怒っている
怒っている汰絽を見たのは、これが初めてかもしれない。
軽くぷんすかしている姿は幾度か見てきたが、これは静かな怒りだ。
眉間にしわを寄せ、唇をむっとさせている。


「たろ、どうしたんだ」

むくを渡され、抱きしめる。
すやすやと眠るむくは幸せそうで、汰絽とは正反対だ。


「…挨拶のキスってのは?」

「…っ」

足を止めた汰絽の顔を覗き込む。
怒りで唇が戦慄いて、汰絽はぎゅっと拳を握った。


「何でもないですっ。ちょっと犬にかまれた程度です」

「どこにキスされた?」

「鼻をかまれました!」

「…鼻ァ?」

首を傾げた風太に汰絽はむっとして歩みを進める。
鼻先のキス。
唇ではなくてよかった、とほっと一息ついた。
とりあえず、また次あった時はぶん殴ろうと頷いてから、汰絽の後ろを追いかける。


「…珍しく怒ってるんだな」

「家族でもないのに、キスするなんて、いやです」

「それって、家族ならいいのか?」

「え?」

「…俺にキスされてもいいのか?」

もう一度足を止めた汰絽はぽかんとして風太を見上げた。
風太も足を止めると、汰絽はすこし困ったように首を傾げる。
困ったような顔に、風太はごめん、なんでもないといって歩き始めた。
汰絽もその話はそこまでにして、そんな風太を追いかける。


「んー」

「むくが起きちゃったみたいです」

「そうだなー」

「いちるは…?」

目が覚めたむくの一言に汰絽がむっとしたのが分かって、風太は苦笑をした。
汰絽はそっぽを向いて、小さくため息をついてから、むくの頭を撫でる。


「むく、自分で歩くか」

「んんー。おてて」

頷いたむくは風太に下ろしてもらい、右手を汰絽、左手を風太に繋いでもらい帰り道を歩いた。
少しだけ胸にもやもやを抱えながら、汰絽はもう一度ため息をついた。
東条が言っていたことが、そのモヤモヤであることだけははっきりとわかっている。


「たろ?」

風太に呼ばれ、汰絽はそちらを向いた。
もう暗くなり始めている空の下、風太の優しい顔に少しだけ、もやもやが張れたような気がした。
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