強い炭酸
一度、運命のαの温もりを知ってしまえば、それからはセンセーの香りや体温を身体が求めるようになった。
夏休みもセンセーは仕事で学校に通っている。
きっと化学科資料室にいるのだろう。
そう思いながら、マンションのベッドから起き上がった。
センセーの部屋から帰って、二週間。夏休みの中途半端な日だ。
のそのそと起き上がって、リビングに行けばカーテンは締め切られていて、ひとり暮らしであることを嫌に自覚させられる。
ハンガーにかかったYシャツを着てから、スラックスを履き替えて適当に髪をセットした。
どうせ暇だし「たまには構ってやる」と、偉そうに言ったセンセーに会いに行こう。
マンションから学校は近い。エレベーターに乗り込んで欠伸をひとつ落とした。
「…驚いた」
目を見開いてそういうセンセーに、にやっと笑ってみせる。
センセーは少しだけ嫌そうに眉を寄せた。
入れ、と聞こえてきた低い声は耳に気持ちがいい。
化学科資料室はエアコンが効いていてとても涼しかった。
室内に入り込んで、センセーの隣の空いた椅子に腰を下ろす。
「なんか、家みたい。ソファーもあるし、テレビもあるし、冷蔵庫も、センセー住んでんの?」
「テスト期間とかこもる教師が多いからな。化学持ってるのは俺しかいないから、俺が占拠してる」
「だから俺のこと呼べるんだ」
「教育的指導」
そう言って口角を上げるセンセーに、俺は机に肘をつき頬杖をついた。
センセーは俺から視線を話すとパソコンと向き合う。
ポケットの中から携帯を取り出して、ぼんやりと眺めた。
「ね、センセー」
「なんだ」
「何してるの」
「仕事」
「知ってる」
これ以上センセーは答える気はないのだろう。
机に突っ伏して、目を瞑った。このまま一眠りしよう。起きたら、センセーと話がしたい。
「寝るのか」
「へ」
センセーの声に顔を上げる。
仕事の邪魔しないようにしようと、昼寝をしようとした。
それを邪魔するセンセーに眉を寄せて見せれば、大きなため息をつかれる。
ムッとしつつも「何」と問いかければ、センセーは回る椅子で身体ごとこちらを向いた。
「ほら」
両手を開いて見せたセンセーに、呆気に取られつつも「はい」と素直に返事をして大きな腕の中に入った。
ぎゅっと抱きしめられて、大きく息を吸い込んだ。
バニラの香りが鼻をくすぐって、センセーの肩に顔を埋める。
「センセー」
センセーの香りが心地よい。
ぽかぽかと心が温まって、気持ちが良くて。
甘えるようにすり寄ってしまう。そんな俺を甘やかすように、センセーは俺の髪を撫でた。
神経質そうな指先が頭皮をヤワヤワとくすぐる。
それが気持ちよくて、吐息をこぼした。
「センセー、仕事、いいの」
「ある程度進んでるからいい」
「…そ、ならいい。…落ち着く…」
ポツリと口からこぼれた言葉にセンセーは小さく笑った。
心地よい香りに包まれながら、センセーに背中を撫でてもらう。
部活動の生徒のために鳴らされているチャイムが、大きく響いた。
顔を見合わせてから、そっと膝の上から降りる。
元の椅子に腰を下ろして、視線をそらす。
「どうした」
「何もなーい。センセー仕事いつまで?」
「俺は部活の顧問でもないから終われば17時には帰れるけど」
「それまで一緒にいてもいいの」
「お前が飽きなければな」
ポンポンと頭を撫でられて、小さく笑った。
センセーは急に立ち上がり冷蔵庫の中からジュースを持ってきてくれる。
目の前に置かれたコーラにお礼を伝えてから、頬杖をついた。
「そう言えば、センセー、俺の名前わかった?」
「鹿瀬千陽」
「へ」
「生徒名簿見ればすぐわかる。お前有名だし」
「もっと早く言えって」
「お前も俺の名前呼ばないだろ」
「そ、そりゃセンセーだし」
センセーはちらりと俺を見てから、またパソコンに目を向ける。
脇に置かれたマグカップには氷の入ったお茶が入っているようで、センセーはそれを飲んでから鼻で笑った。
調べてたのに、呼ばないなんて、と思いながらも、名前を呼ばれたことを純粋に喜ぶ。
嬉しかった。
名前を呼んでくれる人なんて、そんなにいない。
「…駒門せんせ」
「名前で呼ばないのかよ」
「んー…、駿せんせ」
「先生はつけるのか」
センセーはどこか不服そうで、面白い。
眉間に寄ったシワに笑いながらコーラを飲む。
しゅわしゅわと強い炭酸が口の中で弾けた。
「センセー、いつになったら俺を噛んでくれるの」
「お前はそればかりだな」
「だって…」
知りたいから。
早く、もっと深く繋がりたい。
頭が茹だったような考えがぐるぐると回る。
センセーはまたパソコンとにらめっこを始めた。
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