返して
「…古道を返して」

小さな、儚い小鳥のような声が聞こえて、村松は振り返った。
振り返った先にはじっと自分を見つめる犬山がいる。
昨日の艶やかな白い肌を思い出して、カッと身体が熱くなった。
視線の先の犬山の唇がかすかに開かれる。
薄く色づいた唇の間から、真っ赤な舌先が見えた。


「来て」

唇がそう開かれたように見え、足が犬山の方へ動く。
甘いバニラの香りがするようで、もうその誘惑にあらがえなかった。
花咲が大神を呼ぶ声が聞こえる。
それさえも、遠いところで起きているように感じた。
ひらりと背を向けた犬山が廊下に出ていく。
部屋に向かうその背中を、村松は追いかけていった。


「犬…山…?」

部屋に入った犬山は、ゆっくりとカーテンに近寄って、小さな手でカーテンを閉めた。
薄暗くなった部屋の中で、犬山は振り返ってじっと自分を見つめてくる。
その瞳からは何も感じられない。
それでも、昨日のあの光景が目に焼き付いていて、何度瞬きしても消えることはなかった。
カーテンを後ろ手にぎゅっと握っている犬山のもとへ一歩ずつ近づいていく。
すぐそばまでいくと、バニラのにおいが香った。


「…犬山、」

「古道を返して」

もう一度、今度ははっきりと声が聞こえた。
柔らかな甘いお菓子のような声に、脳が痺れる。
この声をもっと聴きたい。
そんな風にさえ思った。
小さな手がゆっくりと自分に伸びていく様を、テレビを見るように眺める。
近づいてきた指先は、首筋をなぞってから背中に回った。
抱きしめ返すことなどできない。
その小さな手を払うこともできなかった。


「ココね、古道のものなの」

「…っ、」

「でも、古道はココのじゃない」

「ど、して…」

「ふふ、どうしてだろう…。ねぇ、会計さん。会計さんは寂しくないの?」

寂しくない?
そう尋ねてくる犬山の声は微かに震えているようで、思わずその背中に手を触れさせる。
熱を持ったように温かいその背に、身体が燃え上がるように熱く感じた。


「会計さんは花咲君のものだけど、花咲君は会計さんのものじゃないでしょう?」

その言葉に、今はいない桜を思い出した。
桜の笑った顔、自分に向いていたことってあったのだろうか。


「ちがう…、桜は、…俺は、ちがう、」

「…ココと同じだね。寂しいね」

甘やかな声が、耳に入ってきて、脱力していく。
そうだ、桜は自分のものじゃない。自分だけのものなんかじゃないんだ。
腕の中に居る犬山の体温がやけに温かくて、自分の腕の中に入らない桜に絶望した。
バニラのにおいを吸い込んで、ゆっくりと瞼を閉じた。


「…さみしい」

抱きしめていた犬山は離して、もつれるようにベッドへ押し倒す。
はらはらと濡羽色の髪が広がる。
押し倒された犬山は微かに口角をあげて微笑んでいた。


「ココのさみしさを、埋めて…」

甘い声は毒のように、身体中に沁み渡っていった。





「犬山…、ありがとう…。俺が、バカだった」

「ううん、そんなことないよ。寂しかったもんね」

ぎゅっと抱きしめられて、ココは俯いた。
欲しいのはこの腕じゃない。


「…犬山のためなら、なんでもする」

その言葉が聞きたかっただけだよ。
心の中で囁いたその言葉は、村松には届かない。


「ココ、疲れたからお部屋で待ってるね」

「傍にいようか?」

「…ううん、大丈夫。少し眠るから、一人にしてほしいな」

ココの言葉に村松は頷いて部屋を出ていった。



「…翔太どこに行ってたんだよ!」

大きな怒鳴り声が聞こえて、村松ははっとした。
静かな薄暗い部屋で交わした熱い時間の中から気付く。
これは自分が求めていた物じゃない。
こんなものが欲しかったわけじゃない。


「桂木先輩、ごめんなさい」

そう囁いた先に居た人は、引きつった笑みで笑った。
引きつったその笑みに自分のしてきたことの重さを感じる。
なんでだろうか、やけに大神が気になった。
あたりを見渡しても、その姿は見えなかった。
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