はないと思うんだが。
「道理で! 将来有望なお医者様候補なんですね!」
「応援してますね」
しかし目の前に座るご夫妻はそれを気にした様子もない。
……もしかして、私と絹枝さん。孫と祖母な関係だと誤解されてない?
←
|
→
[ 83/107 ]
しおりを挟む
[back]
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -