もう二度と
千陽が思い出したいと泣き叫ぶように、金内に縋った姿を見て苦しくなった。
思い出して欲しい、あの子のαを。
それと同時に、思い出すことによるあの子の苦しみを考えると、思い出して欲しくないと思う。
愛おしい番をそばに置いておきたい、支配したい、守りたい、抱きしめたい。
αとしての欲求がなおさら胸を締め付けた。
俺じゃないαと一緒に帰っていく姿に耐えきれない。
「駿くん」
「金内、あの子は大丈夫か」
「今日は急激に思い出したから、心的なストレスがかかっただけだから、緩やかに思い出していけば問題はないと思う。ただ、全て思い出してしまった時が心配」
「…ああ」
中庭で出会ったあの子に、センセーと呼ばれた時、泣き出してしまいそうだった。
あの子を愛おしいと思う気持ちは、とめどなく溢れていく。
「あの子の身体は、大丈夫か」
「…うん、妊娠もしていなかったし、体内の炎症も治った。性感染症の問題もなかったから、あとは心の問題だけ」
「そうか、それなら良かった」
「そうだね。思い出してしまったら、君が慰めて癒してあげるんだよ」
「ああ、わかってるよ」
そう伝えれば、金内が優しい顔で微笑んだ。
礼を伝えてから立ち上がれば、金内も立ち上がる。
どうした、と声をかければ、ニヤリと今度は悪い笑みを浮かべた。
「いっぱいひっかけに行こうかと」
「いいな、行くか。休みなのか?」
「当分ね。ここ最近働きづめだったからさ」
居酒屋から出て来て、ほろ酔い気分で歩く金内に苦笑いする。
車はマンションに停めて、電車で歓楽街に出ていた。
金内も今夜は番の家に向かうようで、ふたりで駅へ向かっている。
「久しぶりに君と飲むのも楽しいもんだね」
「ああ、そうだな」
「うちの奥さんも久々に君に会いたいと言っていたよ」
「そうか、今度遊びにいく」
「ああ、待ってるよ」
金内の目元が嬉しそうに垂れる。
番の話になるとこうもデレデレと締まりのない顔になる親友がおもしろかった。
ざわざわと賑やかな歓楽街を歩き続けていると、怒鳴り声が聞こえてくる。
何事かと思いそちらへ視線を向ける。
「…千陽っ」
染めた茶色の髪の男に手を引かれて、嫌がっている千陽の姿が見えた。
気づいた時には走り出していて、怒りで背中が粟立つ。
「何してるんだ、離せ」
千陽の手を取っていた男の腕をきつく握りしめる。
怯えたような表情を浮かべ、震えている千陽にカッと頭に血が上った。
「ストップっ、ストップ、駿くん!」
後から追いかけて来た金内に手を取られて、ハッとする。
呆気にとられていた男の手を千陽の腕からはらい、千陽を背中にかばった。
「な、何するんだよ」
「こちらのセリフだ。この子に何をするつもりだったんだ」
「俺はそいつの夫になる男だぞ」
その言葉に千陽を振り返る。
ブンブンと首を横に振った千陽は、俺の背中のシャツを掴んだ。
「未成年をこの時間帯に歓楽街に連れ込んでどうするつもりだったんだ。この子も知らないと言っている。警察を呼ぶぞ」
「だからっ、俺はそいつの夫に…! 鹿瀬の家からそいつを買ったんだぞ!」
「…反吐がでるな。千陽、おいで」
小さな震えている手をとる。
指先が絡まって、キュッと弱い力で握られた。
その手を握ったまま、その場を離れる。
「お、おい待てよ! 鹿瀬の家に言いつけてやるからな! お前は俺のものなんだ!」
声を荒げている男を一瞥し、千陽を連れ去った。
追いかけて来た金内が番に連絡し、車で迎えに来てもらう。
何も話さない千陽は、それでも俺の手を握っていた。
健気なその手が愛おしい。
家まで送ってもらい、マンションの中に入る。
金内が心配そうに俺を見つめていたが、小さく頷けば安心したようで番とともに帰って行った。
静かな千陽の手を引いて、部屋に入る。
薄着の千陽は寒そうに震えていた。
ソファーに座らせてブランケットで包む。
隣に腰を下ろすと、千陽が俺を見つめて来た。
「どうして、俺の名前、知ってるの」
不安そうな灰色の瞳がゆらゆら揺れる。
キュッと手を掴まれて、身体が固まりそうだった。
「…千陽」
小さく名前を呼べば、細く頼りない肩が揺れた。
掴まれていない方の手をそっと伸ばせば、千陽の頬に触れる。
「あんたが俺の、忘れた人なの?」
泣きそうに歪んだ瞳。
千陽の不安が伝わって来て、抱きしめた。
「さっきのやつは何なの、俺、どうして、記憶がないの。俺は誰を忘れたの、大切なのはわかってるのに、」
「千陽」
背中を撫でてやると、千陽の瞳からポタリと涙がこぼれた。
疲れたように目を瞑った千陽から寝息が聞こえて来てホッとする。
細く軽くなったその身体を抱き上げて、寝室へ向かった。
ベッドに下ろして、部屋から出る。
リビングのソファーに腰を下ろしてから、ため息をついた。
目をさますと、知らない天井が目に入った。
驚いて飛び起きる。
知らない部屋。
だけど、どこか懐かしくて心地よい香り。
あたりを見渡して、誰もいないことに気づいた。
ベッドから降りて、部屋を出る。
何となく知っている気がするのはどうしてだろう。
リビングにたどり着いて、ソファーを覗く。
そこには、毎週病院の中庭で会う人がいた。
「…俺、どうして…、昨日、夜いきなり人が来て、そいつに連れられて…それから、この人に…?」
ボソボソと呟きながら思い出していると、ソファーに横になっている人が目を覚ました。
伸びて来た腕に手を取られ、胸の上に転がり込む。
「…ん、千陽。なにしてんだ…、まだ寝れるだろ」
名前を呼ばれて心臓が掴まれる。
ドキドキと胸が高鳴っていく。
その人の腕の中で抱きしめられていると、心地よくて仕方がなかった。
顔はきっと真っ赤になってると思う。
「…なに、」
優しいバニラの香り。
鼻をくすぐる香りに、ポタポタと涙がこぼれた。
なんども匂いを吸っていると、視界がぼやける。
「…何、で、忘れてたんだろ…、」
あんなに忘れないって胸に誓っていたのに。
大好きだって、忘れないって。
この人の記憶があればいきていけるって思ってたのに。
自分の弱い心を嫌いになりそうだ。
「ごめん、ごめんなさい、駿さん」
そっと駿さんの胸にキスをした。
穏やかに眠る駿さん。
またこの腕の中に入れると思ってもいなかった。
「…駿さん、起きて。朝だよ」
軽く頬を撫でて、顎先に口付ける。
喉仏にチュッと吸付けば、駿さんが寝息をこぼした。
「…千陽…?」
「ん、おはよ、駿さん」
駿さんが顔を上げて、俺を見下ろす。
ゆっくりと身体を起こしてもらって、ぎゅっと抱きついた。
バニラの香りが強くなって、涙がまた溢れる。
「駿さん」
「…ッ」
「駿さん」
何度も名前を呼べば、駿さんの肩が震えた。
そっと身体を離して、駿さんを見上げる。
駿さんの綺麗な茶色い瞳が揺れた。
「…思い出したのか」
「ん、駿さん」
駿さんの大きな手が俺の頬を包む。
それから額を合わせて、駿さんが苦しそうに微笑んだ。
「…俺のことを忘れるなんて、やっぱりお前はバカだな」
「ん、俺バカだったみたい」
唇を軽く触れ合わせて、背中を撫でられる。
髪の下に指を這わせ、頭皮を甘くくすぐられた。
「…駿、さん、泣いてる」
「泣いてねえよ、バカ」
「ん、ん…」
舌を絡み合わせ、気持ち良さにクラクラした。
駿さんの大きな手が腰を撫でる。
くすぐるように背骨に指を這わされて、笑った。
「…一生忘れんなよ」
「ん、うん…」
「千陽」
唇を重ねて名前を呼ばれた。
気持ちよくて、嬉しくて、涙がこぼれた。
prev |
next
back