そうめん
「夕飯でも食べに行くか」

日が長くて、17時を過ぎてもまだとても明るい。
窓の外を眺めていたら、声をかけられて振り返る。
こくりと頷けば、センセーがカバンに資料を詰め込み始めた。

「ほら、鍵」

「乗って待ってればいい?」

「あぁ。冷房かけといて」

「りょ」

鍵をポケットに入れてから立ち上がる。
待ってるね、と伝えてから、化学科資料室を出て行った。
廊下を歩きながら、三階の窓から外を眺める。
外は暑そうで嫌になった。
階段を駆け下りて、玄関へ向かえば声をかけられた。

「鹿瀬?」

あまり得意ではない声。
嫌々振り返れば、クラスメイトの姿があった。

「辰城たつしろ…」

「鹿瀬、なんで学校にいるの?」

「…呼び出し。お前は」

「俺? 俺は部活。知らなかった? 弓道部入ってるんだ」

そばに寄ってきた辰城和樹に、眉を寄せた。
センセーに言われた通り車に乗り込んで冷房をかけて、少しの間うとうととする気持ち良さを今すぐにでも味わいたかったのに。
そう思いながら、小さく舌打ちした。

「ダルいから帰る」

嫌そうな声で伝えて玄関へ足を進めようと身体の向きを変えた。
不意に手首を掴まれて辰城の方へ引かれる。

「っんだよ…!」

大きく振り返って、辰城を見上げた。
その目は大きく見開かれていて、どこか苛立ったような表情をしている。
何事かと思いながらもその手を振り払った。

「…そ、の、首輪…、鹿瀬、Ωだったのか」

「だったら? なに。きもいんだけど」

「だから、俺…」

気持ち悪い欲をまとった目線に、舌打ちをして下駄箱に向かう。
靴を取り出してからもう一度辰城を見れば、αの香りがした。
身の危険を感じ、急いで靴を履いてから校舎を出る。
何かあれば殴ればなんとかなる、そう思うが、相手がαなら話は違う。
辰城は追いかけてくる様子はない。
センセーの車が停めてある駐車場へ走った。
鍵を開けて乗り込んで鍵を閉めると、ようやく安心する。
エンジンをかけてから助手席のシートを倒して、荒れた息を整えるように深呼吸した。

「…は…、はあ…」

額にかいた汗が気持ち悪くて袖口で拭う。
車の中はバニラの香りで満ちていて、気持ちが落ち着いていった。

「早く」

思わず口からこぼれ落ちた。
センセーの香りをそばで嗅ぎたい。
目を瞑って、大きく深呼吸すれば窓がノックされる音が聞こえた。

「あ、せんせ」

窓の外を見ればセンセーが鍵、と唇を動かした。
鍵を開けてから、車に乗り込んできたセンセーに抱きつく。
ほのかに汗の香りと一緒にバニラの香りを感じてほっとした。

「センセー」

「おい、外だぞ」

「ちょっとだけ」

首筋にすり寄って思いっきり匂いを嗅ぐ。
センセーがため息をつくのが聞こえるけれど、嫌な気持ちを忘れたい。
バニラの香りが身体に染み渡り、気持ちよくなった。

「ん…」

「こら。夕飯食べに行くんだろ」

「センセーのうちに行きたい」

「…泊まって行くか」

小さく頷いたら、センセーに肩を押された。
嫌、と首を振れば、耳元でいい子だからと囁かれる。
センセーからゆっくり身体を離す途中で、額にキスをくれた。
背中を助手席の背もたれに預けてから、センセーがキスをくれた額に触れる。

「センセー、お願い」

「あ?」

「なるべく、早く噛んで、センセーのものにして。俺、」

「千陽」

名前を呼ばれ、センセーを見る。
センセーの優しい声が、耳に心地が良い。
ポタリと頬に涙がこぼれた。
センセーの声は諭すような声だった。

「千陽、何が食べたい」

「…重くないの」

「そうめんにするか」

「ん」

窓の外へ視線を向ける。
センセーに涙を見られたくなかった。
車が走り出して外の景色が流れて行く。
車から流れる微かなロックの音色に、目を閉じた。


「着いたぞ」

「ん」

目を覚まして、センセーの声に従う。
車から降りて、今度は自分の足で歩いた。
センセーの背中を追いかけて行く。
エレベーターの中に乗り込めば、そこは静かだ。
センセーの指先が、手の甲をくすぐってくる。
その指先を咎めるように手を裏返して指先を握った。
それから指を絡めれば、センセーの口角が上がる。
手を引かれて部屋に入る。
鍵を閉めてから靴を脱いで、リビングに入った。

「千陽、手洗ってこい」

「センセーは」

「俺はキッチンで洗うから。お前は洗面所行ってこい」

「んー」

手を洗いに洗面所に行く。
前回は、最終日に意識があったときに使った一回だけしか覚えがない。
キッチンで料理を始めたセンセーの背中に抱きついた。

「邪魔」

「ん」

「夕飯食べないのか」

「たべる」

「千陽」

「ん」

「何かあったのか」

「別にー」

背中にグリグリと額を押し当てる。
Yシャツから香る煙草の香りに、頬が緩んだ。
嫌な気持ちはだいぶ治まっている。
ひとりぼっちのマンションよりもずーっとここが心地よい。

「センセー、」

「家でまでセンセーって呼ぶな。仕事してる気分になる」

「んー。駿さん」

「ああ」

「駿さん」

もう一度背中にグリグリと額を押し付けて遊んでいたら、携帯が大きな音で鳴った。
ムッとしながら、センセーから離れて、携帯を確認すると幼馴染の名前が表示される。
携帯を睨みつけていると、センセーが出ないのかと顔を上げずに尋ねて来た。
テキトーに返事をしてから、通話ボタンを押せば、幼馴染の声が聞こえてくる。

「なんだよ」

“千陽、家にいないの”

「今出かけてる」

“そう…、千陽、最近遊んでくれないから、拗ねてみた”

「何それうざい」

“知ってる。なんでもいいけど気をつけるんだよ。千陽はΩなんだから”

「…わかってるっつーの」

幼馴染からの電話を切ってから、携帯をソファーに投げる。
ムカムカして仕方がない。
「Ωなんだから」なんて一番言われたくない。
聞きたくない、言葉。
わかってて使ってくるあいつは、幼馴染じゃなかったらボコボコに殴っていた。

「千陽、おいで」

こどもを呼ぶように手招きで呼ばれる。
小さく返事をしてから、センセーのそばによった。
いつのまにかセンセーは天ぷらを揚げていたようで、熱々のそれを箸でつまんで俺の口元に運んでくる。
意地の悪そうな笑みを浮かべたセンセーに応えるように、軽くセンセーのお腹を叩いた。
息を吹きかけて冷ましてから、噛り付く。

「ん、うまい。センセー料理できるんだね」

「そりゃな、一人暮らし長いし」

「ふーん」

「出来上がったから、皿でも運べ」

「はーい」

答えながら、センセーが出していたお皿をテーブルにせっせと運ぶ。
運び終われば、センセーが大きなガラスのお皿に氷とともに入ったそうめんを運んで来た。

「いただきます」

両手を合わせて挨拶をしてから、食事を始めた。
ん、冷えたそうめんが美味しい。
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