リナリアの幻想 | ナノ
慈悲深き女神の娘
大神殿のあるその街は大巫女様の目が届いている範囲で、ウルスラさんの住む場所には訳ありの人が多く住んでいるのだという。
例えば暴力を振るう夫から逃げてきた女性や、病気で先が短いほぼ寝たきりの人、障害を抱える人など何かと立場が弱く庇護を必要としている人たちが静かに暮らしている。
なぜそんな人たちが集まるのかといえば、それは大巫女様が主導で行う慈善活動が理由である。彼女は孤児院運営だけでなく、幅広く活動していらっしゃるそうなのだ。
この街は大巫女様の管轄内。なにか騒ぎがあれば大巫女様に従う神殿の騎士達が駆けつけてくれるのだという。
そしてこの街の住人であるウルスラさんはといえば、詳しい事情を聞くのは失礼だと思って何も聞いていないけど──彼女はひどく男性を恐れていた。
よぼよぼで非力なご老人や病人、はたまた年端も行かぬ男児であればまだ大丈夫だけど、自分より体の大きな男性を見ると怯え、過剰に避けていた。──男性側がなにかしたわけでもないのに、異常に怯えているのだ。
それを見た私は、彼女がなぜ男性を恐れるか、子どもが産めなくなったのかをなんとなく察してしまった。
だけど深くは聞かない。彼女の傷を掘り返すことは望んでいないのだ。得体のしれない私を家に置いてくれる親切な彼女を傷つけたくないから。
行く宛のない私をウルスラさんは家に置いてくれた。
彼女が大神殿にお仕事に行っている間、私は家事を片付け、内職をして過ごしていた。置いてもらっているだけで何もしないのはあれなので仕事をしようと探しに出ようとしたのだけど、大きなお腹で動こうとする私を気遣うウルスラさんが危ないからと必死の形相で止めてきたのだ。
ツテを当たって、家で出来る手仕事はないかと内職を探してくれたので、お家でちまちま小銭稼ぎをしてきたのだが……そんな私を訪ねて訪問してきた人物がいた。
「──あなたが最近ウルスラと同居し始めた女の子ね?」
その人はシュバルツ王国最高神職者である大巫女アレキサンドラ猊下だったのだ。
◆◇◆
質素な聖衣は必要最低限の装飾しかない。私の髪より更に薄い金髪は後ろで緩く纏められている。飾り立てしていないのに、輝くほど美しかった。
彼女の何がそう見せるのかは分からないけれど、とても強いなにかを感じ取った。さすがは女神の娘と呼ばれるだけある。
人生で一度か二度口を利く機会があるかないか、そんな相手だ。私が緊張で萎縮していると、彼女は優しく尋ねてきた。
「魔法魔術学校の卒業生だと聞いているけれど……お名前を聞いてもよろしいかしら?」
名前を聞かれた私はギクリとする。名前を知られたら私の身元があっさりバレてしまう。私の捜索依頼が出ていて、目の前の大巫女様が居所を明かせば、私がこれまで隠してきた秘密がみんなにバレてしまう。
それじゃあここまで逃げてきた意味が無くなってしまう。
私が口籠るのを見た大巫女様は苦笑いを浮かべていた。
「女神フローラに誓います。あなたの秘密は守るとお約束すると」
大巫女様は女神に誓うとまで言った。私を庇った所でなんの得もないのにどうしてだろう。
私は大巫女様の瞳を見て少し考え込み、口を開いた。
「……リナリア・ブルームと申します」
「リナリアさん、踏み込むようで申し訳ないけれど、あなたのお話を聞かせてもらっても?」
「はい……」
この街に危険因子がないか確認するのも彼女の使命なのだろう。私はだんまりをやめて素直に彼女の問いに答えることにした。
「魔法魔術学校を卒業した翌日に出奔したのね。ならお腹の子は同じ学校の人が父親なの?」
「……同級生です」
私は答えながらあの夜のことを思い出して悲しくなってきてしまった。
「彼にとっては事故のようなものだったのかもしれません」
今まで誰にも言えずに抱えていた秘密を誰かに話すのはこれが二人目だ。だけどウルスラさんは深く聞いてこようとはしなかったので、私も詳しくは話さなかった。
目の前にいる大巫女様は初対面なのになぜかすべてを打ち明けたくなるような雰囲気があって、私は聞かれていないことまで話した。
「彼のことを愛している幼なじみの貴族令嬢がいて、私は彼女に敵視されていました。彼のそばにいる私は目の上のたんこぶだったのだと思います。……それで彼女は焦れて、彼と結婚したいがために既成事実を作ろうとしたのです」
使用人を使ってルーカスの飲み物に薬を入れて発情させて、たまたま彼のそばにいた私は求められるがまま一夜の関係を持ったのだと話すと、大巫女様の眉がひそめられた。
「あの時の私は、彼が私と同じ気持ちなのだと喜んでいました。だから彼に体を捧げた。……だけど彼はそうじゃなかった。翌朝私はひとりぼっちの部屋で目を覚ましました。……彼に置いてけぼりにされたのです」
あの朝を思い出すと今起きたことのように悲しくなる。
私がどんな想いで身体を捧げたのか、痛みを我慢したか、男性である彼にはわからなかったのだ。あんな態度を取る人だとは思わなくて裏切られた気分だった。
「そのことで私はひどく塞ぎ込んでしまい、その直後に熱を出したこともあって避妊のことは頭から抜け落ちていて……妊娠に気づいたとき、堕胎薬を飲もうとしたのですが」
──私にはこの子を殺せなかった。
お腹を抱きかかえて苦しみを吐露すると、そっと頬にハンカチを当てられた。大巫女様の側についていた騎士様が私の涙を拭ってくれたのだ。
私はいつの間にか泣いていたらしい。お礼を言ってハンカチを受け取ると、目元を拭った。
「誰か相談できる相手はおりませんでしたか?」
その問いに私はきっと泣き笑いのような変な顔をしてしまったであろう。
「未婚の母なんて後ろ指さされるに決まってます。両親に軽蔑されたくなかった。それにこの子を殺す選択をどうしてもしたくなかったのです」
いくら優しい両親だとしても出産することを許してもらえるとは思えなかった。両親まで世間から非難の目を向けられることになるのはわかっていたのでそれを避けたかった。……大切な人たちを守るためにはそうするしかなかった。
私はそれに、と続けた。
「私が彼の子を身ごもったと知られたらきっと、貴族令嬢の彼女は怒り狂って、子ども諸共消そうとしたに違いありません。現に魔法魔術戦闘大会で私は彼女から禁術一歩手前の呪文で害されかけたので」
それが一番の理由だった。
ドロテアさんはそれくらい平気でやってしまう。自分の手を使わずとも簡単にこの世から抹殺して退けてしまうに違いない。
だから私はこの子の命を守る最善の選択をしたのだ。
「誰にも知られずに卒業翌日に失踪して、王都で仕事を探そうとしたら、立ち寄った質屋の店主に娼館へ売り飛ばされそうになって、慌てて転送術を使うとこの街に降り立ったんです」
ここに着くまでは一瞬たりとも気が抜けなかった。それでも実家に戻ろうとは思わなかったのはこの子の為だから。
「宿がなくて困っているところでウルスラさんに声を掛けられて、今に至ります」
話し終わると私はうなだれた。
どんな理由があったにせよ、未婚の娘が夫でも婚約者でも恋人でもない相手と身体を結ぶことは褒められたことではない。今の私は世間からしてみたら性に奔放なふしだらな女に見えることだろう。どんなにお優しい大巫女様であろうと、拒絶されてしまうかもしれない……
この街から出て行ってくれと追い出されたらどこに行こうと一瞬悩む。王都で会ったような人売りや悪意を持った人に絡まれたらどうしよう。今度もうまく逃げられる? 逃げたとしてその次はどこに逃げたらいいんだろう。
この子だけはなんとしてでも守ろうと覚悟したつもりだったけど、私にはその覚悟が足りなかったみたいだ。
「よくぞ一人でここまで耐えてきましたね」
どんな軽蔑の言葉が飛んで来るかと覚悟した。
目をギュッとつぶって身構えていた私だったが、労うような優しい声音でかけられた言葉に理解が追いつかなかった。
「辛いことを思い出させてしまってごめんなさいね」
ふわりと優しいお花の匂いがしたかと思えば、優しく背中をさすられた。支えるように後ろから抱き支えた大巫女様は私を安心させるように言った。
「ここにいればもう大丈夫です。女神フローラの名の元にあなたを守るとお約束しましょう」
「大巫女様」
私の声は震えていた。
初対面にも関わらず私の秘密を知った上でそんな優しい言葉をかけてくれるなんて思わなかった。
「今はお腹の子のために、しっかり栄養をとって、心穏やかに静養をするのです。そのための援助は惜しみません」
それほどまでに頼りになる言葉はない。慈悲深き女神の娘と呼ばれる彼女以上に心強い味方はいないだろう。
ずっと一人で抱えていた秘密をようやく解放できた。
辛くて苦しい心の叫びを大巫女様が聞いてくれたお陰で、私の罪が赦された気がしたのだ。