壊れはじめる
ココがまだ心路として、純粋な綺麗なままだったあの日々を、古道は何回も思い返すことがあった。
それはまだ幼い記憶で、もう鮮明に覚えているのは今とは違い本当に心の底からの純粋な笑顔と、愛らしい表情だけ。
ベッドでココを抱きしめながら、あの日々を何度も思い返す。
しかし、古道は思い返すだけで、あの日々に戻りたいとは思えなかった。
自分もどこか、壊れているのだろう。
古道はそんな風に自分を何回も客観的に思い、また今日も眠りについた。
義父が入学祝いに買ってくれた高級時計からセットしていたアラーム音が聞こえてきて、古道は目を覚ました。
腕の中で身動きもせず死んだように眠るココの髪を撫でて、キスを贈る。
昨日はなかなか寝付けなかったようで、ココはぐっすりと眠っていた。
「かわいそうに」
そう小さく呟き、古道はベッドから降りた。
柔らかな日差しが遮光カーテンの隙間から漏れて床を照らす。
「ん…、古道?」
「ココちゃん、今日は休みだからまだ眠ってていいよ」
「でも、古道、」
「いい子だから」
ふわふわの綺麗な濡れ羽色の髪を梳いて耳元で囁けば、ココはまたウトウトと目を瞑る。
静かに眠りについていった、ココにもう一度キスをしてキッチンへ向かった。
昔は眠れない古道をココが寝かしつけていた。
優しい声で、穏やかな声で、いい子だから、心路とねんねしようね、と何度も囁いてキスをしてくれた。
初夏の暑さの中で、何度も笑いかけてくれた。
「やけに、思い出すな」
しっとりと汗をかくくらいには部屋は暑く、冷蔵庫の中から冷えた紅茶を取り出す。
それから、その紅茶をコップに移し、ソファーに腰をかけテレビをつけた。
紅茶に口をつければ、また過去の記憶が古道の頭の中で再生されていく。
「古道、今日からお前の弟になる心路だ」
5歳になる古道が父親に手を引かれ連れて行かれたのは、自分よりも小さくて真っ赤に頬を染めた心路とキラキラとした服を着ている見知らぬ女のところだった。
柔らかな黒髪はさらさらと風に吹かれ、時折くすぐったそうに髪をはらうその姿が可愛く見える。
じっと自分の視線の先にいるその子に、いつの間にか心を奪われていた。
その時は目の前にいる心路をじっと見つめていて、古道は父親が心路の隣に立っている女に告げた言葉や、その女の顔を聞くことも見ることもなかった。
女の足元にポタポタと雫が落ちているのを見て、この女のところにだけ雨が降っている、そんな風に思うくらいだった。
「お兄ちゃん、」
小さな飴玉のような甘い声でお兄ちゃん、と呼ばれ、くすぐったい気持ちになる。
すぐに心路の手を取り、笑いかけた。
女の足元に降った雨はアスファルトに広がっていた。
「お父さんは…、お母さんはどこ」
今まで住んでいたところとは違って、うんと狭く畳の匂いと化粧品、お酒とタバコの匂いが充満した8畳の部屋。
丸いテーブルにビールを片手に項垂れている女に、古道は問いかけた。
女はビールをテーブルに置くと、古道には聞き取れないくらい早口で何かを叫ぶ。
そんな女が怖くて、古道は小さく謝って、部屋の隅に敷かれた子供用の布団の中に逃げ込んだ。
そこにはぎゅっと目を瞑っている心路がいる。
心路は布団の中に入ってきた古道を見て、ゆるゆると笑みを浮かべた。
「こころがいるよ」
小さな声にぎゅっと胸が苦しくなってきて、ぼたぼたと涙がこぼれ始めた。
声を抑え泣くと、心路が抱きしめてくれる。
自分よりも一回り小さいその体の体温に、古道は涙が止まらなかった。
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