準備室
煙草を吸いながら荷物をまとめる。
前々から決めていたことだが、いざそうなると思うと寂しさも感じるものだ。
千陽と付き合う前から、考えていた。
いずれ教師を辞めて、家を継ぐことになる。
教師をしていたのは両親への反抗心からだったし、いつでも戻れる用意はしてあった。ノックの音が聞こえて、ドアを開ければ理事長が入って来た。

「君がいなくなるのはとても寂しいよ」

「何言ってるんですか。少しも考えていないくせに。…どっちにしろ、家に入ればいつでも会えるでしょう、叔父さん」

「はは、そうだね。君にこの学園の理事長をいずれは任せたいと考えていたんだが」

叔父の言葉に小さく笑う。
この人なら本当にやりそうだ。
そう思いながら、煙草を灰皿に押し付ける。

「…それもいいですね。教師、意外と楽しかったし」

「じゃあ、兄さんに頼んでみようか」

「嬉しいですが、今はそれどころじゃないんで…」

「鹿瀬くんのことだね」

「一介の教師じゃ流石に家一つと戦えないので」

「…運命否定派だった君が、こんなにも熱くなるなんて、鹿瀬くんも罪な男だね」

笑いながら荷物を片付けるのを手伝ってくれる叔父に小さく笑った。

千陽はヒートを終えてからすぐに姿を消した。
千陽を表す物を残さずに、熱い夜の記憶だけを俺に残して。
彼と交わした記憶を手繰り寄せれば、一度だけ泣いて縋られた日のことを思い出す。
そのことを覚えていたのに、千陽が家に怯えていることを知っていたのに、守ることができなかった。
俺は間に合わなかった。
金内から連絡がきて、千陽が受けた仕打ちを昨日聞いた。
俺の記憶を失ってしまったことも、俺を思い出せば辛い記憶も思い出してしまうことも。

「家の仕事は手伝ってはいたし、正式に手続きも済んだし、若社長としての挨拶も済んでるから、あとは荷物を片付けるだけなんだね」

「はい。…今までお世話になりました」

「いいえ、こちらこそ。鹿瀬くんと一緒になったら必ず挨拶に来てね」

「もちろんですよ」

答えながら苦笑する。
俺の噛み跡を残した彼を今すぐにでも手に入れないと気が済まない。

今日は千陽の受診日だと聞いていため、そっと彼の様子を見に行こうと思っていた。
荷物を抱えてからもう一度、叔父に頭を下げて資料室を後にする。
車に荷物を乗せて、学校を出る。
もうこの地を踏むこともないのだろう。
少しだけ切ないような気持ちになった。

病院へ向かう道のりの中、千陽が気に入ってる歌が流れる。
鼻歌を歌う千陽が、時折こちらを見て笑っていたのを思い出した。
会いたい。
あの小さな身体を抱きしめて、甘い唇を食むように口付けて、甘やかしたい。
でもそれももう叶わない。
そっと彼を見守って、彼の身に危険が迫る時に助ける。
多くは望まない。
彼が安心して過ごせればいい。
急に煙草が吸いたくなって、煙草を取り出した。
信号で止まった隙にライターで火をつけ煙草を咥える。
窓を開けて息を吐き出した。
病院に着いてから、金内に会いに行く。
金内は一瞬切なそうな表情をしてから笑った。

「千陽は」

「千陽くん、今食堂に行ってるよ」

「ひとりで来たのか」

「うん、今日はね」

金内の言葉に首をかしげる。
彼の両親はおそらく彼の身体を気にしてなどいない。
この病院にきた経緯を知らなかったが、千陽の記憶の中に欠けらだけ残っていたのだろうと思っていた。

「今日は?」

「先週は幼馴染くんと一緒に来ていたよ」

「長峰か」

「知ってるんだ」

「俺の元生徒だ」

「そうなんだ」

それ以上聞いてくるつもりはないのか、金内は俺を見て笑みを浮かべた。
千陽の様子を見に行きたい。

「…食堂、見てくる」

「ああ、行ってらっしゃい。後でもう一度寄ってもらえるかな。千陽くんの状態を伝えておきたい」

「ああ」

手を振ってから診察室を出る。
食堂へ向かう途中、中庭があった。
綺麗な紅葉が並んでいて、思わず眺める。
千陽と出会ってから、季節がだいぶ流れたようだった。
中庭のベンチに見知った髪色を見つける。

「…千陽」

窓の外、寒そうなそこに千陽はいた。
紅葉がひらひらと千陽に降って行く。
赤い葉の中で、千陽は空を見上げていた。
中庭に繋がるドアから外に出る。
何も考えられず、千陽の元へと向かっていた。
目頭が熱くなるような感覚に、頬を何かが伝う。
千陽のそばに行けば、バニラの香りが漂っていた。
背中を電気のような感覚が走って行く。
グリーンアッシュの髪が揺れて、千陽がこちらを向いた。

「…泣いてるの、あんた」

「泣いてる?」

「涙、出てる。…座れば。具合悪いの? 誰か呼んでこよーか」

「いい」

隣に座り、千陽を見つめる。
少し顔が小さくなった。
腕周りも、何もかも細く、小さくなった。
目元のくまもひどい。
やつれた千陽。
あんなに可愛らしい笑顔を浮かべていたのに、今は不思議そうな表情を浮かべていた。
俺のことを、忘れてしまった。
センセー、センセーって、感情が丸見えの顔で笑っていたあの子は、ここにいない。
思わず俯くと、涙が流れるのが止まらなかった。
ふわりと風を感じて顔を上げる。
小さな細い指先が目元に触れた。

「やっぱ泣いてる」

指先が目元に触れた時、暖かくなる。
番の証。
千陽は感じていないのだろうか。
もう、忘れてしまったのだろうか。
小さな指先は目元をなぞってから、離れて行った。

「変なの。あんたの匂い、落ち着く。初めて会ったのにな」

「…そう、だな」

小さく笑みを浮かべた千陽は、また紅葉を見上げた。
バニラの香りが風に揺れて、香る。

「俺さ、何か大切なこと、忘れてるんだって」

不意にこちらにまた視線を向けた千陽が、首を傾げながら呟いた。
忘れているのは、俺のことだ。
そう言えたら、どんなに楽になるのだろうか。

「そうか」

「うん。…あんた、またくる?」

千陽の言葉に、どきりと胸が動いた。

「また?」

「うん。ま、病院にまた来るとか、あんまいーことじゃねーけど」

「…ああ、また来るよ」

「そっか。じゃあまた会えるといいな」

「…そうだな」

千陽は屈託のない笑顔で笑った。
あの、夏の体育館のギャラリーで浮かべたような、バニラの香りをまとった笑み。
千陽、…千陽。
俺の愛おしい番。
バニラの甘い香りが愛おしくてたまらない。
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