リナリアの幻想 | ナノ
すれ違う新婚旅行
結婚式を終えた数週間後、私は王都のクライネルト家ではなく、別の地に立っていた。
その場所はモナートとは違う領地の港町。南の国グラナーダに近い位置のその街はあちらのと交易も盛んで、グラナーダ産のりんごで作ったジュースにフェリクスが目を輝かせていた。
そんなに美味しいのかと思って、自分も飲んでみるとなるほど美味しい。
お父さんの仕事の関係で向こうの生産物に触れることも多かったけど、搾りたてのジュースは今回が初めてだ。
自然の甘さのジュースの味にフェリクスは満面の笑みを浮かべていた。我が子が楽しんでいる様子を見れて、私は嬉しく思えた。
私は今、子ども同伴の新婚旅行に来ていた。
夫婦水入らずで遊んでいらっしゃいと義父母となったクラウスさんとマリネッタさんたちからすすめられたのだ。
…多分、私とルーカスの仲を心配されているのだと思うけど。旅行中に距離を縮めろって意味なんだと思う。
広い屋敷とはいえ、同じ家に住んでいるし、食事とかで顔を合わせることもあるもの。なんとなく空気を察してしまうのだろう。
……距離を縮めたいのはやまやまだけど、ルーカスが距離を作るんだ。
初日は相手が気遣ったのだと思ってその翌日夜にお部屋に伺ったけど、ルーカスはキスをするだけで、私を寝室へと送って終わりだ。
彼は日によって大学に泊まり込みする。
マリネッタさんいわく、ルーカスは学会前とかになると教授のお手伝いで大学に泊まり込みになることがよくあるのだという。優秀なルーカスは教授の覚えもよく、頼りにされて可愛がられているとかなんとか……
『クライネルト君、あれ何処にやったかな。来月の学会で使う論文の草案は…』
そして今現在も、ルーカスはどこからか飛んできた伝書鳩から流れてきた聞き覚えのない男性の問いに返事すべく席を離れていた。
その声の主が例の大学の教授らしい。新婚旅行にまで教え子に連絡するとか…少しは気を遣ってほしいところである。
ルーカスを待ちつつ、私はフェリクスとふたり、旅行先の高級カフェのテラスでのんびりと穏やかな時間を過ごしていた。
海が見える風景は故郷のモナートを思い出す。この海はモナートにも続いているのだ。
心情的にもう帰れないモナートを思い出して感傷に浸る。
「──よくもそんな呑気な顔をしていられますわね」
真横から掛けられた刺々しい言葉にパッと振り返ると、剣呑な表情を浮かべた黒髪の彼女がいた。
私はそれにギクッとする。
なんで、なんでここにドロテアさんが……
「やっとシュバルツに帰れたのに、最初に会うのがあなただなんて…ツイていないわ」
はぁーやれやれと言わんばかりにがっかりする彼女の態度はあの頃と変わらない。
未だに私への敵対心は健在ということだろう。
ドロテアさんはグラナーダの貴族に嫁いだという話だ。結婚して角が取れたかといえばそんなことはない。……あの頃よりも痩せてどこかほっそりしたように見えるが、ちゃんと食べているのだろうか。
私はフェリクスを抱きかかえて彼女を注視する。
また危険な魔術を放たれるかもしれないから、このまま逃げてしまおうか。
私の警戒心に気づいたのか、ドロテアさんは鼻を鳴らし、ルーカスに似た息子を見下して渋い顔をしていた。
「うっ、うぇっ…」
その目は嫉妬や悔しさが滲んでいて、フェリクスはドロテアさんの雰囲気に怯えて小さくぐずっていた。
「無理矢理好きでもない男と結婚させられた。愛してもいない男に抱かれなきゃいけないのよ……あなたのせいよ」
この期に及んで恨み言とは。
自分がしたことがどれだけのことか、自分の行いが今の現状を招いていると理解していないのだろうか。
ルーカスはドロテアさんを妹のように思っていた。
血が近い彼女を異性対象として見たことはなく、長い歴史で生まれた遺伝病を避けるために彼女をはっきりした態度で拒絶していた。
汚い手を使って無理やり縁組しようと画策してもすべて失敗に終わったじゃない。どうしようもないだろう。すべてが自分の思い通りになるわけじゃない。
「私は謝りません。あなたは私の子を殺そうとした。ルーカスを瀕死に追い詰めたくせに反省の色がないあなたの態度が気に入らないし、私こそあなたを許さない」
この際なので、私も言わせてもらった。
二度と会いたくない相手だったけど、ずっと我慢して来たのはこちらの方なのだ。いい加減にして欲しい。
「同情しませんし懺悔もしません」
キッと睨み付けると、ドロテアさんは眉間にシワを寄せ、ぐっと真っ赤な唇を噛み締めた。
「……ルークの子はわたくしが産むはずだったのに。わたくしが彼に抱かれるはずだったのに」
彼女の執着に近い想いはすごいと思う。同じ人を好きになったのだ。叶わない恋に涙し、悔しがる気持ちもわからんでもない。
だけど、どうしても彼女には同情できない。
本当なら捕まって懲役刑を喰らってもおかしくないのに、この人は権力を使ってのうのうと生きている。反省すらしない。
愛する人を傷つけたのなら、懺悔してもおかしくはないのに、そこが抜けているから私はこの人に嫌悪感を抱くのだ。
「リナリア、フェリクス!」
鋭い声で名前を呼ばれたと思えば、私は後ろからフェリクスごと抱きしめられた。
驚いて目を丸くして首を動かすと、そこにはルーカスの秀麗なお顔。
教授へ伝書鳩を送り終えて戻ってきたのだろう。彼は私とフェリクスを守るように包み込むと、冷たい眼差しをドロテアさんへ向けた。
「キアロモンテ伯夫人、僕の妻と息子になにか?」
キアロモンテ、それが彼女の今の家名なのか。
以前まで名前呼びだったのに、彼女を婚家の名前で呼んだのは恐らく壁を作るためだろう。
ルーカスの他人行儀な態度にドロテアさんは悲しそうな顔をしていた。
「もう、ドロテアとは呼んでくれないの?」
縋るような目をしてつぶやく彼女の声は涙声になりかけていた。
「……知っているドロテアは、リナリアたちに牙を剥いた時点で死んだ」
ルーカスからの決別の言葉を受け止めた彼女はボロリと涙を零した。
「わたくしはどこで間違えたのかしらね」
「──見つけたぞ、ドロテア」
彼女の後悔の言葉の直後に聞こえた男性の声。
いつの間にかドロテアさんの背後に迫っていたらしいその人物は乱暴な動作でドロテアさんの手首を捻り上げていた。
「いたいっ」
「ったく、お前がどうしても帰りたいというからツテを使ってお忍び旅行に連れてってやったのに……あまり勝手な行動するな」
まるで貴族には見えない男性は、小言を告げると、ちらりと視線をこちらへと向けた。
何故かルーカスの顔をまじまじ見て、ドロテアさんの耳元で何かをささやく。
なんと言っていたのかまでは聞こえなかったけど、それはドロテアさんを怒らせるような発言だったらしい。
「このっ無礼者……!」
「おっと。じゃじゃ馬なお姫様だな、まったく」
ドロテアさんが手を上げて男性の頬を張ろうとしたがそれを軽々阻止されていた。
彼女はそのまま男性に引っ張られてどっかに消えた。ドロテアさんは喚いて抵抗していたが、男性から樽のように抱きかかえられ運ばれる。貴婦人に対する扱いには見えなかった。
私とルーカスはそれを呆然と見送る。
一体何だったんだ。
「あの人が旦那さん? 仲悪いのかな」
貴族にしてはどこか平民臭さがあるというか……あの人が旦那さんのキアロモンテ伯爵、なんだよね?
「……キアロモンテ伯爵は、僕らより10は年上の人だったはず。遺伝病で子どものように小柄だと聞いたけどな…」
ルーカスの言葉に私は怪訝な顔をしてしまう。
「遺伝病って」
「血の濃さによる弊害だよ……それによって男性不具だという噂だったけれど…」
そうは言うが、見た感じ健康そうな男性に見えた。私達より年上かもだけど、10も離れているようには見えない。
なんだかもやもやするものがあったが、彼女に関わるのは懲り懲りなので、それ以上の疑問は投げかけなかった。
◆◇◆
旅行先が勝負だと思っていた。
私達の部屋は一室しか借りていない。同じベッドで寝なきゃいけないのだ。流石にルーカスもその気になってくれるだろう。
フェリクスの乳母としてウルスラさんも同行してくれていて、別室で一晩中フェリクスの添い寝をしてくれることになっている。
おやすみ仕様の彼女に眠くてグズっているフェリクスを託すと、私は宿泊先の備え付けのお風呂に入り、この日のために用意したスケスケネグリジェに身を包んだ。
正直恥ずかしい。
欲求不満に見られる可能性もある。だけど見るのはどうせルーカスだ。私は勇気を出して寝室の扉を開くと、ベッドに横になって本を読んでいるルーカスの前に姿を現した。
緊張で口から心臓がまろび出てきそうだが、自分に応援しながらベットに膝をかけた。
集中力が切れたルーカスがふっとこちらに視線を向ける。そして彼の目に自分の姿が映った。
私は恥ずかしさに耐えられなくなって、ルーカスの胸に飛びつくと、彼の半開きになった唇に吸い付いた。角度を変えたり、彼の舌に吸い付いたり、自分なりに頑張ってキスをした。
……なのになにかがおかしい。
ルーカスの反応がないのだ。抱きしめ返してくれないし、キスにも応えてくれない。
異変を察知して唇を離すとルーカスは無言で私の身体を押し返し、寝台に寝かせた。
やっと応えてくれるのだと期待していると、私の首の下まで布団を掛けられた。
「おやすみ、リナリア」
……えっ?
いま、なんと?
何もせずに寝ろとおっしゃる?
新婚旅行なのに、ただ寝るだけなの?
信じられなくてルーカスを凝視する。
「目が覚めても君のそばにいるよ」
そう言って彼は読んでいた本に栞を挟んでサイドボードに置くと、傍らの明かりを消した。
……寝た。寝たよ、この人。
隣で横になったルーカスは私に指一本触れなかった。
彼は優しい。私を大切にしてくれる。
だけど、私が望むのはこういうことじゃない。
一切手を出さないそれは私にはそんな気が起きないからなのだろうか