「…先生、誰か来た?」

「…誰も来てないよ」

「そっか、…なんかあったかかった」

「そう…、千陽くん頭痛はどう?」

「ん、なんかスッキリしてる。なんか優しくてあったかい夢見た」

目を覚まして、点滴が終わったことを知る。
金内先生が机に向かって書類を書いていた。
そう言いながらベッドから降りて、椅子に腰をかけた。
ほんのりとバニラの香りが残っている。
あの人の香り。
この香りは、何でこんなにも俺を優しく包んでくれるんだろうか。

「金内先生…、俺って、ヒートが来てるの」

「…思い出したのかい?」

「ううん、…嶺緒が言ってた」

「…そうだよ。君はヒートを迎えている。三回目を終えて、次は四回目」

金内先生が悲しそうにカルテに視線を落とした。
自分の身体のことなのに、全く知らない。
とても、怖かった。ヒートを迎えてからどう過ごしていたのかも知らない。
ただ、思い出そうとすると、誰かと過ごした温かい、不思議なふわふわした感覚があった。
それから、冷たく痛い感覚。
思い出したくない。
けれど、思い出さないといけない。
そんな感覚に襲われて、ぐるぐる頭が回る。
回る思考の中、金内先生に問いかける。

俺は誰を忘れているのだろうか。

「俺は、どうしてここに通ってるの」

「…千陽くん…、」

「お願い、教えて。思い出したい。…俺、あの人のこと忘れてる。誰かわからない。けど、大切な人が、いた、それだけはわかるんだ」

「千陽くん、焦らなくて、いいから」

「…もう、家に帰りたくない。ひとりでぼんやり暮らして、何で生きてるのかわからない。でも、生きてないと、あの人のこと、忘れないって、あの人の思い出だけで生きていけるって、思ったのに、俺、忘れて…」

「千陽くんっ」

くらりと目の前が揺れる。
そのまま、身体が傾いたけれど、受け身を取れそうにない。
金内先生が手を伸ばしてくれたところで、真っ暗になった。

目をさますと、まだ診察室にいた。
窓の外は暗くなっている。
身体を起こすと、嶺緒が心配そうに近寄って来た。

「金内先生から、千陽が倒れたって聞いた」

「…迎え来たのか」

「先生呼んでくる」

「…わかった」

金内先生を呼びに行った嶺緒はすぐに戻って来た。
先生が目の前に座って、身体を見てもらう。

「うん、何ともないね。…最後に、興奮してしまって、心に負荷がかかったみたいだね。意識を失う前のことは覚えてる?」

「…ん。覚えてる。俺、大切な人のこと忘れてるんだよな」

俺の言葉に、先生が目を見開いた。
それから、深呼吸をしてから、俺をまっすぐに見つめる。

「…そう。千陽くんは、その人のことを思い出したいのかな」

「思い出したい、俺の生きる理由、だと思うから」

「例えば、その人のことを思い出せば、辛いことも思い出すことになるとしても、思い出したい?」

真剣な先生の表情に、心臓が痛いくらいに動く。
それでも思い出したい。
俺の忘れた大切な人を取り戻したいって思う。
小さく頷いてから、ぎゅっと手を握った。

「千陽、無理しなくても…」

「無理なんてしてない。俺が生きる意味を知りたいだけ」

「また来週来てね」

「うん。金内先生、ありがとう」

頭を下げてから、診察室を出た。
嶺緒と一緒に帰り道を歩く。
タクシーに乗り込んでから、ため息をついた。

「…疲れた」

「家に着いたら、すぐにシャワー浴びて休んで」

「そうする」

嶺緒の不安そうな雰囲気に疲れてしまう。
もう一度ため息をつきながら、窓の外を眺めた。
夢の中で、優しく囁いてくれたのは、きっと俺の大切な人。
忘れちゃいけない、忘れたくない人だったのだと思う。
思い出そうとすればするほど、ぐるぐる頭の中が回った。

「…俺、思い出したらどうなるのかな」

「千陽は千陽だよ」

「だよな」

まっすぐな瞳で見つめてくる嶺緒にホッとした。
窓の外の月は綺麗だ。
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