苦しい
「…千陽の家、αだけしかいない。だから千陽は家のために子どもを産むための道具として、育てられて、そのせいでずっと、諦めてた」

「諦めてた?」

「進学も、運命のαと出会うことも、恋をすることも、友達を作ることも。…全部。だから、千陽が、幸せそうに電話を、してるのを聞いた時、嬉しかった」

「その相手は、…千陽くんの運命の番だね」

「…多分。その後、千陽が番を作ったって知ったから…」

ぎゅっと手を握りしめた嶺緒くんが辛そうに息を吐き出した。
力強く握りしめられた手を撫でると、もう一度口を開き話し始める。

「…俺、定期的に、鹿瀬の家に千陽の状況を伝えていた。…だから、迷ったけれど、伝えないと千陽が尚更責められるからって、千陽にヒートが来たことを、千陽の母親に伝えた」

「それはいつ頃かな」

「…一ヶ月前」

「それで千陽くんは家に連れて行かれたのかな」

「…千陽は母親のいうことに逆らえないから。だから、きっと、番ができても、どこか、諦めていたんだと思う。…ヒートまで実家の部屋で軟禁されて、一週間前、ヒートが、来てから…、ホテルで…」

「…ッ、千陽くんを呼んで来て、今すぐ内診室に連れて来てッ」

嶺緒くんの言葉に、嫌な予感が胸をよぎる。
もう一人控えていた看護師に呼びに行かせ、内診の準備を始めた。
嫌な予感が的中していなければいい。
千陽くんの身体は脆く、か弱い。
嶺緒くんにここで待っているように伝えて、内診室に入る。
千陽くんに説明して、診察を始めた。

「…苦し…、こ、んな、ことする意味あんの」

「うん、君の身体を守るためだよ」

「で、も、なんか、これ…、涙が…」

「…うん、辛いよね、ごめんね」

診察を終えてから、診察室戻る。
千陽くんは疲れたようで、横になりたいと呟いた。
診察室のベッドに横になってもらい、精神安定剤を飲んでもらう。
幸い体内は軽く炎症を起こしていたが、問題はなかった。
妊娠しているかどうかは、日が立たないと調べようがない。
アフターピルは内服させたことを聞いたが、それが確実とは言えない。
今回の内診でも、千陽くんの子宮はまだ未熟なままだった。
この状態での妊娠は危険すぎる。
そのことをおそらく千陽くんの両親は知らなかったのだろう。
いや、知ろうともしなかったのだろう。
そして、千陽くん自身も伝えようとしなかったのだろう。
今となっては千陽くんから、どうして身体のことを伝えなかったのかは聞くことはできない。

「…千陽くんの記憶がなくなったのはいつ頃かな」

「ヒートが終わって三日間、寝込んでた。今日目覚めて、ヒートが来たことも、番がいることも、ホテルでされたことも、全部、全部忘れていた」

「解離性健忘…、ストレス性の記憶障害を起こしている。念のためにホテルで行われた行為の際に頭部の障害を負っていないか、脳の検査もするね。千陽くん、車椅子に乗れるかな」

「ん」

ぼんやりとしている千陽くんに車椅子に移ってもらい、検査室へ向かってもらった。
千陽くんは、一番大切な駿くんの記憶を失っているようだった。
駿くんと千陽くんが一緒にここに来た時の幸せそうな様子を思い出すと、胸が締め付けられる。
パソコン画面に視線を移すと、駿くんからメールが届いていた。
先に送ったメールでは千陽くんが受診しにきたことを伝えたが、駿くんからの返答は電話するとのことだった。
休憩室に置いているカバンから携帯を取り出して、電話をかける。

「駿くん、君にとって、とても辛いことを話すけれど、大丈夫かな」

“…あぁ”

「…本当は会って話すべきなんだろうけれど…」

そう言って話し始めれば、駿くんは静かに話を聞いていた。

“…千陽は、大丈夫そうか”

息を吐き出すようにそう尋ねて来た駿くんに、胸がしめつけられた。
きっと、話を聞いているだけでもいろんな感情が込み上げて来たのだろう。
彼は大人だから、感情を抑えられる。
たとえ、どんな辛いことでも、抑え込んでしまえる。
千陽くんと出会ってから、彼の表情は豊かになっていた。
それがまた前のように戻るのだろうか。
そう思うと切ない。

「…幸い、辛いことをされたことも忘れているから、今は気を保っているよ」

“そうか、それならいい。俺を思い出せば、そのことも思い出すんだな”

「…おそらく」

“…ああ、わかった”

「君が、千陽くんの前から姿を消そうと思っているのなら、それはやめたほうがいい。その前に彼の身体が凌辱に耐えられなくて、限界を迎えてしまう。リミットは長くて次のヒートまでだよ」

“…わかってる”

苦しそうに呟いた駿くんの言葉に、小さく頷いた。
駿さん、と嬉しそうに笑顔を浮かべていた千陽くんを思い出す。
彼の愛おしくなるくらい愛らしい笑みを、もう一度眺めたい。

「千陽くんには毎週病院に通ってもらうから」

そのことだけ伝えると、小さく返事が返って来て電話が切られた。

「先生、鹿瀬さんの検査終わりましたよ」

「ああ、ありがとう、長峰くんを中に入れて」

「はい。長峰さーん、どうぞ」

嶺緒くんを迎え入れてから、結果を伝える。
千陽くんに伝えることは、酷な話にもなるため千陽くんには外で待っててもらった。
伝え終わると嶺緒くんはホッとしたようで、ポタリと涙をこぼす。
そっと握りしめた手を撫でてあげてから微笑んだ。

「千陽くんのαには千陽くんがここに来たことを伝えた。千陽くんの状態も。きっとこれからなんとかしてくれる」

「…千陽は、その人のことを忘れているのに」

「それでも彼は千陽くんの運命のαだから、諦めない。だから、君も千陽くんを守ってあげるんだよ」

「…わかった」

「千陽くんの身体は、他のΩより成長が遅い。乱暴な性行にも耐えられないし、妊娠なんて今の状態でしてしまったら、命を落としかねないんだ。…今回は幸い、無事だったけれど、次はないと思ったほうがいい。一週間おきにうちに来て、」

「ん…」

頷いた嶺緒くんに、今日は帰っていいよと声をかける。
千陽くんもちらりと診察室をのぞいて頭を下げた。

「千陽くん、また遊びに来てね」

そう伝えると、千陽くんは、少しだけ嬉しそうに顔をほころばせた。
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