実家
実家に帰るのは、いつぶりになるのだろうか。
思春期に入る頃にはすでにひとり暮らしをしていた。
迎えにきた嶺緒と一緒に、タクシーで揺られる。
「…千陽、なんで来たの」
「お前こそ、なんで迎えに来てんの」
「春子さんが迎えに行けって言うから。…そうしたら、千陽のそばにいること、許してくれるって」
「…馬鹿じゃないの」
泣きはらした目が痛い。
不安そうに伸びて来た手を払い、窓の外を眺めた。
センセーのことは忘れない。
このうなじの印さえあれば、大丈夫。
生きていける。
ぎゅっと拳を握りしめた。
…センセー、きっと、怒ってるだろうな。
短い間だったけど、センセーと本気の恋が、番としての時間を過ごせてよかった。
知らない男の元へ向かう車の中、考えるのはセンセーのことばかり。
「千陽は…、」
ポタリと涙がまたこぼれ落ちた。
隣で何かを聞きたそうな嶺緒に気づかなかったふりをする。
ぎゅっと握りしめた拳を包み込まれて、振り払えない。
センセーの手のひらはもっと暖かかった。
そう思えば、涙はまた止まらなくなる。
実家に着けば、千明に出迎えられた。
いつの間にか身長の伸びた弟に驚きながらも、家に入る。
落ち着かない気持ちに、蓋をした。
「はる兄さん、おかえり」
「…うん」
「待ってたよ、はる兄さん。母さんと父さん呼んでくるから」
「…千奈津兄さんは」
「なつ兄さんなら今日はお仕事だよ。嬉しいな。はる兄さんとこれから一緒に過ごせるなんて」
どうだろうな。
小さく呟いて、荷物を玄関に置いた。
隣に立っている嶺緒が不安そうに、背中を撫でてくる。
千明が戻って来て数分後に両親がやって来て、背筋が冷える感覚を覚えた。
センセー、何してるかな。
俺がいなくなって、探してるのかな。
何か手紙でも残してくればよかった。
…いや、それはいいか。
センセーは俺を忘れて、新しい番を作って…。
それは、嫌だな。
だけど、俺はもうセンセーのところには戻れないから。
「千陽」
嶺緒に名前を呼ばれてハッとした。
ヒートが終わった後も思考がぼんやりとしてしまうのはなぜだろう。
目の前の両親に頭を下げてから家に上げてもらう。
「千陽、最後のヒートはいつ来たのかしら」
「…昨日で、終わりました」
「そう、じゃあ次のヒートはいつかしらね」
「…来月の今頃だと思います」
「では、先方にもそのように伝えるか。もう学校にも行かなくてもいいだろう、十分自由に過ごせたはずだ」
「そうね。明日退学届をもらいに行って手続きしてくるわ」
俺の状況を放って話を進める両親から視線をそらす。
着々と俺のことを決めていくこの空間は、居心地が悪かった。
ズキズキとこめかみが痛み始める。
こめかみに触れて、俯くと母親が悲鳴をあげた。
「何、その噛み跡、あなた、勝手につがいを…、勝手に番を作っていたの」
「春子?」
髪を掴まれて、ガラステーブルに押さえつけられる。
痛みに呻いていると、首元を晒された。
「なんてことをしてくれたの」
怒りで震えた声を聞きながら、意識が遠くなっていく。
二度と、センセーに会えなくなるのだろう。
どうでもいい。
この印さえあれば、それでいい。
まるで鳥籠のようだと思った。鍵のついていない、それでも見えない蔦で雁字搦めにされた籠。学校は母親が書類を出して自主退学になった。俺の肩書きは、もう鹿瀬のΩでしかない。与えられた部屋の中、窓から庭を眺めた。ヒートが来るまではここで過ごしなさい。そう言われて与えられた部屋は、何もなかった。
「千陽」
部屋のドアが開く音を聞いて、振り返る。そこにいた嶺緒は制服をまとっていた。目を逸らし、窓の外に視線を戻す。窓の外はキラキラと残暑をまとっていた。
「千陽、痩せた」
「だったら。痩せようが勝手に番を作ろうが、子どもさえ産めればいいんだろ」
「…俺、そんなこと、」
「何しに来たんだよ」
入って来た嶺緒が隣に座って手を握る。その手を払わずにそのままにしていれば、嶺緒が苦しそうに何かつぶやいた。聞く気もないため、椅子に座ったまま窓の外を眺め続ける。
「なぁ、学校楽しいか」
「…千陽が、いないから、楽しくない」
「お前は、俺のそばにいていいって言われてるのかよ」
「…うん」
「俺のこと、好きか」
「うん、好き。千陽に番がいても、俺は千陽がずっと好きだ」
「バカだな、お前」
小さく笑って、また窓の外へ視線を向けた。カバンの中の煙草を取り出し、咥える。火をつけてから、大きく吸い込んだ。
「千陽、千陽、大好きだよ、俺はずっとそばにいる」
「…本当に馬鹿だよ、お前」
「千陽のためなら、俺死ねるよ。なんだってできる」
そっと頬を撫でられる。嶺緒の手は冷たかった。その手が今は、少しだけ気持ちがいい。
夜になって、窓の外が暗くなる。ベッドの上に横たわり目を瞑ると、この家に来た時の思い出す。怒鳴り散らす母親の言葉。母親を宥めながら、俺のことを決める父親の言葉。目の前で思い出す光景に、頭が痛くなり始めた。
「勝手に番を作って、あなたをそんな子に育てた覚えはないわ。先方には番のいないΩとして伝えたのに、なんていうことを…まさか子どもまで」
「それは、ない…です…」
「番ってしまったのなら仕方がない。後継さえ産めれば問題ないだろう」
「ですが、李人さん。あなたの顔に泥を塗るようなことを」
「千陽を自由にさせてしまったのは私だ。私が連絡するから、お前は落ち着きなさい。千陽、お前はいつもの部屋でヒートが来るまで過ごしてなさい。あとはこっちでやるから」
ガラステーブルに押し付けられて、母親の飾った爪で頬を引っ掻かれた。父親の言葉に頷いて部屋を出る。そこから疲れで意識を飛ばしたのを、嶺緒がこの部屋まで運んでくれた。あの日のことを思い出すと、疲れを感じる。頭痛がひどく、いつまでもこめかみが痛み続けていた。嶺緒は家に帰らず、ずっとそばにいる。
「…帰れば」
「千陽、具合悪いから、そばにいる」
「お前がそばにいても良くならない」
「でも、千陽、辛そう」
「お前がいても意味がないって言ってんだろ!」
バンっとベッドヘッドを叩き、起き上がる。嶺緒を睨みつけ、胸ぐらを掴んだ。辛そうに眉を寄せた表情を見て、思わず舌打ちが漏れる。
「…あの人じゃなきゃ、意味がないんだよ。分かれよ、お前も、いい加減に。俺はお前のものにも誰のものにもならない。あの人だけのものだって…」
ポタリと涙がこぼれた。もう一度ベッドに横たわり目を瞑る。嶺緒の手のひらが頭を何度も撫でた。目を瞑り、ゆっくりと息を吸い込む。
「千陽…」
最後に聞こえて来た声は、センセーのものじゃない。
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