杏のジャム
「行ってきまーす」

「じゃあ、頼んだ」

風太とむくを玄関で見送ってから、汰絽はキッチンへ向かった。
ボウルや泡だて器を用意しながら、パンケーキの準備を始める。
杏が来るまで後一時間ほどだ。

パンケーキが出来上がって、盛り付けも終わったところでチャイムが鳴った。
エプロンで手を拭いてから玄関へ行き、ドアを開ける。
紙袋を片手に持った杏がごめんね、と笑った。


「これ、紅茶〜。美味しいやつだよ」

「ありがとうございます。今、淹れるから座っててくださいな」

「うん、お言葉に甘えさせていただくね」

いつもは風太が座っているところに腰を下ろした杏は、ぼんやりとテーブルを眺めている。
普段の緩やかで温かい笑みとは違った、どこか寂しさや切なさの混じった笑み。
その違いはきっと、杏と親しくなった人にしかわからないだろう。
汰絽は紅茶をティーポットに入れてからテーブルに運んだ。
紅茶を淹れるティーカップを運び、それからパンケーキを運ぶ。
杏の目の前に置くと、杏は嬉しそうな声を上げた。


「すごい。おいしそう…! 汰絽ちゃんが作ったの?」

「はい、出来立てだから、温かいので早めに食べましょうか」

「うん、いただきます」

フォークでナイフでパンケーキに切れ目を入れて、口に入れる。
食べている杏を見ながら、汰絽は紅茶を飲んだ。
杏の言っていた通りとても美味しい。
パンケーキにもあう味だな、と思いながら、汰絽もパンケーキを食べ始めた。


「このジャム、杏?」

「そうですよ。この時期だと瓶のジャムなんですが、いかがでしょうか」

「とっても美味しいです。汰絽ちゃんの旦那様は幸せだねぇ」

ふふ、と笑った杏に汰絽も小さく笑う。
風太は甘いものが苦手だから、こうして自分が作った甘い物を食べて喜んでくれると嬉しい。
美味しそうに食べる杏に、良かった、と呟いた。


「…汰絽ちゃん、よし君から…、何か聞いてない?」

「よし君からですか? 何も聞いてないですよ」

「そっか…」

「よし君が、どうかしましたか?」

汰絽が杏の様子を見ながら、そう尋ねると、杏の手が止まった。
きゅっと口をつぐんだのを見て、汰絽は静かに杏の返事を待つ。
好野が杏と一緒に仕事をしている東京に行っていることは聞いていた。
それに、好野から数時間おきにメールを貰っていたから、楽しかったことはわかる。
しかし、昨日の夕方からメールがぱったり来なくなって少しだけ心配していた。


「…よし君に、迷惑、かけちゃった…」

「迷惑ですか?」

「詳しくは、言えないけれど。俺、やっちゃいけないことした。よし君の気持ち、考えないで、自分の気持ちばかり押し付けてっ」

「杏先輩、落ち着いて、ゆっくりで大丈夫」

「ん、ごめ…、ごめん」

汰絽に促され紅茶を飲む。
杏は食べかけのパンケーキを見つめながら、また唇を噛んだ。
ぎゅっとティーカップを握る。


「俺、一番自分がされたら嫌なこと、よし君にした。昨日、すっごい嫌な気持ちになって、それに、すごく寂しくて辛くて、…ごめんね、いきなり電話して」

「ううん、大丈夫です。僕でよければ、いつでもお話聞きますし。…よし君と、喧嘩したんですか」

「喧嘩じゃない。…喧嘩の方がよっぽどよかったよ。俺、もうよし君と一緒に居られない」

「…よし君、そんなに簡単に誰かを突き放すこと、できませんよ」

ぽたぽたとテーブルの木目に染みが出来る。
杏が泣いているのが分かり、汰絽は口を閉じた。
立ち上がって手を伸ばし、杏の頬を指先で拭う。


「杏先輩。よし君、仲良くなった人を突き放すこと、できないんです。よし君ってすごい優しいじゃないですか。杏先輩も、知ってますよね」

「うん、知ってる…」

「僕が知る限り、よし君どんなにひどい喧嘩しても、ちゃんとその人とお話しするんです。ちゃんと仲直りするんです。だから、よし君は杏先輩のこと、突き放したりしません」

「…っ」

零れる量がいっぱいになって、杏は目元を手で擦った。
この人も泣くんだな、と思いながら、汰絽は擦ったらだめですよ、と杏にティッシュを渡す。
それから立ち上がって洗面所からフェイスタオルを持ってきた。
軽く濡らしてレンジで温め、ホットタオルを作る。
杏に渡してから隣に座って、杏の手を握った。


「杏先輩、僕は鈍くて人の気持ちに気付きにくいけれど…、杏先輩のこと大好きなので、お話してくれてすごくうれしかったです」

緑色の瞳がじっと見つめてそういうのを聞きながら、杏はありがとう、と本当の笑みで笑った。
prev | next

back
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -