時計の針を五分戻して



時計の針を五分戻して


アパートの階段を駆け上る。
訪れた部屋のドアの前で、鍵を取り出そうと左手で鞄を探りつつ、右腕にはめた腕時計を見やって、大石は落胆した。

針が指すのは、十二時をわずかに回った時刻。
間に合わなかった。
11月28日。……英二の誕生日に。


はずんだ息を整えながら、大石はこの時計が狂っていることを少し期待したが、それはありえないことだった。就職祝いに父から贈られたこの腕時計は、常に正確な時刻を指し示すものだった。
大石は途方にくれたように針を見つめる。魔法が使えたら、などと現実離れした思考が頭を過ぎるが、そんなことは時計が狂うよりもありえないことだ。
そこに急にドアが開き、部屋の主が顔を覗かせる。
「……英二」
どうして、自分の到着に気付いたのだろう。
大石がそう口にする前に、彼は少し苦笑しながら、その疑問を解消した。
「大石、足音でかいよ。近所迷惑じゃん」
「あっ……ごめん」
大石は咄嗟に詫びるも、もっと先に謝らなきゃいけないことがあることに気付く。
「英二、その……」
間に合わなくてごめん。
「うー寒い!ほら、早く入れよ大石」
「うわ!」
しかし、急に英二に腕を引っ張られ、その言葉は妨げられた。よろけながら家の中へと足を踏み入れた大石は、何とか体勢を持ち直すと、取りあえず鍵をかけようと後ろ手にドアを探った。そんな大石を放って、英二は部屋の奥へと進んでいく。
そして一度立ち止まると、そのまま振り向かずに呟いた。
「でも、急いでくれてありがとな」
間に合わなくてごめん。
一度飲みこんだその言葉を、大石は口にすることができなかった。


キッチン兼廊下を進み部屋の中へと入ると、テーブルの上にはラップのかけられた料理が並んでいた。
「温め直すからちょっと待ってて」
と皿を持ち上げる英二の手に、大石は手を重ねる。
「俺がやるよ」
せめて何かがしたかった。英二はそんな大石の顔を見つめると、少しばかり何か考えるような顔をした。そしてすぐに笑顔を見せ、
「じゃあ、これチンして、あと箸と小皿出しといてくれる?俺は味噌汁温めてくるから」
と大石に皿を渡し、キッチンへと向かった。
大石はその皿をレンジにかけると、上着を脱ぎ、ネクタイを外した。自分の上着を掛けるついでに、床に放ってある英二のジャケットも拾い、同じようにハンガーに掛けた。キッチンへ向かい、戸棚から小皿と箸を足り出し、テーブルへと並べた。
そうしているうちにレンジが鳴ったので、皿を取り出す。テーブルへと戻しラップをはがすと、たくさんのエビフライと串揚げが顔を覗かせる。大石と英二、二人の昔からの好物だ。
ふと、壁にかけてあるカレンダーが目に入った。
11月のカレンダー。
28日のところに、二人で一緒にしるしをつけた。


誕生日、帰りが遅くなるかもしれないと大石が告げた時、英二は気にも留めないような様子で、軽く笑っていた。

今、仕事大変そうだもんな。
じゃあ今年は家で好きなもんたくさん食べてまったり過ごそうぜ。俺ごちそう用意するから、期待しとけよ。ケーキも帰りに買って来るし。俺の好きなのでいい?
え?いいよ、気にしなくて。その代わり、とにかく急いで早く帰ってくること!あとプレゼントも忘れずに、ね。


大石は、その時の英二の笑った顔を思い出す。
今日に限って、どうしても帰れない、急な仕事が入ったのだった。でもそんなのはいい訳にすぎなかった。誕生日には間に合わなかった。
英二はこの部屋で、どんな気持ちで一人でいたのだろう。
時計の針が頂点を指す、誕生日が終わる瞬間、どんな気持ちでその針を見つめていたのだろう。
約束を守れなかった自分自身をひどく情けなく思い、大石はぎゅっと拳を握りしめた。


「こら、大石!」
急に英二が大石の頬をつねる。大石は驚いてはっと顔を上げた。いつの間にか、英二はキッチンから戻ってきたようだった。
「なに暗い顔してんだよ」
「それは……」
「せっかくの俺の誕生日なのにさ!」
ほら、と英二は大石の眼前に何かを突きつけた。一瞬焦点が合わず、それが何であるのかが分からなかったが、よく見てみると英二の使っている目覚まし時計だった。もっとも、大石が英二の部屋に泊まる時は、その時計を止めるのは専ら大石の仕事であったが。
「よく見て」

その時計の針が指す時刻を見て、大石は目を見張る。


針が指すのは、十二時を回るわずか直前。
大石は一瞬混乱する。
誕生日がまだ終わっていない。
ではさっき見た時間は間違っていたのか。いや、そんなはずはない。
英二が大石の顔を覗きこみ、にっと笑う。
「大石が急いでくれたから、ちゃーんと間に合ったね!」

すぐに英二が嘘をついていることに気がついた。
そして、誰のためにそんな嘘をついたのかも。


その瞬間、大石は英二を抱きしめていた。

間に合わなくてごめん。
一人で待たせてごめん。
準備できなくてごめん。
嘘をつかせてごめん。そして、ありがとう。本当にありがとう。
たくさんのごめんとありがとうが、次から次へと胸に溢れ出て、言葉にならなかった。気持ちが喉につかえてしまったみたいに、何も言うことができなかった。
せめて少しでも伝わるように、英二を強く、強く抱きしめる。

「ほら言ってよ、大石。俺の誕生日終わっちゃうじゃん」
英二は大石の背中を軽くたたいて、その言葉を催促した。
そうだ、ありがとうよりごめんより先に、伝えなきゃいけないことがある。
大石は英二を抱きしめたまま、その嘘に乗っかって、今日しか言えないその言葉をゆっくりと噛みしめるように口にする。

「英二……誕生日、おめでとう」


大石の肩の向こうで英二が笑う。
その表情は大石からは見えなかったけれど、彼には英二がいつもと同じように、幸せそうに微笑んでいることが分かった。



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