リナリアの幻想 | ナノ
操られた欲
普段は絶対に足を踏み入れない特別塔は、一般塔とはまるで違う。特別扱いされる王侯貴族のために特別に作られた学び舎といった所であろうか。人が完全に出払っている今は誰も居なくて暗いのが不気味である。
私はそこを犬の姿で歩いていた。
動物に変化すると五感も鋭くなる仕様みたいなので、こっちのほうが人探しに有利なのだ。嗅覚で言うなら犬の方が探しやすいだろうと思って変化し直したのである。
ルーカスは今晩香水を使用していた。あの香りを探っていけば、見つかるかもしれない……。
地面に這いつくばってクンクンと匂いを探っていると、なんだか嗅いだ覚えのある香りがどこからか匂って来た。どこだどこだと集中して嗅いでいると、誰かの苦しそうな荒い呼吸音が聞こえてきた。
どこだろうと首を動かすと、どうやら花壇の方から聞こえてくる。
犬の体でトコトコッと軽快な足取りで音源に近づくと……いた。
──ルーカスは誰かから姿を隠すかのように生け垣に身を潜めていた。
そして、苦しそうに息を荒げている。呼吸を楽にしようとしたのか、しっかり結ばれていたはずのタイが解かれていた。
い、一体なにがあったんだ。私は元の人間の姿に戻ると、「ルーカス」と声を潜めて呼びかけた。
「!」
するとギクッと体を強張らせた彼はなぜか怯えた表情をしていた。
そんな反応されるとは思っていなかった私は目を丸くして固まる。
少し間を置いて、焦点が合っていない瞳で私を見た彼は「なんだ、リナリアか……」と安堵した様子だった。
しかし依然として苦しそうに肩を上下させていて、様子がおかしい。
さっきまで普通だったのに、この短い時間内で彼になにがあったというのか。
「薬を盛られた」
「薬……まさか毒!?」
彼の口から飛び出した不穏な言葉に私は飛び上がった。
そんな、誰が、何のために、どうして! ルーカス死んでしまうの!?
私が混乱してあわあわしている様子をルーカスは苦笑いして、首を横に振っていた。
「違うよ、恐らくは催淫剤の類」
「さいいん……?」
「精力剤…媚薬といえばわかるかな?」
わかりやすい単語で説明された私はなぜか恥ずかしくなってしまった。今のルーカスはつまり、そういう反応をしてこんなに苦しんでいるということ。
「ドロテアをあしらって……一息つこうと会場の給仕人から渡された飲み物を受け取って飲んだらこんなことに……買収して薬を仕込んだんだろう」
「まさかドロテアさん?」
「……かもしれないね」
確証はない。だけど状況から見て彼女である確率が高いだろう、ってのがルーカスの予想だ。でも今のこの状況からして疑っちゃうのは仕方のないことだよね……
そこまでしちゃうのか……ドロテアさんはルーカスを薬で操ってどうしたいのだろうか。そんなことしても彼の心は得られないと言うのに。
「まさかこんな罠に引っかかるとは……彼女がこんなことをして来るとは思わなかった」
ルーカスは二重に落ち込んでいるようだった。
自分がこんな古典的罠に引っ掛かったこと。仲違いはしているけど、幼い頃からの付き合いであるドロテアさんがこんな卑怯な真似をして来るとは思わなかったみたいだ。
あの場に留まるわけにも行かず、その上媚薬の効果が増幅して動くのも辛くなってきて、にっちもさっちも行かなくて困っていたというルーカス。
「先生呼んで来る!」
苦しそうなルーカスをこのまま放置していたらいろいろと弊害があるだろう。なにより、彼の無事が最優先だ。このままここにいてもなんの解決にもならない。
すぐに猫に変身して飛びだそうとしたのだが、身体を抱き込んできたルーカスによって阻止されてしまった。
「待って……僕を一人にしないで」
「ニャ!?」
ちょ、耳元で吐息混じりに懇願するのは卑怯でしょう!
「ンニィィィ……」
「それに、今は彼女が僕を探してうろついている。君が鉢合わせになったら危険だ」
猫語で悶えていると、ルーカスが小さな声で注意してきた。
そうか、今のこの瞬間もドロテアさんはルーカスを探している。
見つけて、そして……既成事実を作ろうとしているのだ。間違いなく、ルーカスと結婚するために理由を作ろうとしているんだ。
私は再び元の人間の姿に戻ると、ルーカスの手を掴んだ。
「ならここも危険でしょ、せめてあなただけは安全な場所に逃げなきゃ!」
立ち上がると、ルーカスの手を引っ張る。
今はどこにいても危険だ。鉢合わせすれば、彼女はどんな手を使ってでもルーカスを手に入れようとするだろう。……そう、私を殺してでも。
せめて彼だけでも安全な場所に誘導しようと足を一歩回廊に踏み出した。
「──ルーク、どこにいますの?」
猫撫で声で呼びかけてくる彼女の声に怯えたのか、握っていた彼の手がびくっと震える。
ドロテアさんは近くにいる。まずい。このままじゃ。
「…素直になって、手を伸ばしてちょうだい」
……右か? あの曲がり角の先に彼女はいるのだろうか。
カツン、カツンとヒールが床を叩く音がどんどん近づいてくる。
「わたくしとあなたは結ばれる運命なのです。間違ってもあの平民女には絶対、あなたを渡しませんわ…」
現在、特別塔校舎内には私達の気配しかない。だから彼女の声はよく聞こえた。
ルーカスに面と向かってフラれても尚それを認めずに駄々をこねている彼女は見た目よりも精神は子どもなのかなと思っていたけど、そうじゃないんだ。
自分の考えが全てで、それが正しいのだと言わんばかりに決めつけてそれを押し付けようとしている。
その執着心にゾッとする。
あの人はルーカスの気持ちや幸せのことをこれっぽっちも考えていないんだ。自分のことしか考えていない。
どうしよう、ここにいても見つかるのは時間の問題だ。花壇に逆戻りした方がいいのだろうか。
私が迷っている間にルーカスは次の手段を考えついたみたいだった。
「リナリア、こっち」
隣にいる私にしか聞こえない声で呼ばれたと思えば、今度はルーカスに手を引っ張られた。
彼は道順を理解しているようでずんずんと奥へと進んでいく。ここは特別塔なのだけど、避難できそうな場所を把握しているのかな。なるべく足音を立てないよう、つま先立ちで歩いていく。
ルーカスは変わらず苦しそうだった。むしろ先程よりも呼吸がおかしい。今こうして歩く行動すら彼の体を蝕む媚薬の成分を活性化させているんじゃないだろうか。
「ここだ。良かった、鍵が開いている」
そう言って引き込まれたのは空き部屋だ。ただ真っ暗でなにも見えない。
部屋の中でなにかを漁っていたルーカスは何かを見つけだし、小さな炎をランプに点した。それをテーブルにそっと置くと、部屋の全貌が明らかになった。
そこは仮眠室みたいな場所だった。椅子と机、そしてベッドがある。小さなカーテンは閉ざされており、すこし殺風景に見える部屋だ。もちろん特別塔の中にある部屋なので、一つ一つが高級そうなのだけど。
……なんだろうここは。
「ここは罰則を受けた生徒が軟禁される部屋だ」
そう言って扉の鍵をかけたルーカスはふう、と息を吐き出していたが、それでも全然楽になったようには見えなかった。肩で苦しそうに息をしている彼は苦悶の表情を浮かべていた。それほど強力なのだろうか、その媚薬とやらは。
汗をかいて額に張り付いた髪が煩わしいのか、ザッと手で掻きあげる仕種がなんだかいつものルーカスらしくない。悩ましそうに眉をひそめる彼からは色香が抑え切れておらず、私は思わず生唾を飲み込んでしまった。
男性に襲われた経験から、そういうことに恐怖心を抱いていたはずなのに、彼のその姿を見た私はドキドキとしていた。
本人は苦しんでいるのに、その艶姿をもっと見ていたいと考えている自分はなんて奴なんだろうか。
「ルーカス、私は先生を呼んでくるから」
「シッ、静かに」
ここにふたりで閉じこもっていても仕方がないだろう。薬学の先生に言えば解毒剤のようなものを出してもらえるかもしれない。
そう思ってドアノブに手をかけたのだが、ルーカスはその手首を掴んでそのまま腕の中に抱き込んできた。
いきなりハグされた私は息を呑む。
なに急に。ちょっと心の準備をさせてほしい。
「…近くにいる」
潜められた声は緊張に満ちていた。
一瞬でも浮かれていた私は自分を恥じた。ルーカスは怯えているんだ。だから私に縋り付いてきたのだ。なに勘違いしてんだか。
「ルーク、怖がらなくても良いんですのよ……わたくしはあなたのすべてを受け止めてあげますわ。わたくしはあなたの妻になるのですもの」
…ドア1枚挟んだその向こうに彼女がいる。
まずい。ここで声や物音を立てたら彼女に見つかってしまう。
ドクンドクンとルーカスの心臓が大きく鼓動する。私も緊張しているはずなのだけど、彼の胸の音の方が大きすぎて、逆に心配になってしまう。
それに……向かい合って抱き合う形になっているせいか、ルーカスの一部が固く主張しているのに気づいてしまった。
「ルーカス、ちょっと離れて」
ルーカスが男性であることは分かっていたのだけど、生々しいそれを感じてしまった私はなんだか怖くなってしまった。
彼の胸を押して、解放してくれと小声でお願いする。
だけど、ルーカスはそのお願いを聞き届けてくれなかった。
言葉を封じるように重ねられた柔らかい感触によって、私の頭は真っ白になった。
私を囲う腕の力はますます強まり、何度も何度も角度を変えて私の唇を奪ったのだ。