レモン
「千陽」
インターフォン越しに聞こえてきた声。
眉間に皺を寄せて今いくと伝えた。
スウェットを履いて、適当に髪を直しながら、鍵とチェーンロックを開ける。
ドアを開ければ、幼馴染の姿が見えた。
「千陽、今までどこ行ってたの? 俺以外に友達いないはずでしょ?」
「うっせえな、嶺緒に関係ないだろ」
「…それに、その首輪、何。他のαの匂いがする」
首元に鼻先を近づけた幼馴染の長峰嶺緒を手で追い払った。
追い払われた嶺緒は、表情を変えないまま長い腕を伸ばしてくる。
その腕に捕まえられて抱きしめられた。
「お前、何しにきたの」
「千陽の様子を見に」
「…千奈津兄さんにでも言われたのか? それか、千明?」
兄と弟の顔を思い出してげんなりする。
自分とは似ても似つかない男らしい、ふたりはコンプレックスの塊だ。
舌打ちをしながら、嶺緒の腕を外して部屋の中に入った。
リビングのソファーに腰を下ろして、煙草に火をつける。
煙を吸い込みながら、嶺緒を見ればすぐに隣に座ってきた。
「俺の意思だよ、千陽がずっとマンションに帰らないし…。どこに行ったのかと思ったら、他のマンションにいるから…」
「まさか、お前、また俺の持ち物にGPSつけたのか。…まさか、盗聴器も」
「盗聴器はつけてないよ。前に怒られたから」
「GPSもやめろよ」
嶺緒の筋肉質な腕を殴り、煙草を吸い込んだ。
ソファーの肘掛けに背中を預けて、足で追いやる。
抵抗せずに端に追いやられた嶺緒は、俺の足を掴んでひっくり返した。
覆いかぶさってくる影にぞくりと背中が震える。
「お前何してんの、調子のんな。煙草あぶねーし」
「…千陽、俺のこと置いてどっか行かないでよ」
「どこも行かない。…つか、どこにも行けねーよ」
嶺緒の変わらない表情に、舌打ちを返してから煙草を灰皿に押し付ける。
携帯が震えているのが見えて、手に取った。
どけ、と厚い胸板を押せば、すぐに嶺緒はどいてソファーに座る。
「千陽はΩなんだから、もっと自覚するべき…」
「うっせえな。どーでもいいんだよ」
携帯に表示された名前に胸が高鳴る。
どっか行け、と手を払う仕草をしたら、嶺緒は素直にソファーから降りてダイニングの方へ行った。
電話を耳に当てる。
聞こえてきた低い声に、口元が緩んだ。
「駿さん、どうしたの」
“いや、何してるかと思って”
「…何もしてない。ゴロゴロしてた」
電話先でセンセーが笑っている。
低い声が震えるように聞こえてきて、小さく笑う。
何もない、電話が嬉しい。
“課題、ちゃんとやってるか”
「うん、言われた通りやってるよ。偉いでしょ」
“調子にのるな。ちゃんと続けろよ”
「ん。なんだよ。駿さん、そんなことのために電話してきたのか?」
煙草を灰皿に押し付けて、ちらりと嶺緒を見た。
表情を変えずにこちらを見ている嶺緒。
大型犬が待てをしているような風貌にうんざりした。
“お前が寂しがっているかと思って”
「…残念でしたー。ひとりでも大丈夫だよ。でも、会いたい」
“夜、泊まりに行く”
「ん、待ってる」
“いい子にしてろよ”
「んー」
挨拶をしてから電話を切った。
いつもの癖で煙草に手を伸ばして、一本口に咥える。
待っていた嶺緒が、隣に戻ってきた。
「ってことだから、帰れ。俺は夜まで寝る」
「帰らない。千陽、またどっか行く」
「お前、俺のペットでも何でもないんだから、あんまり懐くな。うざい」
「俺は千陽の幼馴染だよ」
「それ以上でも以下でも何でもないだろ」
表情の変わらない嶺緒が、俯いた。
わかった。
小さな声が聞こえてきて、おう、と返事をした。
立ち上がった嶺緒が名残惜しそうに俺を見てから、玄関へ向かう。
見送ってやれば、鍵閉めてね、と何度も念をおされた。
「千陽は、Ωなんだから」
いつものセリフを無表情で言う嶺緒に、舌打ちをしてからドアを乱暴に閉める。
それから鍵をこれ見よがしに乱暴に閉めた。
嶺緒はいつも千陽のコンプレックスを煽る。
室内に戻り、窓を開けた。
嶺緒のレモンのような香りが部屋に残るのが嫌だった。
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