遠出
「海、行ったことない」

課題を終えた千陽とテレビを眺める。
小さな声で語られた言葉に、自分の夏休みの残り日数を確認した。
それから、テレビの中の海を眺めている千陽を見る。
「行きたい」と、血色のいい頬にそう書いてあった。
顔に感情が現れやすい、可愛い一面に小さく笑う。

「千陽、荷物まとめておいで」

「ん、まだ帰んなくていいでしょ」

「ま、いいから」

不服そうな顔をしながら、千陽は自分の荷物をまとめにいく。
その間に携帯を取り出して、電話をかけた。煙草をくわえ、火を点ける。

「駿さーん、Tシャツとパンツ何個か置いて行っていいー?」

「ああ」

「やったー」

嬉しそうな声が聞こえてきて、小さく笑った。
身体をつなげてから、千陽の本音を聞いてから。
あの子を見る目が少し変わった。運命だから。
それだけではない感情が、一緒に暮らしてあの子を見て過ごして、湧き上がった。
あの子ども体温が、愛おしい。

「あ、もしもし。駒門です。突然なんですが、いつもの部屋空いてますか…」

夏休み、この部屋に来ていなければ、おそらくあの子はひとりで過ごすことになっていたのだろう。

「駿さん、準備できた」

「お、早かったな」

「俺も準備してくるから、座って待ってな」

「ん」

ソファーに腰をかけた千陽のふわふわのグリーンアッシュを撫でた。
それからクローゼットから、3日分の服を用意してカバンに入れていく。
下着や必要なものを詰め込んでから、リビングに戻ると千陽がうたた寝をしていた。
窓から入る夕日が千陽の頬をオレンジ色に染める。
時折香るバニラの香りを感じながら、千陽の頬を撫でた。

「千陽」

「ん…、寝てた」

「いくぞ」

「へ、え? どこに」

「教えない」

「けちんぼ」

いつぞやに聞いたセリフに、小さく笑って千陽の背中を押す。
カバンを持った千陽と一緒にマンションを出た。
車のトランクに荷物を詰めて、助手席に乗った千陽はどこか嬉しそうな表情を浮かべている。

「遠出?」

「割と」

「ふーん、どっかいくの初めて」

「そうか」

千陽が窓を開けて、風を思い切り受ける。
冷房をつけることを伝えると、素直に窓を閉めた。
ウキウキしてるのか、口元をモゴモゴとさせている千陽に小さく笑う。

「眠気はどこかに行ったのか」

「ソーみたい」

千陽の歌う鼻歌は、ここ最近車で流していた曲だ。
時々、夜にドライブに連れて行ったせいか、覚えたようだ。

「1時間くらいかかるから、いつでも寝ていいからな」

「寝ないよ」

「なんで」

「だって、ほら、日が沈むもん、すごい初めて見る」

「日が沈んだら、今日は星が綺麗に見えるだろうな」

千陽が嬉しそうに、また窓の外へ視線を向ける。
薄暗くなって来た窓の外を眺める千陽が、また鼻歌を歌い始めた。
呑気な少し調子の外れたそれが心地よくて、少しだけスピードを上げる。

 結局、千陽ははしゃぎ疲れたのか、途中で眠りについた。
口が緩いのか、垂れたよだれを拭って、口元のホクロにキスをする。
名前を呼べば、ゆっくりと灰色の瞳が露わになった。

「…わ、寝てた」

「思ったより、すぐに寝たな」

「最近、眠くてさ」

「ヒートが来て、第二次性徴が進んでる証拠だ」

興味なさそうに返事をした千陽に降りるように伝える。
車から降りてうんと背伸びをした千陽が笑った。

「わ、もしかして、海…?」

目の前の景色を眺めた千陽が驚いたように、目を見開いた。
潮風の香りが鼻をくすぐる。
防波堤に近寄って行った千陽が、振り返った。

「センセーっ、海だっ」

大きな声で自分を呼ぶ千陽のそばに行く。
煙草を吹かしながら、海を眺めた。
星空があまりにも明るくて、海が輝いて見える。
星空の下で笑う千陽は、太陽の下で笑っているときよりも、儚く見えた。

「千陽、せっかく誰にも会わないように遠くに来たのに、センセーって呼ぶな」

「あ、ごめんごめん。ふふ、キレーだな」

防波堤に肘をついて眺める千陽の髪を梳く。
風に揺れる髪が、綺麗だ。
千陽は、乱暴な仕草の中で、時折綺麗な仕草や表情を見せる。
それが愛おしいと思う。

「入っていい?」

「夜の海はダメだ。さらわれる」

「俺が?」

「お前が」

千陽の手を取って、海を後にする。
車に乗り込んで、今度は旅館へ向かった。
千陽は名残惜しそうに窓の外を眺める。

「明日はいればいいだろ」

「いいの? 水着ない」

「足だけでいいだろ」

「そっか。俺泳げないし」

「泳げないのか」

こくりと頷いた千陽は、星空を眺めている。
車を走らせて、旅館へたどり着く。
その頃には千陽はまたウトウトし始めていた。

「ついたぞ」と声をかければ千陽は起きて、車から降りた。
同じように車から降りて、荷物を持ち入り口へ向かう。
老舗の旅館にたどり着いて、引き戸を開ければ女将が待っていた。

「遅くにすまないな」

「いえ、駒門様。お待ちして降りましたよ」

「夕飯も済ませてあるから、これからはふたりにしてくれ。案内も必要ない」

「はい、明日の朝食はどういたしますか」

「朝食は食堂の方へ行くから、部屋には持ってこなくていい。遅くに、しかも急に悪いな」

「お越しいただけただけで、光栄です。ではごゆっくりどうぞ。何かありましたらご連絡ください」

「ああ」

千陽と自分の分を持ち、旅館内に入る和モダンな内装に千陽はキョロキョロとあたりを見渡していた。
名前を呼べば、子犬のようにそばに寄って来て、そのままいつも利用している部屋へ向かう。
一番奥の、高級な部屋。
仕事で悩んだり、落ち着きたい時にいつも利用している海の見える部屋だ。
中に入り、靴を下駄箱に入れた。
部屋の中に入って荷物を置いた。
千陽は出窓まで駆け寄り、窓の外を眺めている。
途中のコンビニで買ったビールを冷蔵庫に入れてから、千陽のそばへ腰を下ろした。
出窓にふたりで腰をかけていると、流れ星がひとつ流れる。

「千陽」

「何?」

「次のヒートが来たら、番になるか」

ぼんやり、窓の外を眺めながら呟く。
千陽は戸惑うように母音だけを漏らしてから、俺のTシャツの裾を掴んだ。

「い、いいのか? 駿さん、嫌だったから、初めての時、噛まなかったんじゃないの」

「…は?」

「だって、子どもできたら困るって、それに、噛まないように、首輪つけたし…」

「…そうじゃない」

千陽の方へ視線を向ける。
不安そうに、つり目が揺らいでいた。
ゆらゆら揺れる瞳を見ながら、千陽の両手を握る。

「あのまま、本能のままお前を噛んでいたら、きっと俺もお前も後悔していた。…お前は学生で未成年で、俺は教師。その立場も考えたんだ、あの時は」

「運命の番って、そんな理性で抗えるの? 俺、あの時、センセーに噛まれても後悔しなかったよ」

「…運命の番は、たとえ嫌い合ってても、どんなことがあっても離れられない。お前はまだ若いから、縛りたくないと思ったのが一番強かった。それに毎月α用の抑制剤飲んでたからある程度は我慢できたんだ」

「…せんせ、優しいね」

そう言って泣きそうな顔で笑った千陽を、ぎゅっと抱きしめた。
それから身体をゆっくりと離して、唇を触れ合わせる。
千陽の頬に熱い涙が伝った。

「千陽、好きだよ」

肺に染み渡るように吸い込んだ煙草のように、思いを吹き込む。
唇に触れたその言葉に、千陽の手が震えながら背中に回って来た。
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