黒い影
指先を真っ赤に染めた血に体が冷えていく。
この場にいてはいけない。
神殿に戻らないと。
そうしなくてはいけない、真昼はそう思い明理を見た。
明理は驚いたように手のひらを見てから、あたりを見渡す。
ざわざわと森が音を立てていた。


「あ…、明理く…」

「お前どうにかしろよ!!」

「む、無理だよ…!」

「くそっ、本当にどうしようもねーな!!」

「…も、戻らなきゃ、神殿に戻らなきゃっ」

真昼が悲鳴のような声でいえば、どちらともなく走り出した。
来た道を戻るように走っていけば、すぐに泉と神殿が見えてくる。
息を切らしながら泉まで辿りつき、ようやくふたりは神殿に入った。
もう影は追って来ていない。
思ったよりも遠くに行っていなかったようだ。
あの暗い森の中、神殿まで戻ってこれてよかった。
真昼はそう思った。


「っは、…っはあ…」

足首がズキズキと痛んで、走った汗と冷や汗が混じる。
恐怖心に身体がこわばって、動けなかった。
足の痛みが強くなっている。
痛みと恐怖心からくる荒い息を整えようと、何度も呼吸していると隣ですぐに息を整えた明理が真昼の肩をつかんだ。


「なんだよ、なんなんだよ!! あれっ」

「…わ、わかんない」

「なんなんだよ…、なんなんだよ…っ」

取り乱す明理に肩を掴まれ揺さぶられる。
足を踏みしめてその衝撃に耐えていると、痛みが増して冷や汗がまた止まらなくなった。
ぎゅっと我慢していると、明理が真昼の腕を掴み直し、また神殿から歩き出そうとする。


「ど、どうしたの…」

「ここにいられないから、いく」

「え…」

「ここにいたって何も変わらないだろっ」

怒鳴った明理に何も返せず、引っ張られていく。
痛む足に走れないのに、連れて行かれ、真昼はまた唇を噛みしめそうになった。
ここにいた方が、安全なのに。
心で呟いた声は言葉にならなかった。


「さっきのやつ、また、」

歩きながらあたりを見渡せば、思ったよりもたくさん影のようなものが浮いているのが見えた。
今はふわふわ浮いているだけだけど、これから何が起きるかわからない。
先ほど飛んで来た影は明らかに傷つける意図を持って飛んで来た。
見たことのない速さで動いていく得体の知れない物体に、背筋が泡立つ。
どんどん進んでいく明理の腕の力が強くなって、真昼は小さく声を漏らした。


「…っ」

「早く歩けよ!! 進まないだろっ」

「あっ…!」

明理に強く腕を引かれ、真昼はつまづいた。
転んだ時に膝を擦りむいて、ヒリヒリと痛む。
真昼に引っ張られる形で止まった明理がきっと眉を釣り上げた。


「鈍臭いなっ、こうしているうちに何が起きるかわからないんだぞっ」

「い…、痛い、足が痛いの、昼間にひねって…、も、もう歩けないよ…」

「弱音吐くな!! そんな暇なんてないだろ!!」

無理やり引っ張り立ち上げようとされ、真昼は眉間にしわを寄せた。
足の痛みがひどくて、膝がかくんと折れてしまう。
力が抜けて、もう歩けそうになかった。


「立てよっ」

大きな声で怒鳴った明理の声をきっかけとしたのか、黒い影が一瞬動きを止めた。
それから、一斉に真昼たちの方へ向きを変えたように見える。
ブワっと冷たい風が一瞬吹いて、頬が痛んだ。
襲われる。
そう思った瞬間、黒い影が迫ってくるのが見えた。


「…っ! 」

身体がすくみ上がり、真昼は息が止まりそうになった。
もう駄目、たくさんの影が覆いかぶさり黒くなっていく視界に、真昼は意識を失いそうになった。


「助けてっ」

あの人の姿を思い浮かべて、目をぎゅっと瞑った。
これから襲ってくる痛みに身をすくめて、小さくなる。
明理のことが気になったけれど、目を開けられなかった。

ふと身体が暖かな感覚に包まれた。
真昼をいつも抱きしめてくれるあの大きな腕に包まれたような。
そんな気持ちになった。
いつまでも襲ってこない痛みに恐る恐る目を開く。
黒い影はもうそこになくはらはらと黒薔薇の花びらが散っていった。
地面に落ちる黒薔薇の花弁。
真昼はその花弁をそっと指先で触れた。
ほのかに温かい。
真っ白い、あの部屋を思い出して、その花弁を手のひらで包んだ。
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