リナリアの幻想 | ナノ
蝕む呪いと唯一の対抗策
ドロテアさんの放った切り裂き呪文は、ルーカスの命を奪おうとしていた。
できる限りの手当てを施すために部屋に運ばれたルーカスは危険な状態だった。失った血液を補うために、管を通して大量に造血剤を投与されていたけど、彼の顔色はますます悪くなるばかり。横になったベッドはどんどん血に染まっていく。
作られる血液より、流れる血液のほうが多いのだ。
これ以上血が流れぬよう、治癒魔法を重ねがけして傷口を塞ごうとしても、切り裂きの呪いは彼の身体をどんどん侵食していく。傷口は広がっていき彼の命を貪っていた。
私も手伝っていたけど、どんなに治癒しても付け焼き刃なだけだった。
「ルーカス! ドラゴンの妙薬を譲ってもらったわ。さぁ飲みなさい!」
彼の命の炎が消えかかったその直前。
転送術で舞い戻ってきたマリネッタさんが薬紙に包まれた粉末状の何かを、意識のないルーカスになんとかして飲ませていた。意識のない人間に飲ませていいのかと不安になったけど、窒息させることなくうまく飲ませていた。
ドラゴンの妙薬。
そんなものが今の時代に存在したのかと私は疑い半分だった。
マリネッタさんはこれで大丈夫。傷は妙薬の力でなんとかなるから、引き続き造血剤を投与していきましょうと言っていたけど、私にはそう見えなかった。
だって彼の顔はこんなに青白い。冷たくなった手、死んでしまってもおかしくない出血量。
瞼は固く閉ざされ、口づけした唇は紫通り越して真っ白になっている。もう群青の瞳でこちらを見てくれることはないのではないだろうか。そう思うと悲しくて涙が止まらなくなった。
彼の血が染み付いた服のまま、私は家に帰らず、枕元で付き添った。傍らに投げ出された彼の手を握り、じっと彼の眠る顔を眺めていた。
ドラゴンの妙薬を飲んで数時間経過しても、彼は目を開くことなく、昏睡したままだった。
寝返りも打たず、死んだように眠る彼が生きているか不安で、時折脈を取ったり、胸元に耳をつけて心臓音を確認したりして生存を確認する。そうでもしなきゃ安心できなかった。
「リナリアさん、少しは休んだほうがいい」
フェリクスは別室で休んでいるから、そっちで一緒に眠るといいとクラウスさんに声をかけられたけど、私は首を横に振った。
横になったところで眠れるわけがなかった。
私がのんきに寝ている間にルーカスが急変したらどうするんだ。
彼のそばについていたかった。
彼がこんな事になったのは私のせいだから。
私達を庇ってこうなったのだ。
私がドロテアさんに対抗できていればこんなことにはならなかった。苦手だからって古代語学をそこそこで終わらせずに真面目に取り組んでおけば、今頃こんなことにはなっていなかっただろうに。
◆◇◆
いつになっても帰ってこない私とフェリクスを心配してクライネルト家まで迎えに来たお父さんは、憔悴しきった私や、意識のないルーカスの状態を見て驚きで固まっていた。
クラウスさんの口から事情を説明されて、難しい顔をしていたが、いつまでも私をここに置いておく訳にはいかなかったのだろう。
とにかく長居しても邪魔だからとお父さんに説得されて実家に帰ったが、そちらでも私はそわそわして落ち着かなかった。
何かあれば伝書鳩で伝えるからとクラウスさんたちに約束してもらったけど、何も連絡がなければそれで不安が増す。
気もそぞろでフェリクスのお世話がおざなりになってしまい、フェリクスの癇癪を浴びる羽目になっては謝罪して、だけどやっぱりルーカスの事が気がかりで…ということを繰り返していた。
眠ろうとすれば、私を庇って怪我を負った彼の夢を見る。
そして彼が命を落としてしまう結末になって飛び起きるのだ。血まみれになった彼の鼓動が止まってしまう夢を見た後は恐怖で眠れなくなった。
私が精神的に追い詰められているとわかっているからか、両親は私を刺激するようなことは何も言わなかった。
今こうしている間にもルーカスの身に何かが起きているかもしれない。無事でいるだろうか、生きているだろうか。
こんな時にそばにいられないのがこんなにも辛いのか。
──私が失踪していた期間中、周りの人もこれに似た不安感を抱いていたのだろうか。
今更そんなことを考えながら数日過ごした後、私のもとに伝書鳩が届いた。
送り主はクラウスさんだった。
壁をすり抜けて舞い込んできた半透明の鳩から聞こえてきた声は『ルーカスの意識が戻った』と知らせてくれた。
それを聞いた私は無言で立ち上がると、フェリクスを抱き上げて階下にいるお母さんに託した。
「ルーカスが目覚めたの。会いに行ってくる!」
フェリクスの面倒をお母さんに任せると、私はひとり、転送術で飛び出した。
お母さんは私を止めなかった。むしろ仕方のない娘を見る顔で肩をすくめているように見えた。
転送術でひとっ飛びした私はクライネルト家に訪問し、面会させてくださいと頭を下げた。
さっき連絡したばかりだったのにもう来たのかと驚くクラウスさんたちは私の勢いに呑まれて「あ、どうぞ…」と少し引き気味だった。しかし今は彼らの反応まで気にする余裕はなく、実際に自分の目でルーカスの姿を見なくては安心できなかった。
「ルーカス様、リナリア様がお見舞いに来てくださりましたよ」
部屋の中に呼びかけると、小さく応答があり、案内してくれた使用人さんが扉を開けてくれた。
ルーカスはベッドの背もたれにもたれる形でベッド上で安静にしていた。その姿を前にした私は溢れ出す涙を抑えられなかった。
彼は心配になるほど青白い顔で、やつれていた。やっと意識を取り戻しただけで、まだまだ全快とは言えない状況なのだろう。
きっと私と面会するために無理に身体を起こしたのだろう。
「リナリア」
名前を呼ぶその声は求めていた彼の声。
生きている。
彼は生きている。
その時の私は礼儀とかマナーとかが頭から抜け落ちていて、部屋に一歩踏み込むともう我慢できなかった。
「ルーカス!」
彼の名を叫びながら駆け寄ると、私はベッドに飛び乗って彼の首根っこに抱きついた。
相手が患者であるのをど忘れした私はルーカスに縋り付いて子どもみたいに大泣きした。
温かい。心臓の音が聞こえる。ちゃんと呼吸している。生きている。彼は生きている…!
私はわぁわぁ泣き喚いて、力加減を無視して彼に抱きついた。
ルーカスはそれに驚いている様子だったけど、私の背中を撫でてくれた。
「泣かないで、顔を見せて」
涙に濡れた頬を撫でられ、その手が温かいことに私は安心した。
最後に触れた手は氷のように冷たかったから。
あの時点で呪いは体の奥まで蝕んでおり、死が間近に迫っていた。ドラゴンの妙薬を使っても即効で効果が出なかったようで、回復するまでこんなに時間がかかったのだという。
「心配したのよ」
「うん、ごめんねリナリア」
少し痩せてしまった彼の頬を両手で包むと、私は彼の瞳を覗き込んだ。
群青の瞳がこちらをまっすぐ見つめてくる。
もう二度とこの瞳が見れなくなるかもと考えると恐ろしくてたまらない数日間だった。
泣くつもりはないのに勝手に溢れ出す涙が視界を歪ませて彼の瞳が滲んで見えなくなってしまう。
「…泣かないでくれ」
ちゅ、とついばむように口付けられて、私はびくっとした。
それに気づいたのか否かはわからないけど、ルーカスは私を抱き寄せて、しばらくそのままでいた。
くっついた服越しに彼の心音が聞こえて私はすっかり安心すると、そのまま寝入ってしまった。ここ数日まともに眠れていなかったため、ドッと睡魔に襲われて深い眠りに旅立ったのだ。
それから目覚めると夜になっていて、ルーカスの腕の中だったものだから驚いて変な声を上げてしまった。
こんな時間まで寝かせてないで、誰か起こしてほしかった。
──そして我に返って、大泣きしてルーカスに抱きついている姿をクライネルト家の人に見られたことを思い出したときにはもう遅かった。
帰るときに、「泊まっていかないの?」とか、「いつ住まわれてもいいようにお部屋を整えておきますね」と色んな人から声をかけられ、あちこちから生暖かい視線を一心に受けることとなり、それぞれから私が取り乱した記憶を消して回りたい歴史となってしまった。