夜半のこと



夜半のこと

青春学園中等部のテニス部が全国制覇を目指し臨んだ合宿も、残り僅か二日となった。
合宿当初は中々に寝付かない者もいたが、流石に疲労が溜まってきたのか、今夜は皆早々と身体を横たえ眠りに就いた。
大石秀一郎もその内の一人で、寝床に入るとすぐに、まるで引き込まれるような感覚で夢の中へと潜っていった。
この部活のダブルスの要を担う選手として気合を入れた練習を続けたのに加え、副部長としての雑務も多く、疲労のため身体が眠りを欲していたのであろう。



夜半のことであった。
大石は何かに揺さぶられ、夢の淵から意識を浮上させた。ダブルスの要として、彼の相棒を務める菊丸英二がその原因であった。
またか、と大石は心の中で呟く。

「大石、大石、トイレ付いて来て」
菊丸は不安気な瞳で、大石を見詰める。大石は菊丸の顔を確認すると、一つ溜息を零した。
彼は部内でも気を配る性質であり、仲間に対して親切を尽くしていた。それを菊丸は「お人好し」とからかうのであったが。
それならば何故にその「お人好し」である大石は菊丸の申し出をいささか迷惑そうな表情で受け止めたのか。
答えは、それが今夜まで毎晩続けられた申し出だったからに他ならない。

「またか、英二。寝る前にトイレに行けって言っておいただろう」
大石は厳しい声色で問うた。
「だって、暑くて寝る前に水飲んじゃったんだもん」
菊丸は更に大石に詰め寄る。
「ねえお願いお願い!こんなこと大石にしか頼めないんだよ」


いくら迷惑だと感じても、所詮「お人好し」
申し訳なさそうに、精一杯懇願する菊丸の姿を見て、大石は承諾せざるを得なかった。



非常灯の緑の光が照らす、暗い廊下で二人は歩みを進める。
誰もが寝静まり、物音もしない薄暗い廊下はまだ歳が十半ばの少年にとってはこの上なく不気味なものであろう。菊丸は大石の腕を取りつつ恐る恐る歩む。尤も、大石の方は何とも平然とした様子であったが。

廊下の突き当たりの手洗い場に着くと、菊丸は、
「絶対先に帰らないでよね」
と、大石に念を押して中へ入って行った。


大石は手洗い場の外の廊下で菊丸を待ちながら、考えを巡らせる。
自分が合宿での疲れを今一癒しきれないのは毎晩菊丸に起こされる所為ではないか。大体、何故トイレに行きたくなることが分かっているのに寝る前に水分を摂るのだろうか。



人は、環境が変わると中々寝付けないことが多い。
菊丸も例に違わず、毎晩一度はつい目が覚めてしまうようだった。
それは常日頃明るく、気ままに振舞っている様に見える菊丸からは少し印象の離れた繊細な姿だった。
つい目が覚めてしまい、真暗闇の中で恐怖で眠れず、仕舞には用を足したくなるような気がしていてもたってもいられなくなる、と彼は大石に漏らした。

そんな彼の意外な一面を、自分だけが気づいている事に、少しの優越感を抱いていることを大石は自覚していた。
先程も、「大石にしか」という言葉につい心が踊ってしまったのは否めない。
きっと、もし明日同じ申し出があっても、受け入れてしまうであろう事が予測できて、大石は自分自身に呆れた。



「お待たせー」
菊丸が手洗い場から出てくると、二人はまた元の道を戻り始めた。
用を足して安心したのか、菊丸は先程よりいくらか機嫌が良さそうである。緑色に照らされた廊下の様子は一切変わっていないにも関わらず、軽々とした足取りで進んでいく。

部屋の扉をそっと開け、さて自分の寝床に戻ろうとした大石の袖を、何かがふと引っ張る。菊丸の指先であった。
何気なく振り向いた大石の視線を、菊丸が捉えた。


「大石、本当にありがとうね」


と、菊丸に満面の笑みで囁かれた大石は、「きっと」ではなく「絶対に」明日も申し出を受け入れてしまうであろう事を確信し、再び寝床へ戻り身体を横たえた。



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